| ガウスは奨学金を得て大学に進み、数々の重要な発見を行った。 |
| 彼は、古代ギリシアの数学者達に起源を持つ定規とコンパスによる正多角形の作図問題に正確な必要十分条件を与え、正17角形が作図できることを発見した(1796年3月30日)1801年に出版した''DisquisitionesArithmeticae''(『整数論の研究』)において、一般にフェルマー素数個の辺をもつ正多角形は作図できること、つまり素数''p''が22''n''+1の形である場合に正''p''角形が作図できることも示している。 |
| 今日までに知られているフェルマー素数は3、5、17、257、65537である。 |
| 作図できる正(素数)角形は古来から知られていた正三角形と正五角形のみだと考えられていたのでこの発見は当時の数学界に衝撃を与えた。 |
| 作図できる正多角形の種類が増えたのは約二千年ぶりのことであった。 |
| 彼はこの結果を非常に喜び、この成果である正17角形を墓標に刻むように申し入れた(結局、これは実現されなかったが、彼の記念碑には正17角形が刻まれている)。 |
| また、この発見の日より、数学的発見を記述したガウス日記をつけはじめ、また自分の将来の進路を数学者とすることに決めたといわれる。 |
| 学位論文で彼は代数学の基本定理を最初に証明した。 |
| 後に彼はこの問題に対して3つの異なる証明を行い、複素数の重要性を決定付けた。 |
| ガウスのもっとも偉大な貢献は数論の分野である。 |
| この分野だけが、その全貌ではないにしろガウスの研究が体系的にまとめられて出版された。 |
| それが1801年に発表したDisquisitionesArithmeticaeであり、そのほとんどのページが二、三元の二次形式の研究に当てられている。 |
| この本は、数の合同の記号を導入し合同算術の明確な表現を与え、平方剰余の相互法則の初の完全な証明などが与えられている。 |
| 自然数の素数による一意分解の定理が明確に言明され、証明されたのもこの本が最初であった。 |
| また今日でいうところの円分体の理論が記述されているほか、素数定理に対する予想が述べられている。 |
| しかしこの本は、あまりにも時代をぬきんでた難解な著作であり、その上出版社の問題から発行部数が相当低かったこともあって、実際には当時理解できるものは限られていた。 |
| 結局それがようやく大勢に理解されるようになるのは、それを詳しく解読し講義したディリクレの時代になってからである。 |
| ガウスは発表はしなかったが、解析学の分野でも時代を先んじた研究を行っていた。 |
| 当時はまだ複素数が完全なる市民権を得ておらず、出来れば使用を避けたいという風潮のあった時代であった。 |
| そのため、ガウスは代数学の基本定理を証明した学位論文では誤解をさけるために虚数を表に出さず、多項式が実数の範囲内で1次または2次の因数に分解されるとした。 |
| そのような時代にあっても、早くから虚数への偏見から完全に自由であったガウスは複素数の世界に深く分け入り、数多の美しい結果を得た。 |
| まず1797年から始まる楕円関数の最初の研究、レムニスケート関数の発見である。 |
| そして1800年には一般楕円関数を発見し、その理論を展開した。 |
| 楕円関数の発見が世の中に最初に公表されたのは1828年のクレルレ誌上のニールス・アーベルの論文によってであるから、ガウスがいかに時代を先んじていたかが分かる。 |
| また同じ1800年頃、モジュラー関数を発見してその理論を組み立てたが、それはデデキントの同種の仕事に先立つこと50年であった。 |
| 一方、関数論は1825年のコーシーの虚数積分の論文に端を発し、その後30年を掛けて対象としての解析関数の認知にまで発展したが、ガウスには1811年にはすでに、後に「コーシーの積分定理」として知られる事柄を確実に把握し、使いこなしていた。 |
| すでに1790年代の中頃からガウス平面上でものごとを考えていたガウスの眼には二重周期関数の存在は自明で、三角関数の拡張を目指して楕円積分の逆関数を考え、その結果「楕円関数」を得たのもごく自然の動きであり、また複素積分での積分路の役割を考えてコーシーの積分定理の内容に逢着したのもこれまたごく自然であろう。 |
