| ;コゼット・ポンメルシー(旧姓:フォーシュルヴァン)『レ・ミゼラブル』では正式な名前はユーフラジーであり、コゼットは実母であるファンティーヌが名づけた愛称であるが、本作ではコゼットが本名だということになっている。 |
| 1815年生まれ(婚前に作られた戸籍では、1815年6月18日生まれとなっている)。 |
| 1833年にマリユスと結婚し、晴れてポンメルシー男爵夫人になる。 |
| 養父はジャン・ヴァルジャン、実母はファンティーヌ。 |
| 実父はフェリックス・トロミエスこの作品では、“地方から出てきた法学生”ということで、トロミエス自身の名前は一切明かされていない。 |
| マリユスの父ジョルジュの名前も同様である。 |
| ジャン=リュックとファンティーヌの母でもある。 |
| ふたりの子供には乳母をつけず、自分の手で子供たちを育てた。 |
| 弁護士としての仕事に思い悩むマリユスに『書く』ことをすすめ、養父ヴァルジャンから相続した60万フランで新聞を出すことを提案する。 |
| 社交界では才女のひとりに数えられ、“リオネ”雌獅子。 |
| 時代の先端を行く女と呼ばれていた。 |
| マリユスがサント・ペラジー監獄に囚われているときは、面会に行ったときに受け取ったマリユスのメモをもとに記事を書いていた。 |
| 女性がジャーナリズムに関わることを嫌うクレロンを嫌悪していた。 |
| 1848年1月のある日、息子ジャン=リュックの件でアンリー4世中等学校に行った帰り道でのこと。 |
| ショーケースからパンを盗んだ少年《ムクドリ》ことガブリエルを見つけた彼女は、その姿に若き日の養父の姿を見出す。 |
| そして、囚われのムクドリに代わって盗んだパンを買い、彼を夫の新聞社で働かせるようになる。 |
| ムクドリが頼もしい存在になっていく一方で、実の息子ジャン=リュックの放蕩ぶりに夫ともども頭を痛めるようになっていく。 |
| そんな日々を送っていた1851年11月末。 |
| リュクサンブール公園でジャン=リュックと舞台女優ニコレット・ローリオのカップルを見つけ、ショックを受けてしまう。 |
| というのも、リュクサンブール公園をマリユスと一緒に訪れたのは、ゼルマの脅迫を受けて、自らの過去を――母が娼婦であること、宿屋『ワーテルローの軍曹』でテナルディエ一家に虐待されてきたことを――包み隠さず話すためだったのだ。 |
| だが、マリユスはジャン=リュックの件を自宅で片付けることにし、リュクサンブール公園で彼女の過去を全部受け入れてくれた。 |
| 1851年12月1日、ブーローニュでしばしの休息を取っていたが、そこへパリでクーデターが起きた事を知る。 |
| ひとりで行くというマリユスに同行し、バリケードで夫に付き添うことにする。 |
| しかし、目の前で悲劇を味わい、19年前、養父と一緒に逃亡しようとしていたイギリスへ、ファンティーヌとマダム・カレームを逃亡させる。 |
| 自身は変装し、《代書屋文字の読み書きが出来ない人のために書類を作成する職業。 |
| のヒバリ》としてパリで人々のために手紙を書きながら生きていく一方で、皇帝ナポレオン3世を皮肉った作品を世に送り出す《ラ・リュミエール》として生きる。 |
| また、あるときはニコレット・ローリオの付き人《メア・キュルパ》“meaculpa”。 |
| 「我が喪失なり」という意味のラテン語で、贖罪の祈祷に使われる言葉。 |
| 、あるときはファンティーヌの母、あるときはマリユスの妻として波乱の時代を闇の中でひっそり生きていく。 |
| 養父ジャン・ヴァルジャンのように罪人として追われる日々を送る彼女だが、養父と同じく、人間としての自由と尊厳と愛を失うことなく生きていった。 |
