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プロフィール
- エル・グレコとは
- 概要
- 若年期
- ヴェネツィア派との交流
- スペインでの活動
- 人物像
- 家族
- 助手
- 研究史
- 逸話
- 代表作
- エル・グレコの家
- 参考文献
- 小説
- 音楽
- 随筆
- 外部リンク
エル・グレコ(ElGreco、1541年-1614年4月7日)は、現ギリシャ領のクレタ島、 イラクリオン出身の画家。本名はドメニコス・テオトコプーロス(、ラテン文字 転写:DoménikosTheotokópoulos)で、一般に知られるエル・グレコの名はスペイン来訪前にイタリアにいたためイタリア語で「ギリシャ人」を意味するグレコにスペイン語の男性定冠詞エルがついた通称である。マニエリスムの巨匠として知られる。マドリードにあるプラド美術館には、彼の作品が多数展示されている。
概要
| ギリシア人でありながらトレドに渡り、フェリペ二世に仕えたが、グレコの作品はフェリペに評価されなかった。 |
| グレコは晩年に至るまで自身の作品にギリシア語の本名でサインをしていた。 |
| 彼の現存する作品のおよそ85%が成人画を含む宗教画であり、後の1割は肖像画となっている神吉敬三『巨匠たちのスペイン』毎日新聞社、1997年、125-126ページ。 |
| グレコは絵画だけではなく、直国や建築の構想も手掛け、特にスペインにいた時期は建築に強い関心を寄せたが、実際に建物の建築をすることは無かったフェルディナンド・マリーアス『エル・グレコ』プラド美術館鑑賞案内、松原典子訳、プラド美術館友の会財団、2008年、9ページ。 |
若年期
| エル・グレコは 1541年に当時ヴェネツィア共和国の支配下にあったクレタ島の首都であり港市であるカンディア(現イラクリオン)で生まれた。 |
| その地で後期ビザンティン美術の伝統を継ぐ画家となり、同時に独学で部分的にイタリアルネサンス美術の手法を取り入れたと考えられる。 |
| 1563年までには画家として独立していたフェルディナンド・マリーアス『エル・グレコ』プラド美術館鑑賞案内、松原典子訳、プラド美術館友の会財団、2008年、7ページ。 |
| 1566年にエル・グレコがカンディアで金地に書いたキリストの受難図(イコンの一種)があり、それをくじで売却するための査定の許可を求めているMarieConstantoudaki,"DomenicosTheotocopoulos(ElGreco)deCandieaVenise:Dicumentsinédits(1566-1568)",Thesaurismata12,1975,pp.292-308.フェルナンド・マリーアス『プラド美術館鑑賞案内 エル・グレコ』松原典子訳、プラド美術館友の会財団、マドリード、2008年、67ページ。 |
ヴェネツィア派との交流
| グレコは1567年かそれ以前にギリシア系クロアティア人ジュリオ・クローヴィオの推薦を受けてヴェネツィアに渡っていた『NHKプラド美術館1異邦人は光を見たエル・グレコ』大高保二郎&雪山行二責任編集、日本放送出版協会、東京、1992年、35ページ。 |
| 1570年11月のアレッサンドロ枢機卿宛ての書簡でエル・グレコを「若いカンディア出身の画家でティツィアーノの弟子」と紹介、「落ち着くまで宮殿内の一室が提供されるよう」記されているフェルディナンド・マリーアス『エル・グレコ』プラド美術館鑑賞案内、松原典子訳、プラド美術館友の会財団、2008年、7ページ。 |
| これによりグレコはビサンティン方式の一切を放棄したわけではなかったが色彩や遠近法、解剖学、油彩技法の使用などの点でヴェネツィア・ルネサンス方式を習得していった。 |
| 他にもヴェネツィアで西欧流の技法や図像、地図製作の知識を習得した『NHKプラド美術館1異邦人は光を見たエル・グレコ』大高保二郎&雪山行二責任編集、日本放送出版協会、東京、1992年、35ページ。 |
| 1570年までヴェネツィアに留まった後に勉強のためイタリア各地(パドヴァ、ヴィチェンツァ、ヴェローナ、パルマ、フィレンツェ)を放浪した。 |
| 1572年にはサン・ルーカ画家組合サン・ルッカ美術アカデミーとも記されている。 |
| に「ピットーレ・ア・カルテ''pittoreacarte''(紙に描く画家という意味)」として登録され、加入している。 |
