| 夫妻の間には14人の子供が産まれているが、当時は乳幼児の死亡率が極めて高く、半数の7名は幼少時に死亡している。 |
| 長男イージドールも早世しており、グスタフ・マーラーはいわば長男として育てられる。 |
| 1864年(4歳)本人の回想によれば、この頃、アコーディオンを巧みに演奏したとされる。 |
| 1870年(10歳)10月13日、イーグラウ市での最初のピアノ独奏会を行う。 |
| 1875年(15歳)ウィーン楽友協会音楽院(現ウィーン国立音楽大学)にてローベルト・フックスに師事。 |
| 弟エルンストが13歳で没。 |
| 1876年(16歳)及び1877年(17歳)演奏解釈賞と作曲賞を受ける。 |
| 1877年(17歳)ウィーン大学にてアントン・ブルックナーの対位法の講義を受け、2人の間に深い交流が始まる。 |
| 1878年(18歳)作曲賞を受け、7月11日、卒業。 |
| 1883年(23歳)9月、カッセル王立劇場の楽長(カペルマイスター)となる。 |
| 1884年(24歳)ハンス・フォン・ビューローに弟子入りを希望したが受け入れられなかった。 |
| 6月、音楽祭でベートーヴェンの《第9交響曲》とフェリックス・メンデルスゾーンの《聖パウロ》を指揮して、指揮者として成功。 |
| 1885年(25歳)1月《さすらう若者の歌》を完成。 |
| プラハのドイツ劇場の楽長。 |
| この年は窮乏を極める。 |
| 1886年(26歳)8月、ライプツィヒ歌劇場で楽長。 |
| この年《子供の不思議な角笛》作曲。 |
| 1888年(28歳)この年《交響曲第1番ニ長調「巨人」》生まれる。 |
| 10月、ブダペスト王立歌劇場の芸術監督となる。 |
| 1889年(29歳)1月、リヒャルト・ワーグナーの《ラインの黄金》と《ワルキューレ》のカットのない初演をして模範的演奏として高い評価を得る。 |
| 2月に父を失い秋に母を失う。 |
| 1891年(31歳)4月、ハンブルク市立劇場の第一楽長となる。 |
| miniatur|thumb|グスタフ・マーラー(1892年)。 |
| 1895年(35歳)2月6日、弟・オットーが21歳で自殺。 |
| 1896年(36歳)シュタインバッハ(ザルツカンマーグートのアッター湖近く)にて《交響曲第2番ハ短調「復活」》、《交響曲第3番ニ短調》を書く。 |
| 1897年(37歳)春、結婚などのためにユダヤ教からローマ・カトリックに改宗。 |
| 5月、ウィーン宮廷歌劇場第一楽長に任命され、10月に芸術監督となる。 |
| 1898年(38歳)ウィーン・フィルハーモニーの指揮者となる。 |
| 1899年(39歳)南オーストリア・ヴェルター湖岸のマイアーニヒ(Maiernigg)に山荘を建て《交響曲第4番ト長調》に着手(翌年に完成)。 |
| 1901年(41歳)4月、ウィーンの聴衆や評論家との折り合いが悪化し、ウィーン・フィルの指揮者を辞任(ウィーン宮廷歌劇場=現・ウィーン国立歌劇場の職は継続)。 |
| 12月、「私の音楽を貴女自身の音楽と考えることはできませんか?」と結婚前のアルマ・シントラーに作曲をやめるように申し出る。 |
| 彼女はその後作曲の筆を折る。 |
| なお、アルマはツェムリンスキーに作曲を習い、14曲の歌曲を残している(UNIVERSAL社が出版)。 |
| 1902年(42歳)3月、アルマ・シントラー(23歳)と結婚。 |
| 2人とも初婚であった。 |
| 夏にマイアーニヒの山荘で《交響曲第5番嬰ハ短調》を完成。 |
| 10月、長女マリア・アンナ誕生。 |
| miniatur|thumb|グスタフ・マーラー(1902)。 |
| 1903年(43歳)フランツ・ヨーゼフ1世皇帝から第三等鉄十字勲章を授与される。 |
| 1904年(44歳)4月シェーンベルクとツェムリンスキーはウィーンに創造的音楽家協会を設立しマーラーを名誉会長とした。 |
| 夏にマイアーニヒの山荘で《交響曲第6番イ短調》を書き上げ、第7番の2つの「夜曲」を作曲。 |
| 1905年(45歳)夏、マイアーニヒの作曲小屋で《交響曲第7番ホ短調》第1楽章、第3楽章、第5楽章を作曲して完成に至る。 |
| 1907年(47歳)長女マリア・アンナ死亡。 |
| マーラー自身は心臓病と診断される。 |
| 12月メトロポリタン・オペラから招かれ渡米。 |
| 《交響曲第8番変ホ長調「千人の交響曲」》完成。 |
| 1908年(48歳)5月ウィーンへ戻る。 |
| トプラッハ(当時オーストリア領・現在のドロミテ・アルプス北ドッビアーコ)にて《大地の歌》を仕上げる。 |
| 1909年(49歳)ニューヨーク・フィルハーモニックの指揮者となる。 |
| 春、ヨーロッパに帰る。 |
| 夏にトプラッハで《交響曲第9番ニ長調》に着手し、約2カ月で完成させる。 |
| 200px|thumb|left|グスタフ・マーラー(1909年)。 |
| 1910年(50歳)4月ヨーロッパに帰る。 |
| クロード・ドビュッシーやポール・デュカスに会う。 |
| 8月、自ら精神分析医ジークムント・フロイトの診察を受ける。 |
| 18歳年下の妻が自分の傍に居る事を、夜中じゅう確認せざるを得ない強迫症状と、もっとも崇高な旋律を作曲している最中に通俗的な音楽が浮かんできて、かき乱されるという神経症状に悩まされていたが、フロイトによりそれが幼児体験によるものであるとの診断を受け、劇的な改善をみた。 |
| ここへ来てようやく、アルマへ彼女の作品出版を勧める。 |
| 9月12日にミュンヘンで交響曲第8番《千人の交響曲》を自らの指揮で初演。 |
| 自作自演では初の大成功を収める。 |
| 1911年(51歳)2月、アメリカで感染性心内膜炎と診断され、病躯をおしてウィーンに戻る。 |
| 5月18日、51歳の誕生日の6週間前に敗血症のため息を引き取った。 |
| 臨終の言葉は「モーツァルト・・・(Mozarterl)オーストリア方言。 |
| 名前の語尾に「erl」を付けることにより、愛称形になる(モーツァルトゥル)。 |