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プロフィール
- シャルル・ド・ゴールとは
- 生い立ち
- 陸軍士官学校時代
- 陸軍士官時代
- ポーランド軍事顧問時代
- 陸軍大学校時代
- 電撃作戦の推進
- 「自由フランス」時代
- 強権的指導者
- 国営化推進
- アルジェリア独立承認
- 独自路線
- 引退後
- 関連サイト
シャルル・アンドレ・ジョゼフ・ピエール=マリ・ド・ゴール(,1890年11月22日-1970年11月9日)は、フランスの陸軍軍人、政治家。フランス第五共和政初代大統領。
生い立ち
| 1890年11月22日に、イエズス会学院の校長(歴史科を教えていた)を務める父アンリの元、フランス北部の工業都市リールに生まれた。 |
| ド・ゴールの家系は下級貴族である。 |
| 「ド・ゴール」(deGaulle)と言う場合の「ド」(de:ドイツ人の「フォン」と同じく元来は前置詞)がそれを示しているが、ド・ゴール家の場合は名字の一部と見なされている。 |
| (※)「ド・ゴール」と記述されるのが通例だが、ゴールの前の「ド」は、ドイツの「フォン」と等しい(例えば、ヘルベルト・フォン・カラヤン)。 |
| フランスでは、かのサドも、マルキ・ド・サドであるが、普通は「フォン・カラヤン」とか「ド・サド」とは記さず、「カラヤン」「サド」と記す。 |
| したがってド・ゴールの場合も、ここでは慣例に従い、「ド・ゴール」と記述する。 |
| ・・・サド、カラヤンのほうを「フォン・カラヤン」「ド・サド」とすべき。 |
| ド・ゴールの曽祖父はルイ16世の法律顧問をしており、フランス革命時に投獄されている。 |
| 父アンリは医学・理学・文学の3つの博士号を持つ碩学、熱心なカトリック教徒であったという。 |
| また、祖父ジュリアンも著名な歴史学者であったといい、ド・ゴールは幼い頃より歴史に興味を覚え、「フランスの名誉と伝統」に誇りを抱くようになったという。 |
| そして、ド・ゴールは、伝道師を目指していたものの、長身痩躯という立派な体格であった事から軍人の道を選んだ。 |
陸軍士官学校時代
| 先に述べた祖父・父親の下で愛国的かつ厳格な教育を受け、地元の中学校を卒業後、1909年にサン・シール陸軍士官学校に入学した。 |
| ド・ゴールは陸軍士官学校内では「雄鶏」シラノ。 |
| フランスのシンボルの1つでもある)、「アスパラガス」そして「コネターブル(Connétable:「大将軍」の意)」と呼ばれていたという。 |
| これらのあだ名は身長が約2mあったという彼の体格に由来している。 |
陸軍士官時代
| 卒業後は、歩兵第33連隊に陸軍少尉として配属された。 |
| 歩兵第33連隊はフィリップ・ペタン(のちのヴィシー政権の指導者)の連隊だった。 |
| 第一次世界大戦では大尉としてドイツ軍と戦い、1916年、大戦中最大の激戦地ヴェルダン戦で部隊を指揮した。 |
| ドイツ軍の砲撃で重傷を負い「気絶」したが、「戦死」と判断され、死体運搬車に乗せられた。 |
| しかし輸送途中に意識を取り戻し、事なきを得たという。 |
| なお、戦死と聞かされたペタンは、「ド・ゴール大尉。 |
| 中隊長を務め、その知性と徳性において知られた人物である。 |
| おそるべき砲撃によって大隊に夥しい損害を出し、中隊また八方から敵の攻撃をうけた状況下に、それが軍の光栄にかなう唯一の策と判断して兵をまとめ、突撃を敢行、白兵戦を展開した。 |
| 混戦のうちに戦死。 |
| 功績抜群……ペタン」という個人的な感謝状を作成したという。 |
| また、捕虜生活も経験し、それは第一次世界大戦終結まで続いた。 |
| ド・ゴールは5回脱獄を図ったものの、大柄な体だったため5回とも失敗し、最も厳重な捕虜収容所であるインゴルシュタット城の牢獄「天女の宿」にて捕虜生活を経験した。 |
| ちなみにその牢獄には、後にロシア(ソ連)の赤軍元帥となり、スターリンによって粛清されたトゥハチェフスキーがいた。 |
