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プロフィール
- クビライとは
- 即位以前
- 皇帝位をめぐる争い
- 新国家の形成
- 外征と内乱
- 晩年
- 后妃
- 子女
- 男子
- 女子
- 参考文献
クビライ(Qubilai,Khubilai,1215年9月23日-1294年2月18日)は、モンゴル帝国の第5代皇帝(大 ハーン)。在位は1260年5月5日-1294年2月18日。同時代のパスパ文字モンゴル語およびモンゴル文字などの中期モンゴル語のラテン文字 転写ではQubilaiQa'an、QubilaiQaγan。現代モンゴル語のキリル文字 転写ではХубилайхаан。漢字表記は忽必烈。『集史』をはじめとするモンゴル帝国時代のペルシア語表記(『集史』「クビライ・カアン紀」など)では قوبيلاىقاآنQūbīlāīqā'ānなど書かれる。漢風の廟号は 世祖、諡は聖徳神功文武皇帝。 ...
即位以前
| クビライは、1215年にチンギス・カンの四男トルイの子として生まれた。 |
| 母はケレイト部族出身のトルイの正夫人ソルコクタニ・ベキで、トルイがソルコクタニとの間に設けた4人の嫡出子のうちの次男にあたり、兄に第4代皇帝となったモンケ、弟にイルハン朝を開いたフレグ、クビライとモンゴル皇帝(カアン)位を争ったアリクブケがいる。 |
| 青年時代の事歴についてはほとんど知られていない。 |
| 1251年に兄モンケがカアンの座に就くと、ゴビ砂漠以南の南モンゴル高原・華北における諸軍の指揮権を与えられ、中国方面の領土の征服を委ねられた。 |
| 1252年には自身が所領とする京兆(唐の長安、現在の西安)を中心とする陝西を出発して雲南への遠征に出発、南宋領を避けてチベットの東部を迂回する難行軍の末に翌1253年に雲南を支配する大理国を降伏させた。 |
| 雲南からの帰還後は金の旧都である中都(現在の北京)の北、南モンゴル(現在の内モンゴル自治区)中部のドロン・ノールに幕営(オルド)を移し、後方から江南の南宋および朝鮮半島の高麗征服の総指揮を取った。 |
| クビライは後方のドロン・ノールに腰を据えて動かず、ここに遊牧宮廷の補給基地となる都城の開平府(後の上都)を築き、姚枢ら漢人のブレーンを登用して中国を安定して支配する道を模索した。 |
| しかし、南宋を早急に併合することを望むカアンのモンケはクビライの慎重策に不満を持ち、1256年に南宋への戦線を自らの陣頭指揮により行うことを決し、クビライをこの作戦の責任者から更迭した。 |
| 1258年、自ら陝西に入って親征を開始したモンケは、河南から四川の南宋領を転戦したが、翌1259年に軍中で流行した疫病に罹って病死した。 |
皇帝位をめぐる争い
| モンケの急死により、モンケの年若い息子達にかわって3人の弟達が後継者となる可能性が生じた。 |
| 三弟のフレグは遠くイランにおいて西アジアの征服事業を進めていたため、皇帝位を巡る争いは次弟のクビライと末弟のアリクブケが当事者となった。 |
| アリクブケはこのとき首都カラコルムにおいてモンケの留守を守っており、モンケの重臣達やモンゴル高原以西の諸王・諸部族はアリクブケの支持に回ったので、アリクブケが有力な後継者候補に立った。 |
| 一方のクビライはモンケが死んだとき長江の中流域で転戦していたので、前線の中国に駐留する諸軍団やモンゴル高原東部のモンゴル貴族、王族を味方につけることになった。 |
| 1260年、クビライの本拠地ドロン・ノールでクビライ支持派によるクリルタイが開かれ、クビライのカアン即位を一方的に宣言する。 |
| アリクブケもこれに対抗してカアン即位を宣言し、モンゴル帝国はクビライとアリクブケの2人のカアンが並び立つ帝国の南北分裂に発展した。 |
| この内紛では精強な東部の諸部族を味方につけたクビライ側が緒戦のシトム・ノールの戦いに勝利し、早々に中国と高原の大半を制覇した。 |
