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プロフィール
- エクトル・ベルリオーズとは
- 幼年期
- 青年期
- 音楽院時代とローマ賞
- 帰国後と中期の活動
- 演奏旅行と指揮活動
- ロシアへの演奏旅行
- ロンドンでの指揮活動
- パリ帰国と相次ぐ不運の連続
- 成熟期
- 晩年とその死
- 遺産
- エピソード
- ハリエット・スミスソンとの関係
- 音楽的影響
- 音楽作品
- 関連サイト
ルイ・エクトル・ベルリオーズ(LouisHectorBerlioz,1803年12月11日-1869年3月8日)は、『幻想交響曲』で良く知られているフランスのロマン派音楽の作曲家である。この他に『死者のための大ミサ曲』(レクイエム、1837年)にみられるように、楽器編成のはなはだしい拡張や、色彩的な管弦楽法によってロマン派音楽の動向を先取りした。 ベルリオーズの肖像はかつてフランス10フラン紙幣に描かれていた。
幼年期
| フランス南部イゼール県のラ・コート=サンタンドレ(LaCôte-Saint-André)に生まれる。 |
| ここはリヨンとグルノーブルのほぼ中間に位置する。 |
| 母親のマリー・アントワネット・ジョセフィーヌ・マルミオン、父親で開業医のルイ=ジョセフ・ベルリオーズとの間で、長男として育てられる(このうち6人中2人は早世)。 |
| 1809年、6歳の時から町の教会に付属する小さな神学校に入学するが、間もなくして1811年末に閉鎖されてしまい、18歳になるまで家庭で父親の手によって教育された。 |
| 家庭ではラテン語、文学、歴史、地理、数学、音楽(初歩程度)を習う。 |
青年期
| 1817年ないし1818年頃、14歳のベルリオーズは父親の机の引き出しからフラジオレットを見つけ、吹く練習をする息子の様子を見た父親は楽器の使い方を説明し、程なくしてフルートを買い与える。 |
| その後15歳になってからはギターも習い始めている。 |
| 作曲は同年頃に独学で学び始め、父親の蔵書からラモーの『和声論』を見つけるものの、理論の基礎ですら身につけていない彼にとっては難解なものであった。 |
| しかしシャルル・シモン・カテルの『和声概論』を読んだ時は、最初は難解ではあったが徐々にのみ込んでいった。 |
| ある程度の知識を得て作曲・編曲に挑戦し、室内楽曲、歌曲、編曲作品を作曲している。 |
| なお最初に作曲された作品は『イタリアの主題による協奏的ポプリ』(H.1)という作品である。 |
| この他、1819年頃に2曲のフルート五重奏曲(H.2,H.3、共にフルートと弦楽四重奏)を作曲し、『回想録』には「3人の音楽愛好家と先生、そして私の5人で演奏した」と書かれている。 |
| しかし後年になって、これらの楽曲はごく一部を除き、全て焼き捨てられてしまう。 |
| 1821年、18歳の時にグルノーブルで行われたバカロレア(大学入学資格試験)に合格し、家業を継ぐ名目でパリに行き、医科大学に入学する。 |
| しかし青年ベルリオーズは解剖学を学んでいる途中で気がひるんでしまい、次第に医学から音楽へ興味が移り、オペラ座に通うようになる。 |
| それから1年後の1822年に父親の反対にもかかわらず医学の道を捨て、音楽を学び始めた。 |
| この時期に医学大学に行く代わりに、コンセルヴァトワールの図書館に行っている。 |
| そこでは楽譜を複写したり、楽曲の分析などを試みたりしている。 |
| 同時にベルリオーズは再び作曲を始めており、フランスの詩人ミルヴォワの詩によるカンタータ『アラブの馬』(H.12)と3声部のカノン(H.13)を作曲する。 |
| 前者のカンタータは独唱と大管弦楽のための作品であるが、カノン(H.13)を含む2つの作品はいずれも紛失している。 |
