| レスリングでは、グレコローマンおよびフリースタイルレスリングのベルギー王座を7回ずつ獲得 |
| ロンドンオリンピック(1948年)のグレコローマンおよびフリースタイルレスリングにベルギー代表として出場 |
| また、「ゴング格闘技」(日本スポーツ出版社)2007年1月号のインタビューにおいて、ゴッチも同大会への出場を認めている。 |
| 1950年"KarelIstaz"のリングネームでプロレスデビュー、ヨーロッパ各地のトーナメントへ参戦。 |
| 同年、ウィーンでのトーナメントでハープ・ガーウィッグ(後のキラー・カール・コックス)に敗れ準優勝。 |
| 1951年より"SnakePit"(蛇の穴)の通称でも知られるイギリスのビリー・ライレージムでビリー・ジョイスについてランカシャーレスリング(キャッチ・アズ・キャッチ・キャン)を練習する。 |
| 1959年にカナダへ進出、モントリオールでの興行へ参戦。 |
| 1960年にアメリカへ進出、プロフィール上はドイツ人となり、リングネームとしてカール・クラウザーを名乗る。 |
| オハイオ州のMidwestWrestlingAssociation(MWA)へ参戦すると、1961年にNWAイースタンステーツヘビー級王座を獲得。 |
| 同年、リングネームをフランク・ゴッチにあやかりカール・ゴッチへ改めるこの改名はMWAのプロモーターであったアル・ハフトの意向によるものと言われている(ハフトはかつてヤング・ゴッチというリングネームのプロレスラーであった)。 |
| また、試合をする地方によって、「クラウザー」と「ゴッチ」を使い分けていた時期もある。 |
| 1962年8月31日オハイオ州コロンバスにおいて、友人であるビル・ミラーと共に、NWA世界ヘビー級王者バディ・ロジャースと控え室でトラブルを起こす。 |
| 同年、ドン・レオ・ジョナサンを破り、AmericanWrestlingAlliance(オハイオ版AWA)世界ヘビー級王座を獲得。 |
| 1963年9月から1964年11月にかけて、ルー・テーズが保持していたNWA世界ヘビー級王座に9回挑戦するが、王座は獲得できず。 |
| 1967年カリフォルニア州ロサンゼルスのWWAに参戦すると、同年"アイアン"マイク・デビアスをパートナーとしてWWA世界タッグ王座を獲得。 |
| 同年6月30日、大木金太郎が保持していたWWA世界ヘビー級王座にデビアスが挑戦した試合へ乱入し、デビアスの王座獲得を助けたと言われている。 |
| 1968年アメリカ市民権を取得。 |
| 1971年WWWF(後のWWE)へ参戦すると、レネ・グレイをパートナーとしてWWWF世界タッグ王座を獲得。 |
| しかし、ルー・テーズから「私をもっとも苦しめた挑戦者」と評されながらもとうとう主要王座は獲得できず、「無冠の帝王」の異名を持つ。 |
| 日本においては、1961年4月日本プロレスの第3回ワールドリーグに出場するために、カール・クラウザー(''KarlKrauser'')のリングネームで初来日。 |
| 吉村道明を相手にジャーマン・スープレックス・ホールドを日本初公開する(試合は引き分け)。 |
| 力道山とも対戦し、引き分ける。 |
| なお、来日中、ビル・ミラー(覆面レスラーのミスター・Xとして来日)と共に控え室でグレート・アントニオへ制裁を加えたという噂がある。 |
| 1966年7月に再来日、ジャイアント馬場のインターナショナル選手権に挑戦が決まっていたが怪我で断念。 |
| 1968年1月日本へ移り住み、日本プロレスのコーチに就任。 |
| 「ゴッチ教室」を開き、アントニオ猪木に卍固め、ジャーマン・スープレックスを伝授。 |
| さらに山本小鉄、星野勘太郎といった当時の若手・中堅選手を厳しく鍛えた。 |
| ヨーロッパ仕込みのテクニックから「プロレスの神様」と称される。 |
| その後はハワイで清掃の仕事などをしていたが、1971年3月国際プロレスの吉原功社長の招きで、第3回IWAワールドシリーズに参加。 |
| ビル・ロビンソンと5回対戦し、全試合とも時間切れで引き分ける。 |
| モンスター・ロシモフ(後のアンドレ・ザ・ジャイアント)とも対戦し、ジャーマン・スープレックス・ホールドを決めるが、レフェリーがリング外でダウンしていたためフォールは認められず、ロシモフの逆襲に不意を突かれ敗れる。 |
| 国際プロレスに所属していたアニマル浜口らを指導する。 |
| 1972年1月の新日本プロレス設立に選手及びブッカーとして助力。 |
| 1972年3月から1974年8月にかけて、アントニオ猪木と5回対戦し、3勝2敗。 |
| 1973年10月ルー・テーズをパートナーとしてアントニオ猪木&坂口征二組と3本勝負で対戦し、1-2で敗れる。 |
| その後、フロリダ州タンパの「ゴッチ道場」において、藤波辰巳、木戸修、藤原喜明、佐山聡、前田日明らプロレスラーを数多く育成する。 |
| 因みに前田はゴッチのことを自著で「哲学者だと思った」と記し、こよなく尊敬、決定的とも云える程の影響をゴッチから受けている。 |
| -->1982年1月1日後楽園ホールにおいて藤原喜明とエキシビション・マッチで対戦、同年1月8日後楽園ホールにおいて木戸修と対戦したエキシビション・マッチが、プロレスラーとして最後の試合である。 |
| その後は、第一次および第二次UWF、藤原組の顧問に就任し、所属プロレスラーを指導。 |
| 佐山聡が設立したスーパータイガージムでも指導をする。 |
| シーザー武志へはシュートボクシング創設につながるアドバイスを与える。 |
| また、船木誠勝、鈴木みのるが1993年5月に設立した団体に「パンクラス」の名を与えている。 |
| 2006年7月より藤波辰爾、西村修が設立した無我ワールド・プロレスリングの名誉顧問に就任。 |
| 晩年は、タンパの自宅に西村修が度々訪ね、既に夫人を亡くしていたゴッチの世話を西村が行っていた。 |
| 二人で夜な夜なワインを酌み交わしながら、プロレス談義に花を咲かせていたという。 |
| 2007年7月28日21時45分、アメリカ合衆国フロリダ州タンパ市にて82歳で死去した。 |
| 2007年7月30日発行の東京スポーツ紙の記事では『大動脈瘤破裂』が死因だったとしている。 |