| 1863年12月12日、ノルウェーのヘードマルク県ロイテンに生まれる。 |
| 一家はエドヴァルドの生まれた翌年にはクリスチャニア(オスロの旧称)へ移住。 |
| 実父は医師、で親類縁者には学者が多く名家の生まれであった。 |
| 1868年、エドヴァルドが5歳の時に母が結核のため30歳の若さで死去、1877年には15歳の姉がやはり結核で死去。 |
| エドヴァルド自身も虚弱な子供で、生き延びられないのではと心配されていたという。 |
| こうして身近に「死」を実感したことは後のムンクの芸術に生涯影響を与え続け、特に『病室での死』(1893頃)、『病める子』(1886)といった彼の初期の諸作品では直接のモチーフになっている。 |
| 自己の個人的体験に基づく「愛」「死」「不安」を芸術表現に昇華し、世紀末の人々の孤独や不安を表現したことがムンクが高く評価されるゆえんである。 |
| 1881年、画学校(のちの王立美術工芸学校)に入学。 |
| クリスチャン・クローグとJuliusMiddelthunに師事。 |
| 1884年頃から「クリスチャニア・ボヘミアン」という、当時の前衛作家・芸術家のグループと交際するようになる。 |
| 1886年10月、絵を印象づけるため、あえて素描風に仕上げるスタイルを無意識的にとっていたのだが理解されず、クリスチャニア秋季展に『病める子』を発表すると、この絵は物議を醸し、罵倒と思えるほど批判される。 |
| 1885年に数週間パリに滞在。 |
| 1889年にはノルウェー政府の奨学金を得て正式にフランス留学し、レオン・ボナのアトリエに学んだ。 |
| パリではゴーギャン、ファン・ゴッホなどのポスト印象派の画家たちに大きな影響を受けた。 |
| パリに着いた翌月に父が死去。 |
| この頃から「フリーズ・オブ・ライフ」(生のフリーズ)の構想を抱き始める。 |
| 1892年、ベルリンに移り、この地で『叫び』などの一連の絵を描く。 |
| ファン・ゴッホとともに、この後、ドイツを中心に起こるドイツ表現主義の運動に直接的な影響を与えた1人と考えられている。 |
| 1892年、ベルリン芸術家協会で開いた展覧会はオープンから数日間で保守的な協会側から中止を要求され、スキャンダルとなった。 |
| 1890年代は、ベルリン、コペンハーゲン、パリなどヨーロッパ各地を転々とし、毎年夏は故国ノルウェーのオースゴールストランの海岸で過ごすのを常としていた。 |
| このオースゴールストランの海岸風景は、多くの絵の背景に現れる。 |
| 何人かの女性と交際したが、生涯独身を通した。 |
| 1902年の夏、オースゴールストランにて数年ぶりで再会した、以前の恋人のトゥラ・ラーセンとトラブルになり、有名な発砲事件を起こす。 |
| ピストルを撃ったのが2人のうちのどちらであったかを含め、事の真相は不明だが、この事件で左手中指の関節の一部を失う怪我をした。 |
| この頃から精神が不安定になってアルコールに溺れるようになり、1908年から1909年にかけて、デンマークの著名な精神科医のもとで療養生活を送った。 |
| 1909年にノルウェーに戻り、以後の後半生を過ごす。 |
| 1909年からはクラーゲリョー、1916年から没年まではオスロ郊外のエーケリーに定住した。 |
| このノルウェー時代は、心身の健康が回復し、建築内部装飾のための大作や、雪の中で働く労働者をテーマとした作品などを手がけている。 |
| 1914年にはオスロ大学から同大学講堂の装飾画制作の依頼があり、1916年に完成。 |
| 同年9月19日に除幕式が行われた。 |
| これは11面のキャンバスからなる壁画で、講堂正面には巨大な太陽が描かれており、「世紀末の不安を描いた画家」のイメージとはかなり異なったものである。 |
| 有名な作品が19世紀末の1890年代に集中しており、「世紀末の画家」のイメージがあるが、晩年まで作品があり、没したのは第二次世界大戦中の1944年である。 |
| 気に入った作品は売らずに手元に残しており、死後は遺言によって、手元に残していた全作品がオスロ市に寄贈された。 |
| このため代表作の多くはオスロ市立ムンク美術館に収蔵されている。 |