| 1823年にパリ音楽院に入学して、音楽院の教授ジャン=フランソワ・ル・シュウールにオペラと作曲を学ぶKamien241。 |
| また早くからフランスのロマン主義運動に一体感を持つようになり、アレクサンドル・デュマやヴィクトル・ユゴー、オノレ・ド・バルザックらと親交を結ぶ。 |
| 後にテオフィル・ゴーチエはこのように述べている。 |
| 「エクトル・ベルリオーズは、管見によると、ユゴーやドラクロワとともに、ロマン主義芸術の三位一体をなしているようだ」。 |
音楽院時代とローマ賞
| ジャン=フランソワ・ル・シュウールの下で音楽を学び、2年後の1824年に最初の本格的な作品である『荘厳ミサ曲』(H.20)を作曲。 |
| 1825年にパリのサン・ロッシュ寺院で楽長のマッソンによって初演されたが、未熟であるがために失敗する。 |
| この後に作品を大幅に加筆修正を行い、同年にオーギュスタン・ドゥ・ポンスに借金をして再演され、成功を収める。 |
| またこの頃からローマ賞に挑戦することに意欲を掻き立てている。 |
| 1827年からローマ賞に挑戦し、同年の7月に応募作としてカンタータ『オルフェウスの死』(H.25)を作曲する。 |
| その後も以下のように毎年応募する。 |
| また9月に当時熱狂的に話題を呼んでいたイギリスから来たシェイクスピア劇団の女優ハリエット・スミッソンの出演する舞台を見て、衝撃を受ける。 |
| このことが2人の運命的な出会いであった。 |
| 1828年の3月、音楽院で開かれたフランソワ・アブネックの指揮による第1回の定期演奏会でベートーヴェンの交響曲第3番『英雄』と第5番『運命』を聴いて、大きな啓示を受ける。 |
| 6月、2度目となるローマ賞への挑戦として『エルミニー』(H.29)を作曲。 |
| 惜しくも2票の差で第2位となる。 |
| 1829年、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの『ファウスト』(ジェラール・ド・ネドヴァルの仏語訳による)を読んで感銘を受け、このテキストを用いて『ファウストからの8つの情景』(H.33,Op.1)を作曲する。 |
| 出版の際に「作品1」と番号を付ける。 |
| 7月に3度目の挑戦となるローマ賞の応募作として、カンタータ『クレオパトラの死』を作曲するが、劇的で過激な内容から審査員たちの顰蹙を買われ、受賞を果たすことが出来ずに終わる。 |
| 1830年の2月に『幻想交響曲』を作曲を開始し、6月に完成する。 |
| またこの頃にピアニストのカミーユ・モークと出会って恋愛関係となる。 |
| 4月に4度目の挑戦としてカンタータ『サルダナパールの死』を作曲する。 |
| 4度目にして漸く念願となるローマ賞を受賞する。 |
| 12月5日に『幻想交響曲』がアブネックの指揮で初演されて大成功を収めて世間の脚光を浴び、マリー・モークと婚約に至る。 |
| そして受賞者としてローマへ留学すると同時に留学を終えたら結婚するという約束を交える。 |
| 1831年、ローマに到着した直後に婚約者マリー・モークの母親から手紙が届き、ピアノ製作者イグナツ・プレイエルの長男カミーユ・プレイエルと結婚するという報告であった。 |
| この報告を知るや否や、再び訪れた破局にベルリオーズは落胆するどころか、逆にひどく怒りを露わにしたといわれる。 |
| 『回想録』には、モークとその母とプレイエルの長男カミーユを殺して自分も自殺しようと、ベルリオーズは婦人洋服店に急いで行き、女装するために婦人服一式を買い、ピストルと自殺用の毒薬を持参してパリへ向かう馬車に乗り、そのままローマを出発したのだった。 |
| しかしイタリアとフランスの国境付近でふと我に返り、直後に思い留まって正気を取り戻したのであった。 |
| この出来事の後、ベルリオーズはニースで1ヶ月ほど滞在して療養することとなり、回復後はローマへと戻って行く。 |