| トゥハチェフスキーはド・ゴールに対し、「未来は我々のものだ、くよくよするな」と捕虜生活を慰めたという。 |
ポーランド軍事顧問時代
| 第一次世界大戦終結後、ド・ゴールはポーランドの軍事顧問となり、同国へ赴任した。 |
| 当時ポーランドは革命ロシア赤軍の侵攻を受けており、首都ワルシャワまで迫られていた。 |
| その時の赤軍司令官は、共に捕虜生活を過ごしたトゥハチェフスキーであった。 |
| ド・ゴールはこの戦いで活躍し、「ポーランド軍少佐」の称号を得ると共に、ポーランド政府から勲章も授与された。 |
陸軍大学校時代
| ポーランドから帰国し、サン・シール陸軍士官学校の軍事史担当教官として勤めた後、1922年にフランス陸軍大学校に入学した。 |
| 同学校では、「勤勉にして敏鋭、博学。 |
| しかし友人との折り合い悪く、性格的に円満を欠く」と評価をされている。 |
| また、陸軍大を卒業したものの、ド・ゴールは「わが道を行く」という主義を強く持っていたため、陸軍上官との折り合いが悪く、大尉から少佐への昇進に10年もかかってしまった。 |
| しかし、この間も後に敵となるペタンはド・ゴールをかわいがっていたという。 |
| その後、ド・ゴールは中東に1回赴任し、1932年には中佐となり、パリにあった軍事最高会議事務長に就任している。 |
| またペタンの計らいもあり、ド・ゴールは陸軍大学校において「戦闘行為と指揮官」という特別講演も行った。 |
| この講演を文書に纏めたものが『剣の刃』である。 |
| ただ、この書は「フランス版『わが闘争』」あるいは「ド・ゴール版『我が闘争』」(ドイツのアドルフ・ヒトラーの『我が闘争』から)とも評されている。 |
電撃作戦の推進
| 第一次世界大戦のヴェルダン戦の体験からド・ゴールは、これからの戦争は塹壕戦ではなく、機動力のある戦車や飛行機を駆使した機械化部隊による電撃作戦になることを論じ、いくつかの著書の中でそのことに言及した。 |
| この見解は、ペタンらフランス軍の主流派には受け入れられず、その後皮肉にも同様の発想をしていたグデーリアンのいたドイツ軍が積極的に採用している(国家指導者がヒトラーであったことも大きいと思われる)。 |
| 1939年9月に第二次世界大戦が勃発、まやかし戦争と呼ばれるにらみ合いの後、1940年5月にドイツ軍のフランス侵攻が始まると、ドイツ軍は防衛方針を堅持したフランス軍が国境に用意した巨大要塞「マジノ線」を機動力のある装甲部隊で迂回して進軍し、フランス軍はわずか1か月間の戦いでドイツ軍の電撃作戦により敗北を喫した。 |
| 開戦直後の5月15日、ド・ゴール大佐は新編の第4機甲師団長に任命された。 |
| すでに手遅れの時期になり、しかも小規模ではあったが、ここでようやくド・ゴールは長年主張してきた機械化戦術を実地に試す機会を得た。 |
| 他の第1から第3の3個機甲師団が特に見るべき活躍もなく終わったのに対し、ド・ゴール率いる第4師団は師団長の直接の指揮下のもとに戦車の集中運用を行い、一時的にではあれ、ドイツ軍部隊に脅威を与えることに成功した。 |
| 特にソンム県アブヴィル近辺の反撃では、適切な航空支援が得られなかったために完璧な成功を収めるまでには行かなかったが、ソンム川南岸の敵橋頭堡3つのうち2つまでを取り返す活躍を見せた。 |
| しかしその後間もなく、ド・ゴールは陸軍次官に任命され、部隊の指揮を離れることになる。 |
「自由フランス」時代
| ド・ゴールは、第二次世界大戦における緒戦の戦功により、フランス軍史上最年少の将軍となる。 |
| 1940年6月には、同年3月のエドゥアール・ダラディエの辞任により新たに首相に就任したポール・レノー率いる新内閣の国防次官兼陸軍次官に任命され、ドイツ軍によるフランス侵攻に対するイギリス軍の協力を得るためロンドンに飛び、ウィンストン・チャーチル戦時内閣と交渉を開始する。 |
| その中で、合法的に英仏連合軍の指揮権の統合と亡命的性格の政策、英仏連合(フランスとイギリスとの政治統合構想)に奔走、イギリス側の閣議決定後、フランス政府の避難先ボルドーに向かったがレノー内閣は英仏連合の案件と休戦派の圧力で総辞職し、次官職を解かれる。 |