| 一方のアリクブケは高原北西部のオイラト部族の援助を受けて一時は高原中央部のカラコルムを取り戻すが、中国を押さえるクビライが行った経済封鎖によって自給のできないカラコルムはたちまち危機に陥った。 |
| 1264年、アリクブケは降伏し、クビライが単独の皇帝となった。 |
新国家の形成
| クビライは1260年に即位すると、モンゴル王朝で初めての中国風の元号を立て、漢人官僚を集めた行政府である中書省を新設した。 |
| 中書省には六部が置かれて旧来の尚書省の機能を兼ねさせ、華北の庶政を取り仕切る最高行政機関とした。 |
| 続いて軍政を司る枢密院、監察を司る御史台などの諸機関が相次いで設置されて、中国式の政府機関が一通り整備された。 |
| アリクブケとの内紛の最中の1262年には山東を支配する漢人軍閥が反乱を起こし窮地に陥ったが、これを鎮圧したクビライは反乱をきっかけとして、華北の各地を支配していた在地軍閥を解体させた。 |
| これによりモンゴル皇帝であるカアンと皇族、モンゴル貴族、そして在地領主の間で錯綜していた華北の在地支配関係が整理され、地方には路・州・県の三階層の行政区が置かれた。 |
| 1267年からは中都の郊外に中国式の方形様式を取り入れた都城大都の建造を開始、至元8年11月乙亥(1271年12月18日)に国号は漢語で「大元」と改められたモンゴル語ではダイオン・イェケ・モンゴル・ウルス(Dai-önYekeMongγolUlus)すなわち「大元大蒙古国」と称したもの。 |
| 『元史』世祖本紀巻七至元八年十一月乙亥(1271年12月18日)条にある詔に、「可建國號曰大元、蓋取易經「乾元」之義。 |
| これは『易経』巻一乾に「彖曰、大哉乾元、萬物資始。 |
| 」とある文言に基づいていた。 |
| しかし、クビライの宮廷はあくまで遊牧の移動生活を保って大都と上都の間を季節移動しており、元はいまだ遊牧国家としての性格も濃厚であった。 |
| 中書省の高官はクビライの夫人チャブイの甥にあたるアントンらモンゴル貴族の支配下にあり、州県の多くもモンゴルの王族や貴族の所領に分かたれていて、クビライの直接的な支配は限定的にしか及ばなかった。 |
| また、クビライはチベット仏教の僧パクパ(パスパ)を国師として仏教を管理させ、モンゴル語を表記する文字としてチベット文字をもとにパスパ文字を制定させるなど、モンゴル独自の文化政策を進めた。 |
| 中国王朝の伝統的なイデオロギーである儒教は特別に重視はされず、科挙の復活もクビライのもとでは行われなかった。 |
外征と内乱
| 軍事的には、アリクブケの乱以来、中央アジアのオゴデイ家とチャガタイ家がハーンの権威から離れ、本来はハーンの直轄領であった中央アジアのオアシス地帯を横領、さらにクビライに従う甘粛方面の諸王や天山ウイグル王国を圧迫し始めたので、多方面からの対応が必要となった。 |
| そこで、クビライはチャブイ夫人との間に設けた3人の嫡子チンキム、マンガラ、ノムガンをそれぞれ燕王、安西王、北平王に任じて方面ごとの軍隊を統括させ、独立性をもたせて事態にあたらせた。 |
| 安西王マンガラはクビライの旧領京兆を中心に中国の西部を、北平王ノムガンは帝国の旧都カラコルムを中心にモンゴル高原をそれぞれ担当し、燕王チンキムには中書令兼枢密使として華北および南モンゴルに広がる元の中央部分の政治と軍事を統括させて、クビライは3子率いる3大軍団の上に君臨した。 |
| 1276年には将軍バヤン率いる大軍が南宋の都杭州を占領、南宋を実質上滅亡させその領土の大半を征服した(モンゴル・南宋戦争)。 |
| この前後にクビライはアフマドやサイイドらムスリム(イスラム教徒)の財務官僚を登用し、専売や商業税を充実させ、運河を整備して、中国南部や貿易からもたらされる富が大都に集積されるシステムを作り上げ、モンゴル帝国の経済的な発展をもたらした。 |
| これにともなって東西交通が盛んになり、クビライ治下の中国にはヴェネツィア出身の商人マルコ・ポーロら多くの西方の人々(色目人)が訪れた。 |
