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ローマ皇帝
紀元前27年に元老院よりアウグストゥス(Augustus)の尊称を授与されたアウグストゥス本人と、この尊称を帯びた彼の後継者をさす。ローマ皇帝というひとつの職... |
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ロムルス
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マクセンティウス
ローマ帝国のテトラルキア時代の皇帝の一人(在位:306年から312年)。皇帝マクシミアヌスの息子で、ガレリウス帝の義理の息子であった。 |
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プロフィール
- コンスタンティヌス1世とは
- 概略
- 年譜
- 皇帝になるまで(272年 - 306年)
- 並立する皇帝の1人として(306年 - 311年)
- 唯一の皇帝になる(312年 - 324年)
- ローマの新首都の建設
- 晩年まで(326年 - 337年)
- 後継者
- コンスタンティヌス1世とキリスト教
- コンスタンティヌス1世の功罪
- 日本語文献
ガイウス・フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌス(古典 ラテン語:、272年2月27日-337年5月22日)は、ローマ帝国の皇帝(在位:306年-337年)。帝国を再統一し、専制君主制を発展させたことから「大帝」と称される。 キリスト教を公認してその後の発展の政治的社会的基盤を用意したことから、正教会、東方諸教会、東方典礼カトリック教会では、聖人とされている。記憶日は、その母太后聖ヘレナと共に6月3日。日本正教会では正式には「亜使徒聖大帝 コンスタンティン」と呼称される。
概略
| ディオクレティアヌスの時代に副帝を務めていたコンスタンティウス・クロルスの子として生まれたコンスタンティヌスは、312年に帝国の西の正帝となり、ディオクレティアヌス退位後の内乱を収拾して324年に帝国を再統一した。 |
| 330年には帝国東方の交易都市であるギリシア人の植民都市ビュザンティオン(後のコンスタンティノポリス、現イスタンブル)に遷都した。 |
| 統一された帝国の皇帝として、コンスタンティヌスは官僚制を整備し、属州における軍事指揮権と行政権を完全に分離するなどディオクレティアヌスが始めた専制君主制(ドミナートゥス)を強化した。 |
| 経済・社会面では、ソリドゥス金貨を発行して通貨を安定させ、コロヌスの移動を禁止、身分を固定化することで農地からの収入安定を図った。 |
| 宗教政策の面では、帝国の統一を維持するため寛容な政策を採り、ネロ以来禁止されていたキリスト教に信教の自由を与えて公認した。 |
| ミラノ勅令によって彼がキリスト教を公認したことは、後年キリスト教がローマ帝国領であったヨーロッパへ浸透するきっかけとなる一方、教義決定に皇帝の介入を受けることにもつながった。 |
| コンスタンティヌス自身は、ブリタンニア出身のキリスト教徒ヘレナを母として生まれたのでもともとキリスト教に好意的であったと言われる。 |
| 一時期ミトラ教に傾倒したが、晩年にはキリスト教の洗礼を受けた。 |
| 正教会ではキリスト教徒であった母とともに「亜使徒」の称号を付与されて尊崇された。 |
| コンスタンティノポリスを首都とした東ローマ帝国(ビザンツ帝国)では、彼と同じ名(ギリシア語形:コンスタンティノス)を持つ皇帝が多数即位した。 |
| 東ローマ帝国はコンスタンティヌスが創始した専制君主制とキリスト教の信仰の上に成り立っていたため、その先駆者であるコンスタンティヌスを「最初のビザンツ皇帝」と呼ぶ歴史家もいる。 |
年譜
| 当時、父コンスタンティウス・クロルスはまだ士官であった。 |
| 292年-宮廷に送られ、ディオクレティアヌスや後に東の正帝となったガレリウス(在位:305年-311年)に従軍する。 |