| そして正式にモークとの婚約は解消された。 |
| この療養中に『幻想交響曲』の続編と言える抒情的な独白劇『レリオ、あるいは生への復帰』の構想を始めており、ローマに戻った頃には全体の構想を終え、作曲に取り組んだのち7月の初旬に完成している。 |
| ちなみにローマへの帰途の途中に、メンデルスゾーンとグリンカと会っている。 |
| なおローマ賞を目指すその傍らで、オペラの作曲にも挑戦している。 |
| 1825年から1826年にかけて、アルベール・フェランの台本による全3幕のオペラ『宗教裁判官』(H.23)を作曲し、1827年と1829年に改訂を経て一部で演奏されていたと伝えられるが、そのまま部分的に他の作品に流用され、現在はごく一部の断片が残るのみである。 |
帰国後と中期の活動
| 1832年に上記の事情によってイタリア留学を切り上げる形でパリへ帰国すると、同地で再び音楽活動を始める。 |
| またローマ滞在中に作曲した作品(序曲『リア王』や『レリオ』など)を携えて持ち帰っている。 |
| 1833年、劇団の女優ハリエット・スミッソンが『幻想交響曲』を聴きに来た際に再会し、結果的に結婚までに至る。 |
| ベルリオーズの両親は反対したが、それを押し通してのことであった。 |
| パリ郊外のモンマルトルに新居を構え、自作の演奏会の開催、雑誌や新聞の評論を始める。 |
| 同年に演奏会に来ていたショパンとパガニーニと出会い、親交を結ぶ。 |
| 1834年の初め頃、パガニーニからの依頼でヴィオラと管弦楽のための作品である交響曲『イタリアのハロルド』を作曲する。 |
| 同時にフランス政府から『レクイエム』の作曲を委嘱され、速いペースで翌1837年に完成する。 |
| 初演は同年に行われると成功を収め、ベルリオーズは新聞雑誌から賛辞を浴びたり、陸軍大臣からの祝辞を受けたりした。 |
| 1838年の9月に、オペラ座で『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の初演が行われる。 |
| 友人たちは失敗の原因を台本の稚拙であると指摘したが、『回想録』の中では「脚本は気に入っていたのに、どうして劣っているのか、今でもわからない」と語っている。 |
| 1839年に、劇的交響曲『ロメオとジュリエット』を完成させる。 |
| 1840年に再びフランス政府から依頼を受けて、『葬送と勝利の大交響曲』を作曲・完成。 |
| 『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の失敗に拠るものといわれ、また一部で反感を持たれていたために、パリでの人気は次第に下って行った。 |
演奏旅行と指揮活動
| 人気が遠ざかっていたため、1842年に演奏旅行を始めることになり、年末にドイツへ向かい、各地で演奏会を催して大きな話題を呼び、旅行は成功を収める。 |
| 1843年5月末、パリに戻ったベルリオーズは、『ドイツ・イタリア音楽旅行記』や『近代楽器法と管弦楽法』などの著作を著したり、『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の第2幕の前奏曲として『ローマの謝肉祭』を作曲する。 |
| 8月1日に産業館で行われた演奏会は、新作『フランス讃歌』(H.97)を初演したが、480人のオーケストラ団員と500人の合唱団員を統合したもので、演奏時にはベルリオーズを中心に7人ほどの補助指揮者が指揮棒を持って壇上に登ったという。 |
| 1845年の10月から翌年の1846年の4月にかけて、2回目の演奏旅行としてウィーンやプラハ、ブダペストなどへ赴き、各地で演奏会を開催して大歓迎を受ける。 |
| 『ファウストの劫罰』は旅行中の合間を縫って1845年から作曲を始め、パリに帰国した4月の末頃も続けられ、10月に全曲が完成する。 |