| ガウスは、そうした成果の全てを発表しなかったが、彼がそのように、自身の成果を発表せずにいたのには幾つかの要因があると思われる。 |
| その1はガウスにとっては研究で美しい結果を得ることが最大の報酬であり、他人の認知を必要としなかったことである。 |
| 実際、ガウスは非ユークリッド幾何学の可能性についての自身の考えが世に漏れることに極めて慎重であった。 |
| アーベルのこの論文や楕円関数論が世間に認知されたのは1826年に論文雑誌「クレルレ誌」が創刊され、それに寄稿しての話である。 |
| このような時代にあってガウスは解析学の大著述を計画するが、研究が進展して考察の範囲がとめどもなく拡大していき完結の機会を逸し、また測量学の実地での測量や膨大な数値計算、天文観測などで多忙であったこと、ナポレオンによるヨーロッパの政治混乱による経済的困窮などにより、ついに世に出ることがなかったという。 |
| 1809年にガウスは''Theoriamotus''(『天体運行論』)のなかで彼の主要な研究であった最小二乗法のふるまいについて記す。 |
| これは現在の科学ではほぼすべての分野で観測等の誤差を含むデータから推定値を求める際の計算法として用いられている。 |
| また、誤差の分布に対してある程度の仮定を設けることで正規分布が導かれることや、正規分布に基づいて最小二乗法による推定の良さ(今日の最尤推定)が導かれることなどを証明した。 |
| これについての論文は1805年にアドリアン=マリ・ルジャンドルが発表していたが、ガウスはこの理論に1795年には到達していた。 |
| (ただし、これがルジャンドルとの先取権をめぐるいざこざの原因となり、面倒を嫌うガウスの秘密主義を招いたとも言われる)。 |
| それを不満と思っていたわけではなく、生活に困ってもいなかったが、数学そのものがそれほど世の中の役に立つとは考えていなかった(注、職業数学者というポストが成立したのは主に大学制度が出来てからで、それ以前は貴族王侯の名誉を支える一種の芸人として仕えるあるいは助成を受ける者として、あるいは自然科学や産業上の研究と不可分な形で、または個人の名誉の探求行為としてのみ存在した)。 |
| そのため、彼自身は天文学者になることを願うようになり、1801年に発見後行方不明になっていたケレスの軌道決定の功績が認められて1807年にゲッティンゲンの天文台長になった。 |
| そこでも測定用機材の開発(ガウス式レンズの設計)、楕円関数の惑星の摂動運動への応用、力学に於ける最小作用の法則の定式化の一つである「ガウスの最小拘束の原理」など、数々の発見を行っている。 |
| また地球磁気の研究に関連して、フーリエ級数展開の高速な計算方法を開発し、データ数が2の冪乗の場合についてを論文に記述しているが、これは後の電子計算機の時代にFFTとして定式化(が再発見)された方法と本質的には同じものである。 |
| ガウスは非ユークリッド幾何学の一つである双曲幾何学の発見者でもある。 |
| 友人であるファルカス・ヴォルフガング・ボヤイはユークリッド幾何学以外の公理を発見しようと多くの年月を費やしたが失敗した。 |
| ボヤイの息子であるヤーノシュ・ボヤイは1820年代に双曲幾何学を再発見し1832年に結果を発表した。 |
| 1818年にハノーファー王国の測量をする測定装置のために、後に大きな影響を与えた正規分布についての研究を始めた。 |
| 1828年に、曲面の面積と対応する単位球面の面積の無限小比として意味付けられる曲率(今日ではと呼ばれる)が、曲面の内在的量にのみ依存することを示し、ラテン語でTheoremaEgregium(驚異の定理)と呼んだ。 |
| ガウスの定理・ガウスの法則・ガウス(磁束密度の単位)・ガウス単位系は彼の名にちなむ。 |
| 彼は数学の教授になったことはなく、教師となることも嫌ったが、リヒャルト・デーデキントやベルンハルト・リーマンなど彼の弟子達は、彼の僚友で後継者としてユダヤ人初の正教授となったモーリツ・アブラハム・スターンにも才能を引き出され、偉大な数学者となった。 |