| 中国の外では、治世の初期に服属した高麗で起こった三別抄の反乱を鎮圧し、王太子にモンゴルの王女を降嫁して国王を通じた高麗支配を確立した(→モンゴルの高麗侵攻)。 |
| また1289年にはビルマのパガン王朝を滅亡させ、傀儡政権を樹立して一時的に東南アジアまで勢力を広げた。 |
| しかし、日本への2度の遠征(元寇)や、樺太アイヌ(→モンゴルの樺太侵攻)、ベトナムの陳朝やチャンパ王国、ジャワ島のマジャパヒト王国などへの遠征は現地勢力の激しい抵抗を受け、大きな成功は収められなかった。 |
| モンゴルの同族が支配する中央アジアに対しては、1275年にモンゴル高原を支配する四男の北平王ノムガンがチャガタイ家の首都アルマリクを占領することに成功したが、翌年モンケの遺児シリギをはじめとするモンケ家、アリクブケ家、コルゲン家など、ノムガンの軍に従軍していた王族たちが反乱を起こした。 |
| 司令官ノムガンは捕らえられてその軍は崩壊し、これをきっかけにオゴデイ家のカイドゥが中央アジアの諸王家を統合して公然とクビライに対抗し始めた。 |
| クビライは南宋征服の功臣バヤン率いる大軍をモンゴル高原に振り向けカイドゥを防がせたが、1287年には即位時の支持母体であった高原東方の諸王家がオッチギン家の当主ナヤンを指導者として叛いた。 |
| 老齢のクビライ自身がキプチャクやアス、カンクリの諸部族からなる侍衛親軍を率いて親征し、遼河での両軍の会戦で勝利した。 |
| ナヤンは捕縛・処刑され、諸王家の当主たちも降伏してようやく鎮圧した。 |
| クビライは東方三王家であるジョチ・カサル家、カチウン家、テムゲ・オッチギン家の当主たちを全て挿げ替えた。 |
| カイドゥはこの混乱をみてモンゴル高原への進出を狙ったが、クビライは翌年ただちにカラコルムへ進駐し、カイドゥ軍を撤退させた。 |
| カチウン家の王族カダアンがなおも抵抗し、各地で転戦して高麗へ落延びてこの地域を劫掠したが、1292年に皇孫テムルが派遣されて元朝と高麗連合軍によってカダアンを破り、カダアンを敗死させてようやく東方の混乱は収束した。 |
| (ナヤン・カダアンの乱)。 |
晩年
| クビライの政権が長期化すると、行政機関である中書省と軍政機関の枢密院を支配して中央政府の実権を握る燕王チンキムの権勢が増し、1273年に皇太子に冊立された。 |
| 一方、アフマドも南宋の征服を経て華北と江南の各地で活動する財務官僚に自身の党派に属する者を配置したので、その権力は絶大となり、やがて皇太子チンキムの党派とアフマドの党派による反目が表面化した。 |
| 対立が頂点に達した1282年、アフマドはチンキムの党派に属する漢人官僚によって暗殺された。 |
| この事件の後アフマドの遺族も失脚し、政争は皇太子派が最終的な勝利を収める。 |
| これにより皇太子チンキムの権勢を阻む勢力はいなくなり、クビライに対して皇太子への譲位を建言する者すら現われたが、チンキムは1285年に病死してしまった。 |
| 一方、カイドゥのモンゴル高原に対する攻撃はますます厳しくなり、元軍は敗北を重ねた。 |
| 外征を支えるためにクビライが整備に心血を注いだ財政も、アフマドの死後は度重なる外征と内乱によって悪化する一方であった。 |
| 1287年に財政再建の期待を担って登用されたウイグル人財務官僚サンガも1291年には失脚させられ、クビライの末年には元は外征と財政難に追われて日本への3度目の遠征計画も放棄せざるを得なかった。 |
| 1293年、クビライは高原の総司令官バヤンを召還し、チンキムの子である皇太孫テムルに皇太子の印璽を授けて元軍の総司令官として送り出したが、それからまもなく翌1294年2月18日に大都宮城の紫檀殿で病没した。 |
| 遺骸は祖父チンギス以来歴代モンゴル皇帝と王族たちの墓所であるモンゴル高原の起輦谷へ葬られた。 |
| 同年5月10日、クビライの後継者となっていた皇太孫テムルが上都で即位するが、その治世下でカイドゥの乱は収まって、クビライの即位以来続いたモンゴル帝国の内紛はようやく終息をみることになる。 |
