| 250px|thumb|シュトゥットガルトのヘーゲルハウスにあるポートレイト。 |
| 1770年8月27日、ヴュルテンベルク公国のシュトゥットガルト(現在のドイツ南西部バーデン=ヴュルテンベルク州の州都)の中流家庭に生まれる。 |
| 父親はヴュルテンベルク政府の公務員だったゲオルグ・ルートヴィヒ・ヘーゲル(1733年-1799年)。 |
| 進歩的な教育者であった母マリア・マグダレーナ・ルイーザ・ヘーゲル(旧姓フロム、1741年-1783年)の影響も手伝って、子供時代は学問の環境に恵まれ、文学書・新聞・哲学小論他の書物を読みあさった。 |
| 病気がちで、6歳以前の時期に、天然痘で死に瀕したことがある。 |
| 8歳のときシェイクスピア全集をもらい読むなど大変な読書家で、感想なども多数書き残す。 |
| 妹のクリスティアーネとは親密で、終生強い絆をもっていた。 |
| 南ドイツのルター派正統神学のテュービンゲン神学校で教育を受け、哲学者シェリングや詩人ヘルダーリンと交友を結ぶ。 |
| 3人とも規則に縛られた神学校の環境を好まない点で意気投合し、互いの思想に影響しあった。 |
| ギリシャ語、ラテン語、博物学などを学び天文学、物理学などを好む。 |
| だが、牧師にはならなかった。 |
| フランス革命の展開を横目に見ながら、ヘルダーリンとシェリングの2人はカントの観念論哲学への批判に没頭したが、ヘーゲルは当初それには加わらなかった。 |
| 当時彼は、大衆哲学(popularphilosophy:哲学を、学問的修練を積んでいない大衆にも理解されるよう著述する動き)の仕事を成し遂げることの方に興味があったからである。 |
| 大衆哲学者は著述を通じ、哲学の今日的な問題を紹介したり、啓蒙主義を普及させる方法を議論したりしており、多くがロック・リードなどイギリス思想に精通していた。 |
| ヘーゲルは、大衆哲学のやり方でカントの批判哲学を完成させたいと思っていた。 |
| こうしてテュービンゲン時代において、ヘーゲルはヘルダーリンやシェリングが関わった高度に神学的(かつ技巧的)な議論には懐疑的な立場をとった。 |
| 彼がカント哲学の実践の試みよりもむしろ、その問題点の解決が重要であると認めたのは、1800年になってからのことである。 |
| その後家庭教師を経て、1801年、ヘーゲルはイェーナ大学に私講師の席を手に入れる。 |
| このときの就職論文『惑星の軌道に関する哲学的論考』(惑星軌道論)で、かねてから興味のあった天文学で尊敬するヨハネス・ケプラー(出身が同じであった)こそが惑星の運動法則の本質の発見者であり、アイザック・ニュートンは数学的に発見したのみであるとニュートン批判を論じた(これは後に『自然哲学』で再び論じられる)。 |
| 彼の講座は絶大な人気を誇るようになり、同じ時間にショーペンハウアーが講座を開いたが、1人の出席者もないほどであった。 |
| その後、員外教授(ExtraordinaryProfessor)に昇進。 |
| しかし1806年、イエナ・アウエルシュタットの戦いに破れたプロイセンがナポレオンに征服されると、イェーナ大学は閉鎖せざるを得なくなった。 |
| ナポレオンはイェーナに入城し、それをヘーゲルは見た。 |
| ヘーゲルはこの時の事を「世界精神が馬に乗って通る」と表現している。 |
| 200px|thumb|ベルリンにあるヘーゲルの墓。 |
| その後、彼は数年間『バンベルク新聞』編集者として働き、1811年、マリー・フォン・トゥーハー(MarievonTucher)と結婚する。 |
| 1816年、『(大)論理学』の出版ののち、ギムナジウム校長を経て、ハイデルベルク大学で正教授となる。 |
| 彼は講義に出席している生徒のために、自身の哲学を要約した''『エンチクロペディー概略(TheEncyclopediaofthePhilosophicalSentencesinOutline)』''を出版した。 |
| 1818年、ベルリン大学の正教授を務める。 |
| プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、政治体制への彼の貢献に対して叙勲し、1830年には、彼を総長に指名した。 |
| ベルリンにおいて、彼は体制改革を求める暴動に悩まされることになる。 |
| 1831年、伝染病のコレラがベルリンに発生し、ヘーゲルは一旦避難したものの、収束する前に戻ったことから感染してしまい、数日の後に61歳で生涯を閉じた。 |
| ヘーゲルの遺体は、ヘーゲルの生前の希望により、ベルリンのドローデン墓地に先に逝ったドイツ観念論の哲学者フィヒテ夫婦の墓の隣りに葬られている。 |