| 6月15日に首都のパリが陥落し、自身に逮捕の噂がたっており、連合軍顧問のイギリス陸軍将校の召還に同伴しイギリスへ亡命することを決断。 |
| 脱出先のロンドンに亡命政府「自由フランス」を結成し、ロンドンのBBCラジオを通じて、対独抗戦の継続と中立政権ではあるものの親独的なヴィシー政権への抵抗をフランス国民に呼びかけた。 |
| イギリス議会や閣僚は事を荒立てることを恐れ、それを中止させようとしたが、イギリスのウィンストン・チャーチル首相の指示によって放送は強行された。 |
| 翌1941年10月25日にはジャン・ムーランと会見、一つの大きな組織「レジスタンス国民会議」を作るためムーランを極秘裏にフランス本土に派遣する。 |
| また自ら自由フランス軍を指揮してアルジェリア、チュニジアなどのフランスの植民地を中心とした北アフリカ戦線で戦い、対独抗戦を指導した。 |
| しかし、仏領インドシナやマダガスカルをはじめとする植民地やフランス本国のフランス軍の多くは、中立を維持するかヴィシー政権に帰属した。 |
| その後自由フランス軍は連合国と共同でフランス植民地のガボン、マダガスカルを攻略した。 |
| 1942年にはアルジェリアのフランソワ・ダルラン大将が連合国側につき、北アフリカのフランス主席となったが暗殺された。 |
| ダルランの後を継いだのはアンリ・ジロー大将であり、連合国フランスの代表としてド・ゴールとジローが並び立つ体制となった。 |
| 1943年1月にはフランスの指導者を決めるためカサブランカ会談が開かれたが決着しなかった。 |
| 5月にフランス国内のレジスタンス組織全国抵抗評議会はド・ゴールをレジスタンスの指導者と決定したが、6月にアルジェリアで結成されたフランス国民解放委員会(en)はド・ゴールとジローを共同代表とした。 |
| 委員会は翌1944年にフランス共和国臨時政府に改組され、ド・ゴールが代表となった。 |
| ド・ゴールはその独裁的かつ強権的な姿勢から、チャーチルやアメリカ合衆国大統領フランクリン・D・ルーズヴェルトと衝突することが多く、特にルーズヴェルトはド・ゴールのことを「形式にこだわる旧世界的人物」、「選挙で選ばれたわけではないのに指導者として君臨しようとしている」としてあからさまに嫌っていたという。 |
| その後、1944年6月の連合軍によるヨーロッパ大陸への再上陸作戦であるノルマンディー上陸作戦が成功すると、祖国に戻って自由フランス軍を率いてイギリス軍やアメリカ軍などの連合軍とともに戦い、同年8月25日にパリが解放された。 |
| ド・ゴールは翌26日に自由フランス軍を率いてパリに入城、エトワール凱旋門からノートルダム大聖堂まで、ドイツ軍の残党が放つ銃弾を気にすることなく凱旋パレードを行い、シャンゼリゼ通りを埋め尽くしたパリ市民から熱烈な喝采を浴びた。 |
強権的指導者
| フランス解放後、臨時政府がフランスの統治を行うこととなり、国民議会は満場一致でド・ゴールを首相に選出した。 |
| ド・ゴールは首相になると、民衆の声望を背景に他の指導者・政党の意見を無視することが多くなり、とりわけ社会党・共産党から独裁的との批判を受けた。 |
| 1946年1月に、ド・ゴールは政策上の一致が困難であるとの理由で、突如首相を辞任した。 |
| ド・ゴールは次第に、優れた指導者が国民の支持を背景に強力な政治を行うことが、政争に明け暮れる政党政治(フランスの共和制の下では多党乱立の状況になることが多かった)よりも国民のためになるという信念を持ち始めていた。 |
| 彼はこの信念から1947年にフランス国民連合(略称RPF)を結成したが、この団体もまた1952年の一部分裂などの政争が発生した。 |
国営化推進
| ド・ゴールの首相時代には、フランス解放後の1945年に大手自動車会社のルノーを国営化したほか、エールフランス航空など多くの基幹企業を国営化した。 |
| このように、国家の復興を推進するためもあり軍需、インフラ関連の大企業の国営化を積極的に推し進めるとともに、公共投資にも力を入れた。 |
