| 王妃キャサリン・オブ・アラゴンは6人の子を産んだが5人が死産または夭逝し、成長したのは女子のメアリだけだった森(2000a),348。 |
| 王妃が男子を産むことはないと見切りをつけたヘンリー8世ヒバート(1998a),9は愛人アン・ブーリンと結婚するため、王妃との離婚を教皇に要請したが、教皇はキャサリンの甥であった神聖ローマ皇帝カール5世との国際関係を考慮し、許可が下りなかった森(2000a),350-352。 |
| ヘンリー8世は己の希望を通すため教皇と断絶、イングランドが「主権をもつ国家(エンパイア)」青木,35であることを宣言して、新たにイングランド国教会を樹立した。 |
| そして国王至上法によって、イングランド国内においては、国王こそが政治的・宗教的に至高の存在であると位置づけた。 |
| アンは王妃の通例と異なり妊娠中に聖エドワード王冠を戴冠している。 |
| 歴史家アリス・ハントは、これはアンの妊娠が戴冠式の時点で既に明瞭になっており、彼女は男子を妊娠していると予想されていたためであったと指摘しているHunt。 |
| アンは1533年9月7日午後3時から4時頃にグリニッジ宮殿にちなんで名づけられたSomerset,4.。 |
| 期待する男子ではなかったが、エリザベスはヘンリー8世にとっての存命する二人目の嫡出子であり、誕生と同時に彼女はイングランド王位推定相続人となった。 |
| 一方、前王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの娘である姉・メアリの嫡出子としての地位は失われていたLoades,3–5Somerset,4–5.。 |
| エリザベスの洗礼式は9月10日にグリニッジ宮殿で挙行された。 |
| 大主教トマス・クランマーが名親にノーフォーク公爵未亡人、エクセター侯爵夫人が代母となったヒバート(1998a),22。 |
| エリザベスの誕生後、アンは男子を産むことができなかった。 |
| 彼女は1534年と1536年に少なくとも二度の流産に見舞われた後に逮捕されロンドン塔に送られた。 |
| アンは捏造された不義密通の容疑による有罪が宣告され、1536年5月19日に斬首刑に処されているLoades,6–7.Haigh,1–3.。 |
| この時、2歳8ヵ月だったエリザベスは庶子とされ、王女の称号を剥奪された1536年法はこう定めている:エリザベスは「庶子である。 |
| …国王の直系の…いかなる合法的な継承者としての主張、異議申し立て、請求も完全に剥奪、除外そして禁止する。 |
| 」エリザベスは彼女の母親が死に彼女の名前が変わったことを知らされていなかった。 |
| 非常に利口な子供だった彼女は養育係にこう尋ねている「先生、何があったの?昨日の私は王女様(LadyPrincess)。 |
| 今日の私はレディ・エリザベス(LadyElizabeth)?」Somerset,10.。 |
| アン・ブーリンの死の11日後にヘンリー8世はジェーン・シーモアと再婚したが「ヘンリー8世が妻を姦通罪で処分し、何人かの彼女の友人を断頭台へ送り、彼女の子を私生児とし、新たな王妃を得るのに1カ月で済んだ。 |
| これが枢密院、教会そして法律を己の意思で動かすテューダー王家の権力である。 |
| 」Haigh,1、彼女はエドワード王子を生んだ12日後に死去している。 |
| エリザベスはエドワード王子の邸宅に住まい、彼の洗礼式の際には白衣または洗礼衣を捧持しているLoades,7–8.。 |
| その後、ヘンリー8世は二度の離婚を経て1543年にキャサリン・パーを王妃に迎えた。 |
| 同年、最後の王妃となったキャサリン・パーの説得により第三王位継承法が発令され、メアリとエリザベスに、庶子の身分のままではあったが、王位継承権が復活された石井(2009),81。 |
| キャサリン・パーとエリザベスは親密になりスターキー,46、1544年にエリザベスはフランス語の宗教詩『罪深い魂の鏡』''''を英訳してキャサリン・パーへ贈呈し、刺繍を施したその本の装丁はエリザベス自身によって作製されたと信じられているDavenport,32.スターキー,70-73。 |
| エリザベスの最初の養育係のマーガレット・ブライアン夫人は彼女は「覚えの良い子供のようであり、そして私の知る限りのどの子供よりもマーガレット・ブライアンはメアリとヘンリー8世の庶子ヘンリー・フィッロイの養育を担当している。 |
| 石井(2009),66すこやかに成長されている」と書き記しているSomerset,11.。 |
| 1537年秋からエリザベスはトロイ公爵夫人ブランチ・ハーバートに養育され、彼女は引退する1545年または1546年まで養育係を務めているRichardson,39–46;トロイ夫人の葬送歌は「死去する前はヘンリー8世王家と彼の子供たちの養育係だった」と述べている。 |
| ロバート・ティルウィト卿の手紙には「4人の彼女の貴婦人が打ち明けた。 |
| アシュリーは最初にトロイ夫人を免職し…」とある。 |
| キャサリン・チャンパーノウンが女官長を引き継ぐ1565年までエリザベスの友人であり続けたRichardson,56,75–82,136。 |
| 彼女は優れた初期教育をエリザベスに施しており、1544年にウィリアム・グリンダルが家庭教師になったときには、エリザベスは英語、ラテン語そしてイタリア語を書くことができた。 |
| 優秀で熟練した教師であるグリンダルの元でエリザベスはフランス語とギリシャ語を学んでいるエリザベスへの教育と早熟さについては、主に(エドワード王子の教師でもあった)ロジャー・アスカムの追想録に依っている。 |
| Loades,8–10.。 |
| グリンダルが1548年に死去すると、エリザベスはグリンダルの師でラテン語の権威の教師ロジャー・アスカムから教育を受けたヒバート(1998a),47。 |
| 1550年に正式な教育を終えた時、彼女は同時代における最も教養のある女性になっていたLoades,21.。 |