| クリスチャン5世は勇敢で愛想よい人物であり、その故に市民の信望を集めていたと一般に考えられている。 |
| しかしそのイメージはスコーネ戦争においてスコーネ地方の奪還に失敗したことで傷つけられてしまった。 |
| この戦争はデンマークに何ももたらさなかったばかりでなく、その経済力に大きな悪影響を与えたのである。 |
| "ChristianV."(2007).In''EncyclopædiaBritannica''.RetrievedJanuary9,2007,fromEncyclopædiaBritannicaOnline.。 |
| 彼が市民の人気を集めた理由のひとつには、デンマークの一般市民が国家機関で働くことを可能にしたこともあると考えられている。 |
| しかし、貴族層の力を削ごうとする彼の試みには、父王の目指した絶対王政主義の継承という側面もあった。 |
| Jespersen,KnudJ.V. |
| このような径路で登用された一般市民には、1670年に王によってグリッフェンフェルト伯爵の称号を与えられ、1674年に高等顧問官となったペダー・シューマッハーがいる。 |
| グリッフェンフェルトは有能な政治家で、フランスと同盟関係にあるスウェーデンを攻撃することでデンマークがどれほど危険な状態に自らを置くことになるかについて王よりもよく分かっていた。 |
| グリッフェンフェルトの予測した通り、講和条件を決定したのはフランスであり、スコーネ戦争では1675年から1679年の対スウェーデンの海上戦で勝利したにも拘わらず、スカンディナヴィア半島の国境線を変更するというデンマークの当初の願いをかなえることはできなかった。 |
| この戦争は政治的にも経済的にもデンマークにもたらすところはわずかであった。 |
| 経済的打撃は大きく、そしてもっとも有能な助言者も、もはやクリスチャン5世の側にはいなかった。 |
| グリッフェンフェルトは1676年に敵対派の工作により売国奴として失脚させられ、残りの生涯を牢中で過ごすこととなったのである。 |
| 1679年のスコーネ戦争の講和条約フォンテーヌブロー条約は、スウェーデンの同盟国フランスから押し付けられたものであった。 |
| デンマークはこの戦争でスウェーデン領土の一部を占領していたにも関わらず、フランスの軍事的圧力に屈し、領土を返還せざるを得ず、不満が募った。 |
| 同様にフランスに主導権を握られてしまったスウェーデンもまた、反フランス感情が高まった。 |
| 戦後、両国はこうした不満や感情の元で政策を転換し、フォンテーヌブロー条約に則ったルンド条約を新たに締結した。 |
| この条約でクリスチャン5世の妹ウルリカ・エレオノーラがスウェーデン王カール11世と婚約し、スウェーデンと同盟を結ぶ事となった。 |
| クリスチャン5世は1683年に、デンマーク初の法典''DanskeLov''を発布した。 |
| Jespersen,KnudJ.V. |
| また1688年には土地登記制度を導入し、税制の改革をはかった。 |
| 神聖ローマ帝国でザクセン=ラウエンブルク公領を巡る紛争が勃発、1693年にハンブルクで和議を締結、クリスチャン5世は伯父のリューネブルク侯ゲオルク・ヴィルヘルムのザクセン=ラウエンブルク公領の領有を認めた。 |
| スウェーデンから一歩も出たことがなく、ドイツ語とスウェーデン語しか話さないために外交使節が訪れた時に直接会話することができず、知性的ではないと見なされがちであったカール11世Upton,AnthonyF.(1998).''CharlesXIandSwedishAbsolutism,1660-1697''.CambridgeUniversityPress,1998.ISBN0521573904.と似て、クリスチャン5世も教育がなく、顧問官達に依存していると同時代資料では見なされていることが多い。 |
| 王自身もこのようなうわさを打ち消す方策を何も取らなかった。 |
| その回想録には「狩猟、情交、戦争、海事」が主な関心事であると記されている。 |
| Nielsen,KaySøren(1999). |
| 1699年、猟銃による事故の後遺症がもとで死去し、ロスキレ大聖堂に埋葬された。 |
| クリスチャン5世には科学的知識や興味はなかったが、天文学者オーレ・レーマーの活躍により、その治世下にデンマークは科学の黄金時代を迎えた。 |