| 最初のプロテスト不合格を経て1966年12月11日に藤原正夫(堀口)に1回KO勝ちでプロデビュー。 |
| ボクサーとしてはこの時代のオーソドックスな「早いの(左パンチ)で崩して強いの(右パンチ)を入れる」タイプだが、土壇場での打ち合いを嫌ったとされ倒れ癖と揶揄される面もあった。 |
| 4回戦時代は当初、勝ったり負けたりの状態であり、1回KO負け(1967年8月9日、村林桂次(木村)戦)の経験もある。 |
| 後にヨネクラジムと契約していたエディ・タウンゼントの教えを受けている。 |
| 1969年、全日本ライト級新人王。 |
| 同期の新人王にウェルター級の輪島功一がいた。 |
| 1970年1月25日、世界王座挑戦がほぼ決まっていた、東洋ライト級王者・ジャガー柿沢(中村)の前哨戦の相手に選ばれるが、番狂わせの一方的な判定勝ちを収め、柿沢に代わって世界挑戦権を得る。 |
| 1970年6月6日、パナマでWBA・WBC世界ライト級王座挑戦。 |
| イスマエル・ラグナ()に13回TKO負け。 |
| 1971年3月3日、日本ライト級王者高山将孝(堀口)に挑むが、10回引分でタイトル奪取ならず。 |
| 1972年1月16日、5か月前にKO負けしている門田新一(三迫)の東洋ライト級タイトルに挑戦。 |
| 今度は判定勝ちで王座奪取する。 |
| 試合後「今の目標は、生意気ですが、ブキャナン(当時WBA王者)です」と語ったが、3年後には王者としてこのブキャナンの挑戦を受けることになる。 |
| 1973年9月8日、WBA世界ライト級王座挑戦。 |
| 石の拳ロベルト・デュラン()の持つ世界ライト級王座に敵地パナマで挑戦し、10回KO負け237頁下段。 |
| 試合の勝敗以前にガッツの「こりゃ勝てない」という諦めの早さに米倉健司会長は怒ったという。 |
| ガッツも後に全盛期のデュランの余りの強さに「もうだめだ、いつ頃倒れようか。 |
| 余り早く倒れると敵地なので何が起こるかわからない。 |
| 結局は自分から倒れちゃったみたいなもの」という主旨のことを後に語っている。 |
| 1974年4月11日、東京・日大講堂で、WBC世界ライト級王座挑戦。 |
| ロドルフォ・ゴンザレス()に8回KO勝ちで王座奪取238頁上段。 |
| 戦績59勝50KO5敗、しかもその前5年間の敗北は一階級上の名王者アントニオ・セルバンテス()に喫した1敗のみという王者に対し、ガッツの戦績は26勝14KO11敗6分であったため、下馬評はガッツの圧倒的不利の予想であった。 |
| だが、試合が始まってみると、ガッツは絶好調で、毎回ほぼ互角の打ち合いが続いた。 |
| 8回、ガッツのパンチを吸収し、動きがやや重くなった王者に対し、ガッツは強烈な左フックをヒット、すかさず右をフォローし王者からダウンを奪った。 |
| ややレフェリーのカウントはロング気味で、何とか立ち上がったゴンザレスから、すかさずガッツは2度目のダウンを奪う。 |
| ところが、レフェリーはこれを「スリップ」と判断し、なおかつキャンバスに倒れた王者を助け起こすルール違反を犯す。 |
| セコンドの米倉健司、エディ・タウンゼントらが激高、抗議のためリングに上がりかけるほどの事態だったが、ガッツは冷静に「大丈夫。 |
| 倒すから」とセコンド陣を制したのち、その言葉どおりにコーナーでゴンザレスを乱打して、今度こそキャンバスに完全に沈めた。 |
| 最初のダウンを奪ったパンチは、本人曰く「ワンツーパンチ」だが、左・右のスピードが速く相手には右腕の動きが見切れないことから、“幻の右”と評された。 |
| トレーナーのエディ・タウンゼントも「今日のイシマツ、新しい力入ったのよ。 |
| 」と驚いたほどの会心の出来だった。 |
