| 1781年、父の死に伴いブリュッセルに移住、次いでフランス西部アンジェのピニロール陸軍士官学校に入学する。 |
| この時に習得したフランス語はのちに非常に役に立つことになる。 |
| 1787年に73連隊に入隊、軍人としてのキャリアを開始する。 |
| 1790年にアイルランド議会の議員に選出されると、革命フランスとの開戦準備や、カトリック教徒への参政権付与などを主張する。 |
| 1794年には対仏連合軍傘下の軍人として初の実戦参加を果たし、ベルギー・オランダ戦線でヨーク公フレデリック王子率いる軍勢の退却作戦を支援した。 |
| 1797年にはカルカッタに赴任、ベンガル地方の治安警備を担当する。 |
| その後1799年の第四次マイソール戦争、1803年のマラータ同盟との戦闘などを経て軍人としての頭角を顕し、1804年には本国よりナイト爵を叙された。 |
| しかしこの年フランスに第一帝政が成立すると、近い将来に起こりうるナポレオンとの対決を睨んで翌年には依願帰国した。 |
| 帰国直後には早くもハノーファー遠征軍に従軍。 |
| 1806年にはイギリス議会の庶民院(下院)議員に選出され、この同年ラングフォード卿の娘キャサリン・パクナムと結婚した。 |
| 翌年にはアイルランド担当大臣に就任する。 |
| 同年コペンハーゲンに遠征し、ナポレオンと提携するデンマーク軍を撃破、その功で翌1808年には陸軍中将に進級した。 |
| 同年、イベリア半島において半島戦争が勃発すると、ナポレオンに反抗するスペイン・ポルトガルの民衆を支援すべく、約9000の兵を率いて同地に出兵する。 |
| 初め半島西北端のア・コルーニャに上陸し、次いでリスボンに進軍してジュノー将軍指揮下のフランスのポルトガル遠征軍を撃破。 |
| こののち一旦帰国するが、入れ替わりにナポレオン本隊が半島に侵攻してスペイン全土を制圧。 |
| これを受けて1809年4月にポルトガル駐留英軍の総司令官として再度半島に派遣された。 |
| 同年7月、イギリス・スペイン混成軍を率いて、タラベラ・デラレイナで大激戦の末フランス軍を撃破。 |
| この時ナポレオンはウィーンに駐留していたが、この報に接し初めてウェルズリーの存在を強く意識するようになったといわれている。 |
| その後もポルトガルを拠点にフランス軍への抵抗を続け、1810年にはリスボンに侵攻してきたフランス軍を撃退し、ポルトガル攻略を断念させた。 |
| 1812年にはスペインにおけるフランス軍の勢力衰退を見て同国に侵攻し、マドリードを攻略して占領下に置くことに成功。 |
| その戦功をもって伯爵に叙された。 |
| やがてロシア遠征の失敗などを経てナポレオンが四面楚歌の状態に陥ると、イベリア半島におけるウェルズリーの英軍の勝利は決定的なものとなり、1813年にはピレネー山脈を越えてフランス領内に侵攻する。 |
| 1814年4月にトゥールーズ郊外でナポレオン退位の報に接し、同年6月にイギリスに凱旋帰国。 |
| その際国民の熱狂的な歓迎を受け、その名声を不動のものにした。 |
| 同年7月にはフランス駐在イギリス公使に就任、さらに翌1815年にはウィーン会議でカッスルリー外相が途中帰国した後の英国の全権代理を務めた。 |
| ついでナポレオンがエルバ島を脱出してパリに復帰すると、これを迎え撃つべくブリュッセルに急行する。 |
| 1815年6月18日のワーテルローの戦いではブリュッヘル元帥率いるプロイセン軍と協力してナポレオン撃破に決定的な役割を果たし、その野望を最終的に打ち砕くに至った。 |
| その後は政治家として活躍し、1828年には首相に就任、イギリス最後の公爵位を持つ首相となった。 |
| 首相としての事績では、国教会成立後さまざまな差別を受けていたカトリック教徒の人権を擁護した1829年の「カトリック解放令」が画期的なものとして知られるが、全般的にはその政策はむしろ保守主義が目立った。 |
| 彼が旧式の軍隊編成に固執したことがクリミア戦争における英国将兵の死傷者数を増やしたことにつながったとして、フローレンス・ナイチンゲールはその政治手腕に否定的な評価を下している。 |
| 他にオックスフォード大学の総長も務めており、1971年から1991年にかけて用いられた5ポンド紙幣にその肖像が使用されたことでも知られている。 |
| また、史上初の鉄道の開通式(1825年)に招かれた賓客でもあったが、ロケット号による死亡事故が起きて以後は大の鉄道嫌いになったといわれる。 |