| 306年-ガレリウスの下から、西の正帝でブリタンニア滞在中の父クロルス(在位:305年-306年)のところへ向ったが、クロルスが死去。 |
| ガレリウスの部下セウェルスが西の正帝となり、コンスタンティヌスは副帝となった。 |
| 312年-イタリア・北アフリカを制圧していた簒奪皇帝マクセンティウスをミルウィウス橋の戦いで破りローマへ入城、西方の正帝となる。 |
| この戦いの前にコンスタンティヌスは光り輝く十字架(ギリシア語でキリストを意味するΧとΡの組み文字であるラバルムという説もある)と「汝これにて勝て」という文字が空に現れるのを見たため、十字架を旗印として戦いに勝利し、これがきっかけでキリスト教を信仰するようになったと言われている。 |
| 313年-ミラノ勅令を発布し、キリスト教を公認。 |
| 324年-東方の正帝リキニウスを破り、全ローマ帝国の単独皇帝となる。 |
| 325年-キリスト教徒間の教義論争を解決するために初の公会議である第1ニカイア公会議を開催、アリウス派を異端と決定し、皇帝がキリスト教の教義決定に介入する嚆矢となった。 |
| 330年-ローマからバルカン半島のビュザンティオンに遷都し、「ノウァ・ローマ(新ローマ)」と改称。 |
| 337年-小アジアのニコメディアで洗礼を受け、その直後に死去。 |
皇帝になるまで(272年 - 306年)
| コンスタンティヌスが生まれたのは、272年か273年の2月27日、モエシア属州のナイッスス(現セルビアのニシュ)であった。 |
| ローマの将軍コンスタンティウス・クロルスとその初めの妻ヘレナとの間の子である。 |
| ヘレナは宿屋の娘で、当時まだ16歳だった。 |
| クロルスは、292年頃にヘレナと離縁して、西ローマ帝国の皇帝マクシミアヌスの義娘であるフラウィア・マクシミアナ・テオドラと結婚し、テオドラとの間にコンスタンティヌスと半分血が繋がった弟妹6人をもうけた。 |
| 293年に四分割統治(テトラルキア)が始まり、2人いる副帝の片方に父が任命された。 |
| 若きコンスタンティヌスはニコメディアにあるディオクレティアヌス帝の宮廷に仕えた。 |
| 305年、正帝ディオクレティアヌスとマクシミアヌスが揃って退位し、クロルスがマクシミアヌス帝から西方正帝位を引き継いだ。 |
| 権力争いの結果、新しい副帝には、皇帝の嫡男(コンスタンティヌスやマクシミアヌスの子マクセンティウス)ではなく、フラウィウス・ウァレリウス・セウェルスとマクシミヌス・ダイアとが選ばれた。 |
| その後、コンスタンティヌスはニコメディアを去って、ガリアにいるクロルスのもとに行った。 |
| ところが、クロルスは、カレドニア(現スコットランド)のピクト人に対する遠征の途中で病を発し、306年7月25日にエボラクム(現ヨーク)で亡くなった。 |
| アレマン族の血を引くクロクス将軍をはじめとする軍団は、亡きクロルスを慕っており、息子コンスタンティヌスを新しい正帝とするとの宣告を直ちに発した。 |
| コンスタンティヌスは、東方正帝ガレリウスに対し、父の後を継ぎ西方正帝となったことを承認するように求めた。 |
| しかし、テトラルキア制度の元でコンスタンティヌスによる皇位継承は適法ではなかった。 |
| 前正帝クロルスは次に正帝となる副帝を指名しているのだから、いきなり正帝を名乗るコンスタンティヌス(またはその軍団)は305年に制定した皇位継承ルールを無視していることになる。 |
| このためガレリウスは、コンスタンティヌスが父の遺領をそのまま支配することを認めたものの、位は副帝として、西方正帝にはセウェルスを昇格させた。 |
並立する皇帝の1人として(306年 - 311年)
| コンスタンティヌスの支配領域はブリタンニア、ガリア、ゲルマニア、およびヒスパニアだった。 |
| そして彼は、重要なライン川国境線を拠点に、ローマ軍団の中でも大軍を指揮した。 |
| ガリアはローマ帝国の中でも肥沃な地域だったが、3世紀の危機による被害が大きく、広い地域が荒れ果て、都市は破壊されていた。 |