| 当時イタリアの労働組合の構成員は親方に限られていたことから、この時までにグレコは親方として自分の工房を持っていたことが分かる。 |
| これ以降グレコの絵画はイタリアの影響が色濃く反映されており、主に個人の顧客向けの肖像画や小型の宗教画を描いた。 |
| 当時のイタリアの絵画の主流はヴェネツィアからローマに移っていったため、30歳を迎えようとしていたグレコも、ジュリオ・クローヴィオの推薦を受けてローマへ移動し、1576年から1577年の間定住した。 |
| 当時ファルネーゼ家は教皇パウルス3世を輩出して以来、美術の建築のメセナmecenatというフランス語で、文化擁護やその支援を意味するとして世に知られていた。 |
| グレコは移住の際当時のスペイン人聖職者や人文主義者などがしばしば訪れていたアレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿の知的サークルと交流を持ち、パラッツォ・ファルネーゼ(ファルネーゼ宮)に自由に出入りができた。 |
| また、それゆえに同家の別荘であるカプラローラの装飾にも参加したと考えられている。 |
| ローマに移動した当初は同枢機卿の館に宿泊していたフェルディナンド・マリーアス『エル・グレコ』プラド美術館鑑賞案内、松原典子訳、プラド美術館友の会財団、2008年、8ページ。 |
| その後にスペインへ渡ったと言われる。 |
スペインでの活動
| グレコがスペインを目指した理由は明確ではないが、1577年の春にはマドリードにいたことが証明されているフェルディナンド・マリーアス『エル・グレコ』プラド美術館鑑賞案内、松原典子訳、プラド美術館友の会財団、2008年、8ページ。 |
| 彼が到着した時のスペインはレコンキスタでの勝利とコロンブスによるアメリカ海域での新世界の侵略、そしてカール5世の国王就任により急激に力を強めていた。 |
| その後トレドに移動し、そこでスペインでの初仕事として大聖堂から「聖衣剥奪」の絵画、サント・ドミンゴ・エル・アンティーグォ修道院からは3つの祭壇衝立を依頼された。 |
| この頃からグレコはトレドに仕事で移動する以外は定住するようになった。 |
| しかしこの時期彼は作品の査定額や技術的問題、図像上の問題でグレコ自身やその顧客による訴訟が起こされたことが記録に残っているこの時期、9件の訴訟に関する記録が残されている。 |
| 1582年には異端審問所で被告のギリシア人の少年通訳を務めている『NHKプラド美術館1異邦人は光を見たエル・グレコ』大高保二郎&雪山行二責任編集、日本放送出版協会、東京、1992年、34ページ。 |
| フェリペ2世に依頼された『聖マウリティウスの殉教』がエル・エスコリアル修道院の聖堂を飾る祭壇画の一つとして描かれたが、1584年にヒエロニムス会士に受け入れを拒否された。 |
| これ以降グレコは次第に工房を広げ、主な仕事として修道院、教区聖堂、礼拝堂の祭壇衝立の一括制作をしつつ、トレドの町とその大司教区にあたる修道院や教区聖堂のための制作も引き受けるようになった。 |
| この時期様々な礼拝堂の依頼を個人で、または息子と連名で契約を結んだが、それらの中には実現しなかったものもあった。 |
| 1614年3月31日に遺言状を作成し、その中でホルヘ・マヌエルを相続人、ルイス・デ・カスティーリャと修道士ドミンゴ・バネーガスをその執行人としたグレコは、同年の4月7日にカトリックの臨終の秘蹟を受けこの世を去った。 |
人物像
| left|thumb|グレコの妻ヘロニマ・デ・ラス・クエバス(1570年代後半)。 |
家族
| 生地カンディアでの家族で判明しているのは、官吏である父のヨルギと10歳年上であるマヌーソスという兄がいたことである図録『エル・グレコ展1986-1987』国立西洋美術館編集、東京新聞、1986年、14ページ。 |
| グレコの家庭は正規のカトリックではなく、家族はヴェネツィアの協力者として働いていたと考えられているフェルディナンド・マリーアス『エル・グレコ』プラド美術館鑑賞案内、松原典子訳、プラド美術館友の会財団、2008年、7ページ。 |
| 1578年、グレコはトレドの職人家庭の出身であるヘロニマ・デ・ラス・クエバス(''JerónimadelasCuevas'')という女性との間に息子を一人設けている。 |