ロシアへの演奏旅行
| 1847年の2月14日、パリを離れ一人でロシアへ向かった。 |
| 3月15日と25日にサンクトペテルブルクで、4月にモスクワでそれぞれ行った演奏会は成功し、喝采を浴びるなど、大歓迎を受けるのであった。 |
ロンドンでの指揮活動
| 7月初旬にパリに戻ったベルリオーズは、当時イギリスで活躍していた有名なマネージャーのジュリアンと出会い、彼の申し出に応じる形でロンドンのドルーリー・レーン劇場の指揮者として活動するため、その年の末頃にロンドンへ向かう。 |
パリ帰国と相次ぐ不運の連続
| パリへ戻った7月下旬に父ルイが世を去り、また別居中の妻ハリエットが脳卒中の発作で倒れ、パリの音楽界は革命の影響によって劇場は閉鎖され、街は謎の静けさを醸し出した状態であった。 |
| しかし1848年末頃に極秘に作曲を始めており、1849年に3群の合唱と大管弦楽のための『テ・デウム』(H.118,Op.22)を完成させる。 |
成熟期
| ハノーヴァーでの演奏会をはじめとして、ドイツ各地で行った演奏会は立て続けに成功し、気を良くしたベルリオーズはパリに戻ったのち、以前作曲した『エジプトへの逃避』(H.128)を転用する形として、3部からなるオラトリオ『キリストの幼時』(H.130,Op.25)を5年ががりで完成させた。 |
| 1856年、5月3日に没したアドルフ・アダンの後任として、フランス学士院会員に選ばれ、これにより収入が増え、生活も安定する。 |
| ヴィトゲンシュタインから『アエネーイス』を題材としたグランドオペラ『トロイアの人々』の作曲を勧め、先のフランス学士院会員に選ばれたことを機に創作意欲を復活させ、同年5月5日に台本を自ら執筆し、僅か2か月足らずで完成させる。 |
| 1860年の夏にバーデン=バーデンで開催される音楽祭に赴き、この地で新しく建設される劇場のために支配人のエドゥアール・ベナツェから委嘱を受け、2幕のオペラ『ベアトリスとベネディクト』(H.138)を作曲する。 |
| シェイクスピアの戯曲『空騒ぎ』に基づくが、ベルリオーズ自身がフランス語の台本を執筆している。 |
晩年とその死
| だが指揮活動を伴う演奏旅行は、1866年にオーストリア、1867年にドイツ、1867年末から1868年にロシアでそれぞれ継続して行われた。 |
エピソード
| ヴァイオリンのヴィルトゥオーソにして作曲家のニコロ・パガニーニとの出会いからは『イタリアのハロルド』が生まれ(パガニーニの依頼で書かれたがヴィオラの活躍が少ないのに失望した、という逸話は今日では信憑性が疑われている)、また金銭的援助も得られた。 |
| ベルリオーズの『回想録』によるならば、パガニーニは『イタリアのハロルド』の演奏を聴いて感動を表明し、2日後に「ベートーヴェンの後継者はベルリオーズをおいて他にいない」との手紙とともに2万フランを提供した。 |
ハリエット・スミスソンとの関係
| 23歳の時の、イギリスから来たシェイクスピア劇の劇団の女優でアイルランド人のハリエット・スミスソンへの片想いは、やがて『幻想交響曲』の着想へと膨らんだ。 |
音楽作品
| 劇的物語『ファウストの劫罰』、劇的交響曲『ロメオとジュリエット』(いずれも混声合唱と管弦楽のための大作)、歌曲集『夏の夜』、ヴィオラ独奏付きの交響曲『イタリアのハロルド』などである。 |
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6歳の時から町の教会に付属する小さな神学校... |
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18歳の時にグルノーブルで行われたバカロレア... |
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