| 不完全性定理は、ジョン・フォン・ノイマンら当代一流の学者の激賞を受け、「人間の理性の限界を示した」とも評されている。 |
| 1940年には、ヒルベルトの第一問題(連続体仮説)について、集合論のZF公理系が無矛盾ならば、そこに選択公理と一般連続体仮説を加えても無矛盾であることを証明した。 |
| 以上がゲーデルの三大業績と呼ばれているが、この後ゲーデルは連続体仮説に関する研究からは離れてしまった。 |
| 1963年、ポール・コーエンはZF公理系に選択公理と一般連続体仮説の否定を加えても無矛盾であることを証明し、ゲーデルの結果と合わせて選択公理と一般連続体仮説がZFとは独立である(証明も否定の証明も出来ない)ことを示した。 |
| コーエンの結果を知った時、ゲーデルはこれは自分が為すべき仕事だったと悔やんだと言われるが、コーエンの仕事自体については絶賛した。 |
| 一方で、すべての数学的命題に対し人間は真偽を判定することが可能だと、ゲーデルは信じていたと言われる。 |
| 特に、連続体仮説に関しては、その否定を信じていた。 |
| その他の業績として、アインシュタインの一般相対性理論におけるゲーデル解(1949年)などがある。 |
| この解は非常に奇妙な性質を示したために、アインシュタインをして自身の理論に疑問を抱かせるに至った。 |
| ゲーデルはウィーン大学の講師を勤めたが、1940年頃にはナチス・ドイツを逃れて妻アデルともどもアメリカ合衆国に移住したもっとも、ゲーデルはユダヤ系ではないこともあってナチスに中立的な立場だった。 |
| むしろ自分をユダヤ人と間違え冷遇したオーストリア学術界に対して強い反感を持っており、そこから離れたいという思いが強かったようである。 |
| その後、ゲーデル存命中にオーストリアから与えられた名誉号などは全て受領を拒否している。 |
| 彼は米国の市民権を取得し、プリンストン高等研究所の教授となった。 |
| この研究所では、アインシュタインと家族ぐるみで親密に交流し、物理学や哲学などについて議論を交わした。 |
| この渡米の時点ですでに人間不信に近い症状が出ていたようである。 |
| 1948年、ゲーデルはアメリカ市民権を取得する。 |
| このときの保証人になった一人がアインシュタインである。 |
| 当時、アメリカ市民権の取得には米国憲法に関する面接試験が課せられていたが、ゲーデルはこの面接試験に臨むため、合衆国憲法を一から勉強しはじめた。 |
| 面接当日、ゲーデルは「合衆国憲法が独裁国家に合法的に移行する可能性を秘めていることを発見した」とアインシュタインたちに語り、彼らを当惑させた。 |
| 移民審査をする判事から「あなたは独裁国家(ナチス・ドイツに併合されたオーストリア)から来られたのですね。 |
| 我がアメリカ合衆国ではそのような起きませんから安心してください」と言われたゲーデルは、即座に「それどころか私は、いかにしてそのようなことが起こりうるのかを証明できるのです」と答えたので、付き添いのアインシュタインたちが慌てて場をつくろう一幕があった。 |
| 高橋昌一郎『ゲーデルの哲学』(講談社現代新書153p-155p、1999年)を参照。 |
| 1970年代初頭には、ライプニッツによる「神の存在証明」を洗練しゲーデルの神の存在証明(en)として知られる論文を知人に配布した。 |
| 彼の意図は神学論争への加担ではなく、あくまで論理学的な興味の追求にあったため、誤解を恐れて生前は公表しなかった。 |
| その中で彼は、ライプニッツの主張について、公理系を解明しつつ様相論理の手法を用いて明確な定式化を試みた。 |
| この論文はゲーデルが没してから9年後の1987年に初めて公開された。 |
| 晩年は非常に内向的となり、精神にも失調をきたしていたらしく、毒殺されることを恐れる余り妻アデルが作った食事以外は自分が調理した食事すら口にしなかった。 |
| 夏でも冬服を着込み、毒ガスによる暗殺を恐れたために冬でも家の窓を開け放っていた。 |
| 人前に出ることはあまり無く、自宅にこもって哲学と論理学の研究を続けていた。 |
| 最終的にはアデルが入院していた間に絶食による飢餓状態となり、プリンストン病院で死去したが、この時の体重は65ポンド(約29.5kg)しか無かった。 |
| 彼の遺稿は、英語、ドイツ語、およびガベルスベルガー式速記と呼ばれるドイツの古い速記法で書かれている。 |
| ガベルスベルガー式速記で書かれている部分は、その速記法がすでに廃れているため、他の部分と比較して解読が困難であることで知られている。 |