| right|200px|thumb|マテウス・メーリアンの銅版画に描かれた1655年頃のカッセル絵地図。 |
| カッセルは古代ローマ時代にはカステッルム・カットルム(CastellumCattorum)と呼ばれた。 |
| これは「カッティの城」を意味し、ゲルマン人の一派でカッセル一帯に居住していたカッティ族(Chatti)に由来する。 |
| カッセルの最初の文献記録は913年のドイツ王コンラート1世の文書に遡る。 |
| これが、カッセルの存在を示す最初の文字による証拠であり、この街が千年以上の歴史を回顧することができる証でもある。 |
| 初めは「都市」とは呼ばれなかった。 |
| 現在の行政管区庁舎の場所には砦があり、その保護下で集落が発達した。 |
| その規模が小さかったことは「グラーベン」の街並み(グラーベン=堀)から推測できる。 |
| かつてのフランケンの王宮(Chasssellaというその名が都市名の由来となった)は、1150年頃にフランケンのヘッセンガウの伯、すなわちグーデンスベルク伯(またはマーデン伯)の居城として、増築された。 |
| 1189年にカッセルは現在の意味での「都市」として初めて記録された。 |
| 1239年にテューリンゲン方伯ヘルマン2世は都市権を更新しHeinrichGottfriedGengler:''RegestenundUrkundenzurVerfassungs-undRechtsgeschichtederdeutschenStädteimMittelalter'',Erlangen1863, |
| これ以後、この街の歴史はヘッセンの統治者の歴史と緊密に結びついている。 |
| 16世紀の初めにヘッセン方伯フィリップ1世は、宗教改革の重要人物となった。 |
| 1567年にフィリップ1世が亡くなった後、遺領は4人の息子によって分割された。 |
| 長男ヴィルヘルムは遺領のうち北部を相続し、新たに宮廷をカッセルに置いたことから、その所領はヘッセン=カッセル方伯領と呼ばれることになった。 |
| カッセルはこの方伯領の中心都市と同時にカルヴァン派の拠点の一つにもなった。 |
| ヘッセン=カッセルは三十年戦争ではスウェーデンの同盟国となり、18世紀には方伯家のフリードリヒがスウェーデン王フレドリク1世として即位、さらに方伯位も継いで、両国は一時同君連合にもなった。 |
| 街の景観は、ヘッセン=カッセル方伯カールによる1700年からの大規模なバロック建築プロジェクト(たとえばカールスアウエやヘルクレス)によって決定づけられた。 |
| 七年戦争では、この街の支配者は、イギリス=プロイセン連合軍と、ハプスブルク側で戦ったフランス軍との間で何度も入れ替わった。 |
| 1803年にヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム9世が選帝侯となった直後、1806年にナポレオン軍がこの街を占領し、1813年までの間、新たに創設されたヴェストファーレン王国の首都となり、ナポレオンの弟ジェロームの宮廷が置かれた。 |
| ナポレオンの没落とともにヴェストファーレン王国も消滅したが、領土を回復したヴィルヘルムは神聖ローマ帝国の消滅にもかかわらず選帝侯の称号を用い続け、ヘッセン選帝侯国の国号でドイツ連邦に加盟した。 |
| 1866年の普墺戦争終戦後、ヘッセン選帝侯国は、やはりオーストリア側についたハノーファー王国、ナッサウ公国とともにプロイセンに併合された。 |
| 1920年から1925年までフィリップ・シャイデマンがカッセル市の上級市長を務めた。 |
| 1938年11月7日の夕方、カッセルのシナゴーグをはじめとするユダヤ教施設が破壊された。 |
| これは「水晶の夜」としてドイツの歴史に刻まれる事件の2日前のことであった。 |
| File:Unterekoenigsstrasse1945.jpg|right|200px|thumb|空爆で破壊されたカッセル中心部。 |
| 第二次世界大戦の進行に伴い、何度もの空爆が市街地の大部分を破棄し、これにより数多くの人名が奪われた。 |
| この街は1943年10月22日最も激しい空爆を経験した。 |
| カッセル、特に木組み建築が数多く遺っていた旧市街地域はイギリス軍のモラル空爆攻撃作戦の中で、焼夷弾爆撃の目標とされていた。 |
| 狙い定めた焼夷弾攻撃によって火事になった木造建築は火災旋風を引き起こした。 |
| それはドレスデン、ハンブルク、プフォルツハイム、ダルムシュタットで起こったことと同じであった。 |
| 1949年、カッセルはドイツ連邦共和国(西ドイツ)の新しい首都に立候補したが、これは成功しなかった。 |
| カッセルの他にボン、フランクフルト・アム・マイン、シュトゥットガルトが立候補した。 |
| 1995年の連邦園芸博覧会のサイドプログラムとして、アーノルト・ボーデによってドクメンタが開催された。 |