| テムルが即位した1294年6月3日には、聖德神功文武皇帝の諡と、廟号を世祖、モンゴル語の尊号をセチェン・カアン(薛禪皇帝)と追贈された。 |
后妃
| チャブイ(察必皇后) コンギラト部族首長家アルチ・ノヤン家の子女。 |
| 当主アルチ・ノヤンの娘で、姉妹にはジョチの正妃でバトゥの生母オキ・フジンらがいる。 |
| 1281年、チャブイが逝去した後、クビライの希望によりチャブイの後任として皇后に迎えられ右大オルドを引き継いだ。 |
| 『集史』コンギラト部族志によればアルチ・ノヤンの息子ナチンの娘としているが、『元史』巻百十四后妃列伝南必皇后条によると、ナチンの孫である仙童(オラチンの息子)の娘としている。 |
| 速哥答(思) |
子女
| クビライの子女については、『集史』クビライ・カアン紀の后妃・嗣子表と『元史』の宗室世系表のそれぞれに記載されているが、『集史』では子息は12人、『元史』では10人としており、また両者で子息の順序にも異同が見られる。 |
| そのため、人数の多い『集史』での記載順を載せ、『元史』宗室世系表の記述を併せて載せる事にする。 |
男子
| クビライの長子で、チャブイ皇后との間に儲けた四人の息子たちの長男。 |
| 『集史』によると、イルハン朝のアバカの治世(1265年-1282年)まで存命だったらしい。 |
| 次男チンキム(燕王・皇太子真金) 母チャブイ。 |
| 三男マンガラ(安西王忙哥剌) 母チャブイ アナンダの父。 |
| 生母はチンギス・カンに仕えたフウシン部族出身の功臣ボロクルの娘、フウシジン・ハトゥン。 |
| 高麗国王忠烈王に降嫁したクトゥルク=ケルミシュもクビライと彼らの生母フウシジンとの娘ではないかと推測されている。 |
| 1271年、異母兄ノムガンが中央アジアのカイドゥの鎮圧のため幕僚の右丞相アントンとモンケ家、アリクブケ家などの諸王族とともに派遣されアルマリクに駐営した際に、ノムガンに随行した。 |
| しかし、1276年にモンケ家のシリギを中核とする他のトルイ家の王族たちが反乱を起こし(いわゆる「シリギの乱」)、ココチュは捕縛され西方の有力王族たちの協力を欲したシリギらにより人質としてカイドゥのもとに連行された。 |
| しかし、カイドゥやジョチ・ウルスはシリギ一統の要請を拒絶し、クビライが南宋戦線からバヤンを派遣して乱を鎮圧すると、ココチュもクビライのもとへ送還された。 |
女子
| 生母である阿速真可敦については、現在『集史』クビライ・カアン紀に記載されているクビライの第8皇子アヤチ(アバチ)と第9皇子ココチュの生母であったフウシン部族のボロクル(ムカリ国王をはじめとするいわゆる「チンギス・カンの「チンギス・カンの四駿(DörbenKülü'üd)」のひとり)の娘、フウシジン皇后HūshījīnKhātūnとの比定が試みられているが、確定には至っていない。 |
参考文献
| 宇野伸浩「チンギス・カン家の通婚関係の変遷」『東洋史研究』52-3、1993年12月。 |
| 杉山正明 『クビライの挑戦モンゴル海上帝国への道』 朝日新聞社〈朝日選書〉、1995年。 |
| 杉山正明『モンゴル帝国の興亡(上)軍事拡大の時代』(講談社現代新書、1996年5月ISBN4-06-149306-X)。 |
| 杉山正明『モンゴル帝国の興亡(下)世界経営の時代』(講談社現代新書、1996年6月ISBN4-06-149307-8)。 |
| 杉山正明 『モンゴル帝国と大元ウルス』(京都大学学術出版会、2004年2月ISBN4-87698-522-7)。 |
| 杉山正明、北川誠一共著『大モンゴルの時代』(中央公論社、世界の歴史9、1997年8月ISBN4-12-403409-1)。 |
| コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン『モンゴル帝国史』第2巻(佐口透訳注,東洋文庫128)平凡社,1968年ISBN4582801285。 |
| コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン『モンゴル帝国史』第3巻(佐口透訳注,東洋文庫189)平凡社,1971年。 |
| 森平雅彦「高麗王家とモンゴル皇族の通婚関係に関する覚書」『東洋史研究』67-3、2008年。 |
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杉山正明
日本の歴史学者。京都大学文学研究科教授。専攻はモンゴル史、中央ユーラシア史。静岡県沼津市出身。 |
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チンギス・カン
モンゴル帝国の初代皇帝(在位:1206年-1227年)。大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国北部・中央アジ... |
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アリクブケ
母
没落したオゴデイ家から独力で大勢力を構築したハイドゥや、その傘下で同盟を組むチャガタイ家を味方につけたアリクブケが当初は優位であったが、旧金朝治下... |
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スブタイ
チンギス・ハーンの家臣。ウリャンカイ部の出身で、同じくチンギスのもとで活躍したジェルメの弟。ウリヤンカダイの父。四狗の1人。漢文では「速別額台」(ス... |
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モンケ
母
モンゴル帝国の第4代皇帝(カアン、大ハーン)(在位1251年7月1日-1259年8月11日)。漢字表記は蒙哥、蒙哥皇帝で、ペルシア語表記ではمنگوقاآنmankūqā'ānまた... |
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元帝
東晋の初代皇帝。河内郡温県の人。魏の司馬懿の曾孫に当たる。祖父は瑯邪武王司馬伷、父は瑯邪恭王司馬覲。生母は夏侯光姫(魏の夏侯淵の曾孫)。弟に東安王... |
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北条時宗
鎌倉時代中期の武将・政治家。鎌倉幕府第8代執権。鎌倉幕府執権職を世襲する北条氏の嫡流得宗家に生まれ、モンゴル帝国の日本に対する圧力が高まるなかで執権... |
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フレグ
母
イルハン朝(フレグ・ウルス)の創始者である(在位1260年-1265年)。ペルシア語ではHūlākūkhānと表記される。アバカの父。チンギス・ハーンの子のトルイと、... |
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オゴデイ
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世祖
世祖(セジョ、せいそ、永楽15年9月29日(1417年11月7日)-成化4年9月8日(1468年9月24日)、在位:1455年閏6月11日-1468年9月7日)は李氏朝鮮の第7代国王。... |
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フビライ
不知火 駿@フビライ ch20012 部員ID fubirai 性別 男性 (こえの性別:男性) 生年月日 1994年 7月 15日(17歳/蟹座) 地域 宮崎県 URL http://c... |
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