| この息子は前述のグレコの父と兄の名からホルヘ・マヌエル・テオトコプリと名付けられ、父と同様に画家を目指したようであるが、彼の作品は父の形式を真似たものに留まったようである『「スペイン美術展I-16・17世紀エル・グレコ、ベラスケスの時代」展図録』エンリーケ・バルディビエーソ、神吉敬三監修、西武美術館、紀国憲一、難波英夫、清水哲朗、中村麗編集、西武美術館、1985年、142ページ。 |
助手
| スペインへの移動の頃からイタリア人の画家であるフランシスコ・プレボステが助手としてついていた。 |
| この助手は死ぬまでグレコの助手として働き続けたフェルディナンド・マリーアス『エル・グレコ』プラド美術館鑑賞案内、松原典子訳、プラド美術館友の会財団、2008年、8ページ。 |
研究史
| 1960年代から1981年にかけてエル・グレコが自筆の注釈を施した書物が多く見つかっている。 |
逸話
| 1922年当時フランスに滞在していた児島虎次郎は、とあるパリの画廊でエル・グレコの『受胎告知』という作品が売りに出されていたのを眼にした。 |
| この作品の素晴しさを見抜いた児島ではあったが手持ちがなかったため、自身の出資者である大原孫三郎に送金を依頼、大原も送られてきた写真を見て了承し、児島は『受胎告知』を購入すると日本へ持ち帰った。 |
| 結果的にこの二人の判断は的中し、現在では『受胎告知』が日本にあることは奇跡とまで言われている。 |
| 日本にあるエル・グレコの作品は、これと国立西洋美術館にある『十字架のキリスト』(制作年不明)の2点のみである。 |
代表作
| 画像:EntierrodelCondedeOrgaz.jpg|『オルガス伯の埋葬』1586-1588トレド・サント・トメ教会。 |
| 画像:ElGrecoViewofToledo.jpg|『トレド風景』メトロポリタン美術館。 |
| Image:ElGreco057.jpg|『受胎告知』1590-1603年頃ブダペスト西洋美術館所蔵。 |
| 本作に非常に近い作品が大原美術館にある。 |
| Image:ElGreco050.jpg|『ピウス5世の肖像』1600-1610年個人所蔵。 |
| Image:2205grec.jpg|『第五の封印』1608-1614年メトロポリタン美術館所蔵。 |
| Image:AdoraciondelosReyesmagos1.jpg|『羊飼いの礼拝』プラド美術館蔵。 |
エル・グレコの家
| 20世紀にグレコが住んでいたとされる家を改装された美術館。 |
| グレコの住んでいた当時に合わせて台所、寝室、書斎、アトリエなどが復元されている。 |
| なお名称はグレコの家ということになってはいるが、実際に彼がどこに住んでいたかということはいまだ明確ではない。 |
| 岡村多佳夫『スペイン美術鑑賞紀行 |
参考文献
| 神吉敬三 『巨匠たちのスペイン』毎日新聞社、1997年。 |
| モーリス・バレス『グレコ トレドの秘密』吉川一義訳、筑摩書房、1996年。 |
| 大高保二郎、雪山行二責任編集『異邦人は光を見たエル・グレコ』:(NHKスペシャル:プラド美術館1)、日本放送出版協会、1992年。 |
| フェルナンド・マリーアス『プラド美術館鑑賞案内 エル・グレコ』松原典子訳、プラド美術館友の会財団、2008年。 |
| 『エル・グレコ』 アサヒグラフ別冊美術特集:朝日新聞社、1994年。 |
| 国立西洋美術館編『エル・グレコ展 1986-1987』東京新聞、1986年。 |
小説
| ヴェロニカ・デ・ブリューン=デ・オーサ『エル・グレコの生涯 1528-1614 神秘の印』鈴木久仁子・相沢和子訳、エディションq、1995年。 |
随筆
| ジャン・ルイ・シェフェール『エル・グレコのまどろみ』與謝野文子訳、現代思潮新社、2010年。 |
外部リンク
| be-x-old:ЭльГрэка。 |
| zh-min-nan:ElGreco。 |
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1541年
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当時ヴェネツィア共和国の支配下にあったクレ... |
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1572年
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サン・ルーカ画家組合に「ピットーレ・ア・カ... |
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