| このため、ガリアに駐在(主にトリーアに居住)した306年から316年にかけて、コンスタンティヌスは父と同じくライン川国境の守備とガリア属州の再建とに尽力した。 |
| コンスタンティヌスは、父の死後すぐに父が進めていたブリタンニアの攻略を取りやめ、ガリアに戻ってフランク人の蜂起を鎮圧した。 |
| 308年にも再びフランク人制圧のために遠征した。 |
| これにも勝利した後、ライン川の右岸に常設の要塞を築こうと考え、ケルンにてライン川を渡る橋を築いた。 |
| 310年にも再び遠征したが、マクシミアヌスの反乱(下記参照)のために途中で中止となった。 |
| フランク人制圧にコンスタンティヌスが最後に遠征したのは、イタリアから帰還した313年で、このときも勝利を収めた。 |
| 治世の安定を目的とするコンスタンティヌスは、短時間で目的を達成するためには厳しい手段も選んだ。 |
| 反逆する部族に対して冷酷なまでの厳しい処罰を与えることも多く、軍事力を誇示するためにライン川国境の内側で敵を倒したり、競技場で囚人を虐殺したりすることもあった。 |
| 結果的にはこの方法は成功し、コンスタンティヌスの残る治世の間、ライン川国境は比較的平穏だった。 |
| テトラルキアの下での帝国内部の争いには、コンスタンティヌスはあまり関らなかった。 |
| 307年、正帝マクシミアヌス(305年に退位したが、この頃政界に復帰していた)がコンスタンティヌスを訪ね、マクセンティウス帝とセウェルス帝およびガレリウス帝との争いでの助力を願った。 |
| コンスタンティヌスはマクシミアヌスの娘と結婚して同盟を結び、マクシミアヌスによって正帝への昇格を認められた。 |
| しかし、コンスタンティヌスはマクセンティウスの動きに何も干渉することは無かった。 |
| マクシミアヌスは、息子マクセンティウスを退位させることができないまま、308年にガリアに戻った。 |
| この年の暮れにカルヌントムで会合が開かれて、ディオクレティアヌス、ガレリウス、マクシミアヌスが会談した結果、マクシミアヌスは再び退位を余儀なくされ、コンスタンティヌスは副帝に戻されることになった。 |
| 309年、コンスタンティヌスがフランク人を制圧する遠征に赴いている間に、マクシミアヌスは義理の息子であるコンスタンティヌスに対して反乱を起こした。 |
| この反乱はすぐに鎮圧され、マクシミアヌスは落命した(殺されたか自殺に追い込まれたかは不明)。 |
| コンスタンティヌスもマクシミヌス・ダイアも、自分たちが副帝でリキニウスが正帝になったことを不満に思い、正帝を自称し振舞った。 |
| これを310年にガレリウスが追認したので、公式に4人の正帝が並立する事態となった。 |
| 311年にガレリウスが死ぬと、テトラルキアの維持を図る権力者はいなくなったため、この制度は急速に瓦解していった。 |
| この後に続く権力争いでは、コンスタンティヌスはリキニウスと同盟を結び、マクシミヌス・ダイアは未だ公式には簒奪皇帝とみなされているマクセンティウスに接近した。 |
唯一の皇帝になる(312年 - 324年)
| 312年の初めの頃、コンスタンティヌスは軍勢を伴ってアルプスを超え、マクセンティウスを襲撃した。 |
| 彼はトリノとヴェローナで戦ってイタリア北部をすばやく征服し、ローマに兵を向けた。 |
| そして、ミルウィウス橋の戦いでマクセンティウスを破って西の正帝となり、西ローマ帝国全体の支配者となった。 |
| その後、彼は徐々に軍事力を強化し、テトラルキアで競合する他の皇帝たちに優位になっていった。 |
| 313年、彼はミラノでリキニウス帝と会談し、異母妹フラウィア・ユリア・コンスタンティアナをリキニウスに嫁がせて同盟を固めた。 |
| この会合において、2人の皇帝は連名でいわゆるミラノ勅令を発し、帝国内で全ての宗教(特にキリスト教)を寛容すると公認した。 |
| ところがこの会談中に、リキニウスに敵対するマクシミヌス・ダイア帝がボスポラス海峡を渡りリキニウス領土に侵攻したとの知らせが入り、会談は打ち切られた。 |
| 戦地に向かったリキニウスは結局マクシミヌス・ダイアを破り、ローマ帝国東側の完全な支配を取り戻した。 |