| この試合は本来3か月前に行われるはずであったが、ゴンザレスがクモに噛まれたために延期になった。 |
| 後に、ガッツは「この3か月の延期によってスタミナを付けることができた。 |
| 私には運があった。 |
| 」と述べている。 |
| この対戦から32年後に番組の企画で再会した際、ゴンザレスも貧しい家に生まれたこと、ボクシングの世界チャンピオンになったこと、そして、引退後に俳優になったことなど、あらゆる点で共通していたことを知る。 |
| 1974年9月12日、愛知県体育館でチュリー・ピネダ()を相手に初防衛戦、風邪をひいて最悪の体調のため、苦戦するが、辛くも引き分けで初防衛に成功した238頁下段。 |
| 1974年11月28日、大阪府立体育会館で、ロドルフォ・ゴンザレスとリターンマッチで対戦し、12回KO勝ちで2度目の防衛に成功した239頁上段。 |
| 1975年2月27日、東京体育館で、元WBA・WBC王者であり、超一流のテクニシャンとしても名高い世界1位の指名挑戦者ケン・ブキャナン()相手の防衛戦を行う。 |
| この試合まで56勝25KO2敗の戦績を誇るブキャナンは、その5年前にガッツの挑戦を退けた直後のラグナから15回判定勝ちで王座を奪取し、3度目の防衛戦で、ややローブロー気味のボディブローでロベルト・デュランにKO負けし、WBA王座を奪われたものの、その後3年間は負けなし(13戦全勝9KO勝ち)、ガッツ自身を始め、日本の一流どころがいずれも勝てなかった李昌吉()にも2回KO勝ちしていた。 |
| 序盤はガッツがブキャナンの左に合わせて、威力ある右を再三ヒット、ブキャナンは左目が腫れてふさがったが、中盤はブキャナンが全盛期を思わせるスピードでガッツの廻りを動きながら、左ジャブを再三ヒットし、ポイントをリードした。 |
| これに対し、ガッツは12回、左右を風車のように振り回す「ケンカ殺法」でブキャナンのペースを乱し、13回には右を決めてダウンを奪う(判定はスリップだったが、イギリス人のジャッジ、ハリー・ギブスはこの回を10対8でガッツに付けている)など最後の3Rはほぼ一方的に打ちまくって3-0の判定勝ちで3度目の防衛に成功した240頁上段。 |
| WBCは、この月の月間MVPにガッツを選出した。 |
| 最強の挑戦者ブキャナンを下したことで、ガッツの評価は揺るぎないものになった。 |
| 1975年6月5日、大阪の近大記念体育館で、前回引き分けているチュリー・ピネダと再戦、今回もやや手こずったが、終盤はアウトボクシングするなど、ピネダの攻勢をかわし、3-0の判定勝ちで4度目の防衛に成功した240頁下段。 |
| このあたりから、ライト級の体重維持がだんだん苦しくなる。 |
| 1975年12月4日、東京・日大講堂で、アルバロ・ロハス()を苦戦の末、10回に右アッパーでダウン寸前に追い込み、14回に右アッパーの一撃で倒し5度目の防衛に成功した241頁上段。 |
| 「13kg減量」が話題となったが、実際には19kg減量、しかも試合前1か月間で10kg落としたと言われている。 |
| 1976年5月8日、6度目の防衛戦でエステバン・デ・ヘスス()に15回判定で敗れ王座から陥落した241頁下段。 |
| この試合、経済的に後進国だったプエルトリコが、当時としては異例の20万ドルをガッツのファイトマネーに用意した。 |
| 1977年4月2日、WBC世界ジュニアウェルター級王座に挑戦するが、センサク・ムアンスリン()に6回KO負けで2階級制覇ならず254頁上段。 |
| 1978年、後の日本スーパーウェルター級王者・新井容日(大星)に判定負けし、引退。 |
| 1995年世界タイトル初挑戦時の平仲信敏の特別コーチも務めた。 |