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つながりの強いひと
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アレクサンドロス
東ローマ帝国マケドニア王朝の第3代皇帝(在位:912年5月11日-913年)。同王朝初代皇帝バシレイオス1世の子で、同・第2代皇帝レオーン6世の弟。兄のレオーン6... |
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プルタルコス
友達
帝政ローマのギリシア人著述家。著作に『対比列伝』(英雄伝)などがある。英語名のプルターク(Plutarch)でも知られる。 |
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アレクサンドロス3世
アレクサンドロス3世(、ラテン文字転写:、、紀元前356年7月?-紀元前323年6月10日、在位紀元前336年-紀元前323年)はアルゲアデス朝のマケドニア王、コリント... |
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ヒストリエ
岩明均による歴史漫画。『月刊アフタヌーン』(講談社)において2003年3月号から連載され、2008年2月号までが第1部、以後が第2部となる。単行本はアフタヌー... |
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岩明均
日本の漫画家。東京都出身。男性。和光大学中退。本名、岩城均。父親は和光大学名誉教授の岩城正夫。1985年、ちばてつや賞に入選した「ゴミの海」が『モーニ... |
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ペルディッカス
ペルディッカスは臨終のアレクサンドロスによって印綬の指輪を渡され [9] 、王の死後に開かれた バビロン会議 では主導権を握り、王の遺児でまだ生まれぬ ロ... |
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セレウコス
セレウコス(1世)(せれうこす) [ 日本大百科全書 ( 小学館 ) ] Seleukos (前358ころ―前280) マケドニア 貴族出身の軍人。 征服 王(ニカトールNikator... |
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アンティパトロス
引き継ぐ者
アンティパトロス(希:、ラテン文字転記:Antipatros、英:Antripater、紀元前397年-紀元前319年)はピリッポス2世とアレクサンドロス3世に仕えたマケドニ... |
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クラテロス
クラテロス(、ラテン文字転記:Crateros、紀元前370年頃-紀元前321年)はアレクサンドロス3世に仕えたマケドニア王国の将軍である。クラテロスはアレクサン... |
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プトレマイオス
ほぼ一貫して エジプト での自立を追求し、これを達成している。ために、 ディアドコイ の中では数少ない、「畳の上で」死んだ人となった。 関連キーワード ... |
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ポリュペルコン
引き継ぐ者
ポリュペルコン(、、紀元前394年-紀元前303年)はフィリッポス2世とアレクサンドロス3世に仕えた将軍である。 |
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バビロニア
メソポタミア(現在のイラク)南部を占める地域、またはそこに興った王国(帝国)。首都はバビロン。南半分のシュメールと北半分のアッカドを含み、北西側に... |
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ヒエロニュモス
古代ギリシア都市のひとつであるカルディアの人物。歴史家。最初はアレクサンドロス大王の後継者(ディアドコイ)のひとりであるエウメネスに仕え、アンティ... |
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アレクサンドロス4世
アレクサンドロス4世(、紀元前323年–紀元前309年、在位同じ)はアレクサンドロス3世(大王)と王妃ロクサネの間の嫡子でアルゲアデス朝のマケドニア王である。 |
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バルバロイ
ギリシア人の他民族に対する呼称。複数形がバルバロイ()。ギリシア人は自らを「ヘレネスの子ら(ヘレネス)」と呼んでそれ以外の民族をバルバロス(バルバロ... |
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カッサンドロス
カッサンドロス(希:、ラテン文字表記:Kassandros、紀元前350年-紀元前297年、在位:紀元前305年-紀元前297年)はカッサンドロス朝初代のマケドニア王である。 |
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アンティゴノス朝
アレクサンドロス大王のディアドコイ(後継者)の一人、アンティゴノス1世モノフタルモス(隻眼王)の子孫がギリシャマケドニア地方に築いた、ペラを首都とす... |
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ネアルコス
紀元前360年頃-紀元前300年)はアレクサンドロス3世に仕えたマケドニア王国の将軍である。 |
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クサンティッペ
