| ペレストロイカによって、さまざまな社会・政治団体が生まれた中、ジリノフスキーは、その一つ「民主同盟」で政治活動を開始する。 |
| 1989年12月、ジリノフスキーはウラジーミル・ボガチェフとともに「ソ連自由民主党」創設に参加し、主導する立場となる。 |
| 1990年4月に党を結成、ならびに議長(党首)に就任し、11月には専従党員となった。 |
| 同政党はソ連内で2番目に登録され、そして公式に認可された最初の野党となった。 |
| ソ連共産党政治局の一員であったアレクサンドル・ヤコブレフによると、同党はソビエト連邦共産党の執行部とKGBの共同の計画であるという |
| ヤコブレフは自身の回顧録に、KGB議長のウラジーミル・クリュチコフがミハイル・ゴルバチョフとの会談でソ連自民党の傀儡と化している事業を提示し、党首の選出についてをゴルバチョフに知らせた、と書いている。 |
| ヤコブレフによると、政党名はKGB将官のフィリップ・ボブコフ(:en:PhilippBobkov)によって考案されたという。 |
| しかしながら、ボブコフは「この特定の社会的集団の利益と思想を管理するKGBの統制下で、セルゲイ・ズバートフ(:ru:Зубатов,СергейВасильевич)による偽の政党の結成には反対であると述べたAlexanderNikolaevichYakovlev''TimeofDarkness'',Moscow,2003,ISBN5-85646-097-9,page574().ThebookprovidesanofficialcopyofadocumentprovidingtheinitialLDPRfunding(3millionrubles)fromtheCPSUmoney.。 |
| ジリノフスキーの最初の政治的躍進は、1991年6月のロシア共和国大統領選挙への立候補であった。 |
| 「ウォッカの値下げ」など、大衆迎合的な公約を掲げて選挙を戦った。 |
| 内外のメディアからは泡沫候補扱いを受けるも、ソ連自民党は600万票を獲得し、得票率は7.81%で、ボリス・エリツィン、ニコライ・ルイシコフに次いで第3位となった。 |
| ジリノフスキーがKGB諜報員であったとか、ソ連自民党による政府へのまじめな反対は信用できない、というのはジリノフスキー自身が否定したことで、馬鹿げた作り話であるという見方がより一層進んだ。 |
| 1991年12月にソ連が崩壊したときもそのような印象は続いた。 |
| ソ連崩壊を受けて、ソ連共産党員が結集してできたロシア連邦共産党は野党となったが、ソ連自民党はロシアの政治:en:PoliticsofRussiaにおいては影響力があった。 |
| ソ連崩壊を受けて、ジリノフスキーは1992年4月に党名を「ロシア自由民主党」に改称。 |
| 旧ソ連邦(というよりも、旧ロシア帝国)の復活、アラスカのロシアに対する返還、北方領土返還の拒否及び東京に対する原爆投下発言など、過激かつ奇矯な言動と行動で西側諸国からは危険視される。 |
| しかし、ショック療法による生活苦にあえぐ貧困層のロシア国民からは支持を集める結果となり、1993年12月の下院国家会議選挙で自由民主党は第1党となる。 |
| ジリノフスキー自身も下院議員に当選した。 |
| ソ連自民党は1993年のロシア帝国議会で23%の票を集め、国中で幅広く説明をした。 |
| ソ連自民党は87の地域のうち、64の地域で上位の票を獲得した。 |
| このことは、現職のロシア大統領(当時はエリツィン)に対して再び争うことをジリノフスキーに促していた。 |
| エリツィンの大統領への立候補にはロシアの民族主義集団との競合が見られないという事実と、ロシア共産党の存在が外部の評者たちを警戒させた。 |
| とくに西洋では、そのような変化がすでに非常に脆い州のロシアの民主主義の生き残りに脅威をもたらすことを心配していた。 |
| ジリノフスキーは厳しい批判の焦点に立たされ、ロシアの権威主義と軍国主義の化身であるかのようであった。 |
| ジリノフスキーは、次第に民族主義的、極右的な言行が目立つようになり、1991年のソ連8月クーデターでは、副大統領(大統領代行)のゲンナジー・ヤナーエフの「国家非常委員会」を支持し、同委員会が取った非常事態を歓迎した。 |
| しかし、その後のジリノフスキーは奇矯な振る舞いが絶えず、次第に世論の支持を喪失し、1995年の下院選挙ではロシア連邦共産党に第一党の地位を譲る結果となる。 |
| ジリノフスキーは1996年6月の大統領選挙にも立候補するが第5位(得票率5.7%)で落選した。 |
| この大統領選挙を機に、表面的には政府を批判しながらも、最後には、政府を支持するようになる。 |
| 1999年12月の下院選挙では、資格審査でロシア自由民主党は選挙に参加するための登録ができなかったため、愛国主義政治ブロック「ジリノフスキー・ブロック」を急遽結成し、選挙に臨んだ。 |
| 選挙後、下院副議長に選出された。 |
| 2000年の大統領選挙では、中央選挙管理委員会から、所得税の申告漏れを理由に登録を拒否され、立候補を断念した。 |
| 2003年12月の下院選挙ではロシア自由民主党は議席を伸ばし、2007年12月の下院選挙でも議席を伸ばした。 |
| 2008年3月2日に実施されたロシア大統領選挙に出馬するも、得票率10.6%で落選した。 |