| 一時は死んだかと思われていた夫マリユスの生存を知ると、ムクドリや石工のグランクールの手を借りて彼を救出する。 |
| 最終的には夫マリユスと愛を深め合ったブーローニュの《ジェラールの宿》の手伝いをすることで落ち着く(マリユスはもちろん、ファンティーヌの家族と同居している)。 |
| 1867年3月に訪れた息子ジャン=リュックに「許してほしい」と懇願された彼女は、「時が経って思い出を乗り越えられれば」と告げる。 |
| 父はナポレオン1世に仕えた軍人ジョルジュ・ポンメルシー、母は今は亡きジルノルマン氏の次女(ファーストネーム不明)。 |
| 1832年6月の暴動でこめかみと肩を負傷、その傷のせいで眉が切れており、肩にも傷跡が残っている。 |
| その氷のごとき正義感と生真面目な性格から、弁護士の仕事に矛盾を感じ、さらに暴動で自分を助けてくれたにも関わらず“罪人”という理由から敬遠してしまったジャン・ヴァルジャンのことや暴動で散った仲間のことを想い、軽いうつ状態になっているところを、コゼットに救われる。 |
| 彼女の言葉に従い、新聞『ラ・リュミエール』紙を発行し始めた彼は、扇動罪で起訴されても監獄に収監されても懸命に記事を書いていく。 |
| やがて、二月革命の中心的存在となるが、6月の暴動で辛酸をなめ、ルイ・ナポレオンという希望を見つけるも、彼にまんまと利用されていたことに気づき怒りをあらわにする。 |
| そして、『ラ・リュミエール』紙の廃刊を決めた矢先の1851年12月4日、プティ・カロー通りのバリケードでヴェルディエやパジョルら1832年6月の同志とともに立ち上がるが……。 |
| 彼はこの騒動で死んだかと思われていたが、実は生きており、ルイ・ナポレオンも収容されたというアムの城塞に収容されていた。 |
| 暴動のときに受けた一発の銃弾と、軍医のひどい処置により、背中をまっすぐにして歩くことが出来なくなってしまった。 |
| さらに、監獄でのひどい生活がたたり、リウマチの症状の典型である関節炎を患っていることが多くなった。 |
| 彼の生存を知ったコゼットらによって救出された彼は、最初こそ体力を消耗し、死にかけていたが、コゼットが《メア・キュルパ》として働き始めた頃から栄養状態が改善され、元気になり始める。 |
| 1867年3月、逃亡先のブーローニュで執筆活動を続けていたところへジャン=リュックが現れる。 |
| コゼットの母ファンティーヌとの約束を果たすため、1823年のクリスマス、モンフェルメイユでコゼットを引き取る。 |
| 絶対王政時代をこよなく愛する王党派で、ボナパルティズムに目覚めていたマリユスと反発しあっていた時期があった。 |
| しかし、1832年6月の暴動でマリユスが瀕死の重傷を負ってフィーユ・デュ・カルヴェール通りの自邸に戻ってきたのを契機に、改めて愛する孫への愛情に目覚めた彼はマリユスと和解。 |
| 少女時代を修道院で過ごしたコゼットの「宗教という名の砂糖漬けのボンボンにしたくないため」という表立った理由から(※実際はファンティーヌを手元に置いておきたいという理由から)、家庭教師のもとで自宅で勉強することになる。 |
| 10年間の逃亡生活でフランスの流行がコルセットとペチコートからフープスカートへ変わってしまったが、尊敬にすら値しない兄夫妻の住む邸宅で肩身の狭い思いをしながらも流行に慣れ、どうにかついていく。 |
| そして、兄の愛人であり母の雇い主でもあるニコレットの計らいで、母と死んだはずの父と再会したのを契機に、アルジャントゥイユにあるニコレットの別荘“ベネディクティーヌ・フォリー”の料理人『マダム・ペコー』として生きていくようになる。 |