| この後、2人になった皇帝コンスタンティヌスとリキニウスの関係は冷え込んでいき、314年か316年に争いが起こってコンスタンティヌスが勝利した。 |
| 317年のマルディアの戦いにて両者は再び衝突し、その結果、コンスタンティヌスの息子およびコンスタンティヌス2世と、リキニウスの息子リキニアヌスを副帝に据えることで両者は合意した。 |
| 320年、リキニウス帝は全宗教を公認した313年のミラノ勅令を破り、キリスト教徒に迫害を加えた。 |
| これがやがて西のコンスタンティヌス帝との対決につながって内戦となり、その内戦は324年に最も激しくなった。 |
| 古来から伝わる異教崇拝(ペイガニズム)の勢力を代表するゴート族の傭兵がリキニウス帝を支えた。 |
| コンスタンティヌス帝と配下のフランク人はキリスト教を象徴するラバルムの旗印の下に行軍した。 |
| かくして戦いは宗教戦争の様相を呈し、数では劣ったようだが熱意に勝るコンスタンティヌス軍が、324年のハドリアノポリス、ヘレスポントス海峡、クリュソポリスなどの戦いを制した。 |
| 敗れたリキニウスは翌年に処刑され、コンスタンティヌスは全ローマ帝国で唯一の皇帝となった。 |
ローマの新首都の建設
| リキニウスの敗北が意味したものは、過去のローマの時代の終焉であり、東方がローマ帝国の中心となる時代の始まりでもあった。 |
| コンスタンティヌスはビュザンティオンに遷都してこれを「ノウァ・ローマ(新ローマ)」と名づけ、ローマに倣って元老院や役所を設置した。 |
| この都市は聖十字架やモーゼの鞭をはじめとするキリスト教の聖遺物に守護されていたと言われる。 |
| ローマの神々への崇拝も残るもののエルミタージュ美術館に収蔵される |
晩年まで(326年 - 337年)
| 326年、前妻の子である長男クリスプスがコンスタンティヌスの2度目の妻ファウスタと密通したとの密告を名目に、コンスタンティヌスはクリスプスを処刑した。 |
| 神学者ヒエロニムスが伝えるところによると、コンスタンティヌスは337年に亡くなる少し前に洗礼を受けた。 |
| 当時の風習では、年を取るか死の間際になってから洗礼を受けるのが一般的だったこの時代には幼児の洗礼は未だ習慣化されていなかった幼児洗礼は、初めは非常時のみ行われていた。 |
| ヒエロニムスによると、コンスタンティヌスが洗礼を受けたのは、異端とされたアレイオスを信奉するアリウス派でありながらも司教の座を保っていたニコメディアのエウセビウスに説得されたためだった。 |
コンスタンティヌス1世とキリスト教
| それ以前のローマ帝国では、ネロ帝(54年-68年)のキリスト教徒迫害に始まり、ディオクレティアヌス帝(284年-305年)の迫害まで、何度かキリスト教が迫害を受ける時期があった。 |
| 5世紀の歴史家によると、コンスタンティヌスはガリアまたはブリタンニアの辺りに駐在している間、現地で広まっていたキリスト教の洗礼を受けたという。 |
コンスタンティヌス1世の功罪
| 「ノウァ・ローマ」と名づけられた後のコンスタンティノポリスも美しい都ではあったが、戦乱後のローマにはそのような華美な都を建設するだけの財力はなかったので、そこに設置された彫刻などの多くはローマ市や各地にあったものを撤去して移送しただけのものであった。 |
| コンスタンティヌス1世は第1ニカイア公会議でアタナシウス派とアリウス派のどちらを正当とするかの論争に決着を付けたが、コンスタンティヌス1世自身はそれらの教義の違いを明確には理解しておらず、判断の基準となったのはそれぞれの支持者の数だけであったという。 |
日本語文献
| 塩野七生 『ローマ人の物語XIII 最後の努力』 新潮社、2004年/新潮文庫(3分冊)、2009年。 |
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ポール・ヴェーヌ 『私たちの世界がキリスト... |
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