| 政治家への進出は1990年代に入ってからである。 |
| 1993年頃から追及が始まった汚職疑惑で、キリスト教民主主義を始めとした政権与党が崩壊寸前に陥る間隙をぬって、1994年1月「フォルツァ・イタリア」を結成した。 |
| 豊富な資金力と支配下のメディアの積極的な活用で下院議員に当選し、国民同盟と北部同盟と連立政権を画策した。 |
| 自身は同4月、戦後第53代イタリア首相に就任した。 |
| しかし翌年には、政治家になる前の贈賄の疑いで起訴この事件については2004年12月、時効を理由として無罪判決が下ったが、分離裁判においてベルルスコーニの元側近が贈賄罪で1審有罪判決を受けている。 |
| され、更に連立与党間の対立が引き金となって政権は崩壊した。 |
| 一度は下野したものの、2001年総選挙で再び勝利し、再度首相となった。 |
| 再び政権について以降は、メディアセットの競合となる国営放送「RAI」に対しても影響力を行使しようと画策した。 |
| 2002年にはメディアセット社が、民放1局を衛星放送に切り替えるように憲法裁判所から判決を下されたものの、翌2003年12月にいわゆるガスパリ法案が議会で可決する。 |
| メディア寡占規制が緩和されると同時に、国営放送RAIは分割民営化されることになると見られていた。 |
| しかし、イタリア内外で非難を浴びたため、カルロ・アツェリオ・チャンピ大統領は署名を拒否し、法案を下院に差し戻した(参照:イタリア共和国憲法)。 |
| 2003年7月2日、2003年下半期の欧州連合理事会議長国の政府首脳として欧州議会で演説し、彼を批判したドイツのマルティン・シュルツ議員に対し、「シュルツさん、私はナチス時代のドイツの強制収容所に関する映画の製作者を知っています。 |
| あなたを看守役に提案しましょう。 |
| あなたならピッタリだ!」と発言し、問題となった。 |
| 2004年の夏季休暇中に、密かにプチ整形と植毛を行ったことで世界中の話題となった。 |
| 2006年4月9日、10日に行われた総選挙では、ロマーノ・プローディ元首相・前欧州委員会委員長率いる中道左派連合との一騎打ちとなり、最後まで大接戦を繰り広げた。 |
| 僅差で野党が勝利し、票の再集計など混乱が続いたが、ベルルスコーニは最終的に敗北宣言した。 |
| 事前に苦戦が伝えられた中で善戦したことで、中道右派連合において一定の求心力を維持し、引続き野党指導者として新政権と対決していくことを表明した。 |
| 2008年1月末の議会不信任によるプローディ政権の崩壊に伴い、選挙制度改革を目的とした暫定政権の樹立が模索された折には、強く反発して上下院の解散に追い込んだ。 |
| 4月の総選挙においては右派勢力を糾合し、上下院で圧勝、2年ぶりの政権奪回を果たした。 |
| 政権発足後の閣議をナポリで行い、ゴミ問題や不法移民対策の強化を打ち出すなどして変革を訴えた。 |
| 220px|thumb|right|2008年の洞爺湖サミットに参加(左端)。 |
| ベルルスコーニは2005年10月19日に来日する予定であったが、2006年4月9日、10日投票のイタリア総選挙の準備のため、来日をキャンセルした。 |
| しかし、2008年5月にイタリア首相に復帰したことにより、7月の主要国首脳会議(洞爺湖サミット)に出席するために初来日した。 |
| なお、2008年に福田康夫がイタリアを訪問したが、国際連合食糧農業機関(FAO)本部で開催の食糧サミットの参加のための非公式訪問である。 |
| 3度目の政権においては、公約に掲げたアリタリア航空の再建や世界同時不況の対応に苦慮しながらも、2008年9月には発足以来最高の60%の支持率を叩き出した。 |
| 発足後1年を前にした2月にも6割前後の支持率を維持するなど、旧西側先進国のリーダーの多くが低支持率に悩む中にあって安定した人気を保った。 |
| 街角での警備体制や不法移民対策の強化など治安対策に対する支持や、左派の退潮、奔放な発言も含めて人物に対する好感度の高さが要因だという「不景気でも人気上々=治安対策などに支持-伊首相」時事通信社、2008年9月20日。 |
| 「伊首相 景気後退でも人気維持」東京新聞社2009年2月25日。 |
| しかし、2009年7月頃に買春疑惑が発覚し、首相と売春婦との浮気現場の音声テープも漏れて支持率が落ち、9万人もの退陣デモまで行われた |
| 2009年12月13日、ミラノ中心部で演説中に42歳の暴漢から投げ付けられたミラノの大聖堂のミニチュア模型が顔面を直撃し、鼻や歯2本を折る全治15日の重傷を負った偶然にもその翌日はブッシュ大統領への靴投げ事件と同じ日であった。 |
| 2010年に入ってもスキャンダルや失言で支持率が低落傾向にあったが、政権を揺るがすまでには至らなかった。 |
| 7月にはかつての盟友であったジャンフランコ・フィーニ下院議長が与党会派を同志約30人とともに離脱して独自の会派を結成、政権への攻撃を強めたが、なんとか政権を維持していた。 |
| とはいえ下院で過半数の議席を失い政権が弱体化する中、2011年に入ると自身の売春スキャンダルが大きく取りざたされ、検察の追及も厳しさを増すなど、先行きは不透明さを増している。 |
| 2011年2月15日には、ついにミラノ地裁に未成年者売春罪と職権乱用罪で起訴された2011年2月16日の朝日新聞朝刊8面。 |