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ユーグ・ド・リオンヌ
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プロフィール
- シモン・アルノー・ド・ポンポンヌとは
- 生い立ち
- 初期の経歴
- 外交官として
- 晩年
- 参考文献
生い立ち
| 1618年パリにロベール・アルノー、カトリーヌ・ル・フェヴレ・ド・ラ・ボドリー夫妻の間に生まれる。 |
| 父ロベール・アルノーはオルレアン公ガストンの下で地方総督を、リシュリューの下で軍政監察官''intendantd'armée''を務めた人物である。 |
| 生家のアルノー家Arnauldは、ジャンセニストとして知られた家系である。 |
| ポンポンヌ侯爵は、誕生した際、シモン・アルノー・ド・ブリオット''SimonArnaulddeBriottes''、1643年からシモン・アルノー・ダンディリィ''SimonArnauldd'Andilly''を名乗り、1660年シモン・アルノー・ド・ポンポンヌ侯爵となった。 |
| マルチン・バルコについて学問を修めた後、社交界に出、ランブイエ夫人のサロンに出入りするようになる。 |
| この頃、「ジュリーの花飾り」GuirlandedeJulieをテーマに何編か詩を書いている。 |
| また、セヴィニエ夫人やラ・ファイエット夫人、ラ・ロシュフコーら当時の文人と親交を持った。 |
初期の経歴
| 1642年ポルトガルのカサールに派遣されたフランス軍の軍政監察官として赴任する。 |
| その後、フロンドの乱が起こった時期にジュール・マザランとミシェル・ル・テリエによってイタリアと、スペインのカタロニアに軍政監察官として派遣された。 |
| 1655年外交官として活動を開始する。 |
| 北イタリアのマントヴァ公と交渉し条約を締結、顕著な功績を挙げた。 |
| しかしジャンセニストの勢力が拡大し、父ロベールはポール・ロワイヤル修道院に引退したが、叔父のアントワーヌ・アルノーAntoineArnauldがジャンセニスト指導者のひとりとなった。 |
| このことは、1658年ポンポンヌがルイ14世の王弟、オルレアン公フィリップの側近に登用されようとしたとき、ジュール・マザランによって拒否されたことに繋がった。 |
| さらに最悪だったのは、ルイ14世の忌避にあい大蔵卿を解任されることとなるニコラ・フーケと友人であり、フーケの従姉妹と結婚していたことである。 |
| このため、ポンポンヌは1662年から1664年までヴェルダンに逃亡し、1664年から1665年にはポンポンヌの所領に逼塞を余儀なくされた。 |
外交官として
| 1655年勅許を得てパリに帰還する。 |
| その後、ミシェル・ル・テリエ、ル・ペルティエ、ユーグ・ド・リオンヌら友人たちが駐在スウェーデン大使にポンポンヌを推挽した。 |
| ポンポンヌの任務はスウェーデンと英蘭両国が同盟を結ぶことを防ぐことにあった。 |
| もっともこれは、結果的に英蘭瑞三国が同盟条約を締結し失敗した。 |
| 1668年駐蘭大使に就任。 |
| 1671年駐瑞大使に再任される。 |
| このとき、ポンポンヌは、フランス・スウェーデン同盟の締結という新たな難しい任務を帯びていた。 |
| ポンポンヌの尽力により仏瑞同盟は成立し、オランダは孤立し、ルイ14世はオランダ侵略戦争に着手した。 |
| 1671年9月友人であり、外務担当国務卿のユーグ・ド・リオンヌが死ぬと、後任の外務卿に就任し、1679年まで務めた。 |
| ポンポンヌの外交術は、一流の外交官のそれと評価される。 |
| ともにルイ14世に仕えた、陸軍担当国務卿(陸軍大臣)ルーヴォワ(ル・テリエの子)がしばしば攻撃的で軍事力に訴える姿勢を取りがちであったのに対して、ポンポンヌは外交交渉による解決を第一に考えた。 |
| オランダ侵略戦争の講和条約として、1678年ナイメーヘンの和約の締結に成功し、フランスはフランシュ=コンテなどを獲得した。 |
| しかし、フランスの栄光を求め、更なる侵略戦争に狂奔するルイ14世とは路線において対立することとなり、結局1679年11月18日に外相を解任された。 |
晩年
| 外相は解任されたもののポンポンヌは、ルイ14世の覚え目出度い廷臣であり続けた。 |
| 1682年侯爵に叙され、息子たちは連隊長や、修道院長となった者がいる。 |
| ルイ14世は、1691年にルーヴォワの死後、ポンポンヌを最高国務会議Conseild'enhautの一員に復帰させている(但し、大臣ではない)。 |
| ポンポンヌの娘と結婚したジャン・バティスト・コルベール・ド・トルシー侯爵(シャルル・コルベール・ド・クロワシー侯爵の子、ルイ14世の財政総監として名高いジャン・バティスト・コルベールの甥)を通じて、1690年代までフランスの外交界における元老として一定の影響力を保持した。 |
| 1699年フォンテーヌブローで死去した。 |
参考文献
| SimonArnaulddePomponne,''Mémoires'',Paris,1860,2vol.。 |
| SimonArnaulddePomponne,''RelationdemonambassadeenHollande'',ed.H.H.Rowen,Utrecht,1955.。 |
| HerbertH.Rowen,''TheAmbassadorpreparesforwar'',TheHague,1957.。 |
| RémiMathis,"Delanégociationàlarelationd'ambassade.LasecondeambassadedeSuèdedeSimonArnaulddePomponne(1671)"in''Revued'Histoirediplomatique'',n°3,2005.。 |
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1665年
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ポンポンヌの所領に逼塞を余儀なくされた |
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1679年
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外相を解任された |
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