発見者の妻アマリア・パリサである。2004年10月31日に福島県で11.7等の恒星6254-01112-1(いて座)との掩蔽が観測された。せんだい宇宙館によって、この観測... |
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アポロニア
アポッロニア(,/,アルバニア語:Apolonia/Apollonia)は現在のアルバニアのフィエル県のポヤニ近郊にあった古代都市であり、アウス川の右岸にあった。 |
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プロフィール
- カルディアのエウメネスとは
- 未詳の前半生
- ディアドコイ戦争のゲームメーカーとして
- その最期
- 出自と逸話
- エウメネスを題材とした創作
- 関連項目
未詳の前半生
| 前述の『対比列伝』においてプルタルコスは、エウメネスについて「祖国を追われた者」と述べているが、その経緯には触れていない。 |
| いかなる事情によってか、彼はカルディアを去り、マケドニアに身を寄せ、フィリッポス2世、アレクサンドロス3世に書記官として仕えた。 |
| その後、アレクサンドロスの東征の途上、ペルディッカスの後任として騎兵の指揮官に就任した。 |
| これ以前にも、書記官としてだけではなく、軍事面でもかなりの功績を挙げていたと考えられるが、彼の軍事面での活躍についてはほとんど分かっていない。 |
| アレクサンドロスの死後開催されたバビロン会議にてエウメネスはカッパドキアとパフラゴニア地方の太守に指名された。 |
| しかし、この任地にはマケドニアの支配が及んでいなかったため、当初はアンティゴノスとレオンナトスの軍事力を借りて征服しようとしたが、アンティゴノスは出兵を断り(エウメネスが勢力を固めることで自身の勢力圏だった小アジアにおけるライバルとなるのを嫌ったためと思われる)、レオンナトスはギリシアで発生していた反マケドニア闘争の鎮圧(ラミア戦争)に向かったため、当時大王の遺児アレクサンドロス4世を擁していた摂政ペルディッカスの支援を受けてこれを制圧した。 |
| ここでのペルディッカスへの接近は彼のその後の人生に決定的とも言える影響を与えることになる。 |
| ともあれこの後、他の武将たちの例にもれず、彼もディアドコイ戦争を戦っていくことになる。 |
その最期
| 紀元前316年、現在のイラン領のガビエネの戦いでは、味方だったペルシス太守ペウケスタスの怠慢が原因となり敗れた。 |
| この時エウメネスは戦闘に敗れたものの、軍の損害そのものは未だ致命的ではなかったため、再戦を考えていた(ガビエネの戦いにおけるアンティゴノス側の戦死者5000人以上に対し、エウメネス側の戦死者は300人程であった)。 |
| しかし、後方に控えていた輜重隊や兵の家族がアンティゴノスに奪われてしまっていた。 |
| 以前からエウメネスに反感を抱いていた銀楯隊の指揮官アンティゲネスらは、エウメネスを引き渡せば家族や荷物を返還するというアンティゴノスの誘いを受けてエウメネスを捕らえ、降伏した。 |
| エウメネスの身柄を受け取ったアンティゴノスは当初、優秀でありかつ親友でもあったエウメネスを自らの幕下に加えようとした。 |
| しかし、これまで散々エウメネスに辛酸を舐めさせられ、また彼が味方になると自分たちの影が薄くなることを恐れたアンティゴノスの部下の多くが、それに反対し、密かに彼を殺害した。 |
| あるいは直接手を下すのは忍びないとして餓死させようとしたが、軍を移動させる際にアンティゴノスの知らない間に殺されたともいう。 |
| アンティゴノスは友のために盛大な葬儀を行い、遺骨はエウメネスの妻子の元へ届けられた。 |
| エウメネスをアンティゴノスに引き渡した者達のその後は恵まれたものではなかった。 |
| 銀楯隊は僻地へ左遷されてその地で生涯を終え、アンティゲネスは惨たらしいやり方で殺され、ペウケスタスは所領を奪われた。 |
出自と逸話
| エウメネスは他のディアドコイのように王家との血縁関係を持っていたわけではなかった。 |
| 貴族の生まれでもなく、ましてやマケドニア人ですらなかったために、勢力基盤が脆弱であった。 |
| それゆえ自身の地位を保持するために王家との結びつきを何よりも必要としていた。 |
| ちなみに女性でありながらアレクサンドロス死後の権力争いに身を投じたアレクサンドロスの母オリュンピアスは同じ外国人ゆえだろうか彼を信頼していたようであり(彼女はエピロス王家からマケドニアに嫁いでいた)、彼を味方に引き込もうとしたり、助言を求めたりしていた。 |
| また、文官出身であるとの理由で彼を軽んじていた将軍も少なからずおり、ヘレスポントスの戦いの直前、エウメネスの援軍にと派遣された将軍のアルケタスとネオプトレモスはエウメネスに従うのを嫌がって彼の軍に合流しなかったし、ネオプトレモスは自分たち将軍は王に剣で仕えてきたのに、エウメネスはペンで仕えていたと言って、かねてよりあからさまにエウメネスを馬鹿にしていたようである。 |
| そこでエウメネスは配下の指揮官たちから意図的に多額の金を借り入れることで自分を裏切れないようにしたり(裏切った場合貸した金が回収できなくなる)、自分に従おうとしない指揮官を納得させるため、軍議の場にアレクサンドロス大王の椅子を置き、いわば御前会議の形式を取った、といった逸話が残っている。 |
| しかし、それでも指揮系統を完全に掌握することは出来ず、そのことが彼の最期へと結びついていくことになった。 |
| 彼の列伝を書いたコルネリウス・ネポスによれば、ディアドコイはエウメネスの力量を高く評価し、彼の生前は誰も王を称することも王家を蔑ろにすることもなかったが、アレクサンドロスの子供たちの「ただひとりの擁護者〔エウメネス〕を亡きものにすると、自分たちの真の目的を鮮明にした」という(『英雄伝』、エウメネス伝、13)。 |
| ちなみに最初に王を称したのはアンティゴノス・デメトリオス父子で、エウメネスの死の10年後の紀元前306年である。 |
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