| 1854年のカンザス・ネブラスカ法はリンカーンをワシントンへ引き戻すきっかけとなった。 |
| 1854年10月16日のピオリアにおけるカンザス・ネブラスカ法に反対する演説は、当日集まった自由土地主義の弁論家達の中で彼への注目を集めさせることとなった。 |
| 1858年にスティーブン・A・ダグラスへの対立候補として上院議員選挙に出馬するが、選挙活動中のダグラスとの一連の全国討論会は国を二分することとなった。 |
| 当時多くの東部共和党員はブキャナン政権への反対勢力の全国的指導者としてダグラスを支援した。 |
| 選挙自体はダグラスが接戦を制したが、選挙活動におけるリンカーンの雄弁さは彼を政治的注目候補とした。 |
| リンカーンとダグラスの間で7回にわたって行われた「リンカーン=ダグラス論争」の討論は地方政治家に過ぎなかったリンカーンを全国的な政治家に押し上げた。 |
| 1860年の大統領選挙での共和党大統領候補に指名される。 |
| 大統領候補に名乗りをあげた共和党政治家の中では対南部強硬派のウィリアム・スワードが本命であったが、多数派工作の末、内戦を恐れた穏健派の推したリンカーンが、無難な妥協候補として共和党大統領候補に選ばれた。 |
| 大統領選挙では、リンカーンは選挙戦の最中11歳の少女グレース・ベデルに「ひげを生やしたほうが良い」とアドバイスされ、それに従ってひげを生やした。 |
| リンカーンは民主党の分裂も幸いして、4割に満たない一般投票得票率ながら約6割の選挙人を押さえてジョン・ブレッキンリッジ、スティーブン・ダグラスなどを大差で破り、1860年11月6日に第16代アメリカ合衆国大統領に選出された。 |
| 共和党員として初の大統領であった。 |
| 選挙戦直後、南部諸州はリンカーンの勝利に応じて連邦からの脱退を明らかにし、国内の緊張は大幅に増加した。 |
| リンカーンはメリーランド州ボルティモアで暗殺未遂事件に遭遇し、1861年2月23日にワシントンD.C.に変装の上秘密裏に到着した。 |
| 南部諸州はこのリンカーンの行為を臆病だとして嘲笑したが、護衛陣の努力は思慮深い物であった。 |
| 1861年3月4日の就任式では、ターナーがリンカーンの護衛を行った。 |
| また、連邦軍の大規模な守備部隊が大統領及び首都を防衛する準備を行っていた。 |
| リンカーンは就任教書演説で「この国及び国家機関は、国民の下にある。 |
| 国民が存在する政府に飽きているならば、彼らにはそれを修正する憲法上の権利、あるいはそれを分割または倒す革命的な権利を行使することができる。 |
| 」と語ったものの、南部の離反を防ぐため奴隷解放には言及しなかった。 |
| 1862年、「ホームステッド法」を可決。 |
| これは、すべてのインディアンを保留地(Resavation)に定住させ、父系社会のルールのもと(インディアンの社会は母系である)、彼らに狩猟民族であろうと遊牧民族であろうと、一律にその文化を捨てさせ、農業を強制するものである。 |
| この年の夏、11年前に狩猟禁止の保留地に強制移住させられ、条約で保証された年金(食糧)配給を止められて飢餓状態となったミネソタ州の狩猟民族ダコタ・スー族(サンテ・スー)インディアンが、大統領直轄の「BIA」(インディアン管理局)に対して、「領土と引き換えに条約で保証した年金を支払え」と要求。 |
| これを無視されたため大暴動を起こした。 |
| これに対し、リンカーン大統領はジョン・ポープに暴動弾圧を命じた。 |
| ジョン・ポープは以下の声明を行ったが、リンカーンはこの声明になんの異議も唱えなかった。 |
| 「私の目的は、スー族をすべて皆殺しにすることだ。 |
| リンカーンは南北戦争前の南北の緊張感に配慮して、ミネソタ州に200万ドルの連邦融資を持ちかけ、審議なしで訴追された38人のインディアンを死刑にすることでミネソタ州と妥協した(ダコタ族に対する年金負担予算は年140万ドルだった)。 |
| ファイル:MankatoMN38.JPG|thumb|200px|ミネソタ州マンカトで行われた38人のダコタ族の一斉絞首刑執行。 |
| カーソンは「ニューメキシコ義勇軍第一騎兵隊」を率いて、殺人、強姦、放火など徹底的な焦土作戦を行い、ナバホ族のトウモロコシ畑や小麦の畑を焼き尽くし、馬とラバを43頭、羊とヤギを1000頭以上奪った。 |