アルジェリア独立承認
| 1958年5月、アルジェリアのフランス植民者(コロン)が、アルジェリアの独立運動に対抗するため、アルジェリア駐留軍と結託して本国政府に反旗を翻し、現地駐屯の落下傘連隊がコルシカ島を占領し、鎮圧に向かった共和国保安隊も到着後反乱軍に同調し、フランス本土に脅威を与え始めた。 |
| この緊急事態に、首相ピエ-ル・フリムランはなすすべがなく、進退極まった政府は軍部を抑えることのできる人物として隠居を宣言して執筆活動にいそしんでいたド・ゴールに出馬を要請し、ド・ゴールを首相に任命した。 |
| ジャック・マシュ将軍やラウル・サラン将軍など駐留軍首脳部はこれを支持した。 |
| ド・ゴールはこれを念願実現の好機として、大統領に強権を与え、議会の力を抑制する新憲法を立案し、ただちにこれを国民投票に付した。 |
| 同年9月に行われた国民投票で圧倒的な賛成を得て新憲法が制定され、フランス第五共和政が成立、ド・ゴールはその初代大統領に就任した。 |
| ド・ゴール自身が後年の回想録で第一次インドシナ戦争の背景にある民族自決の動きを理解していたこと、また当初は完全独立ではない緩やかな連邦制も模索した(実際に国民にも提案している)ことを明かしている。 |
| これが原因で将軍達の反乱が勃発、結局アルジェリア領有の継続を主張する右翼組織OASのテロによる反対を押し切って、1962年、独立を承認した。 |
| 1962年8月にはパリ郊外のプティ=クラマールで、乗っていた自動車がOASにより機関銃で乱射された「プティ=クラマール事件」が起きたが、ド・ゴールは九死に一生を得た。 |
| また、アフリカに残っていたフランス領西アフリカ及びフランス領赤道アフリカの広大なフランス領の植民地に対し、1958年9月、フランス共同体の元での大幅な自治を認めた第五共和国憲法の承認を求めた。 |
| 急進的独立派だったセク・トゥーレ率いるギニアはこれを否決し単独独立の道を歩んだものの、それ以外の植民地はすべてこれを承認し勝俣誠「現代アフリカ入門」第1刷、1991年11月20日(岩波書店)p17、1960年にはこれらの植民地はすべて独立している。 |
独自路線
| 東西両陣営の間で冷戦が続く中、ド・ゴールはアメリカとソ連の超大国を中心とする両陣営とは別に、ヨーロッパ諸国による「第三の極」を作るべきだという意識を持ち、フランスをその中心としようとしていたことを、遺作となった回想録の中でも述べている。 |
| 1964年にはイギリスを除く他の西側先進国では最も早く、共産主義政権下の中華人民共和国を承認した(なお、イギリスは隣接する植民地の香港を抱えていたため、西側諸国の中では例外的に、中華人民共和国をその建国直後に承認していた)。 |
| 1967年7月24日には、モントリオール万国博覧会訪問のために訪れていたカナダのモントリオール市で、群集を前に「自由ケベック万歳!」(ViveleQuébeclibre!)と発言し、カナダとフランスとの間の外交問題になっただけでなく、ケベック州分離運動の火に油を注ぐ結果ともなった。 |
引退後
| 辞任後は地方の山村コロンベ・レ・ドゥ・ゼグリーズに住居を移して執筆活動に専念し、翌1970年11月に解離性大動脈瘤破裂により79歳で没した。 |
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1890年
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イエズス会学院の校長(歴史科を教えていた)... |
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1909年
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サン・シール陸軍士官学校に入学した |
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