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プロフィール
- ジェンソン・バトンとは
- 出生
- カート
- フォーミュラ・フォード
- フォーミュラ3
- F1テスト
- ウィリアムズ
- ベネトン/ルノー
- B・A・R
- ホンダ
- ブラウンGP
- マクラーレン
- エピソード
ジェンソン・アレクサンダー・ライオンズ・バトンMBE(,1980年1月19日-)は、イギリス出身のレーシングドライバー。2009年のF1ワールドチャンピオンである。
出生
| 父親のジョン・バトンはラリークロスで名を馳せた人物で、1976年にはRACイギリスラリークロス選手権でランキング2位を獲得したことがある。 |
| 父親のラリークロス時代のデンマーク人の友人アーリング・ジェンセンにちなんで命名されたが、ジェンセン・モーターズと区別するために一字だけ変えられた。 |
カート
| 幼い頃からモータースポーツに魅了されており、非常に活発な男の子だったが、テレビでレースを観戦しているときだけはじっとしていられた。 |
| 8歳のクリスマスプレゼントとして父からもらった60ccのゴーカートでカートに出場し優勝 |
| ここからキャリアを始めた。 |
| このときまでに両親は離婚しており、以後は父親と二人で暮らしながら彼のサポートを受けてキャリアを続けるが、母親、ナターシャ、サマンサ、ターニャという3人の姉とも親しくしていた。 |
| レース資金の調達には他のドライバーの家庭同様苦労しており、父親は息子のドライビングをコーチする傍ら、カートエンジンの調整ビジネスを行った。 |
| ジョン・バトンの顧客の中には、ルイス・ハミルトンの父親アンソニーもおり、後にF1ワールドチャンピオン同士としてマクラーレンでチームメイトとなる2人がジョン・バトンの調整したエンジンを使用していた。 |
| 幸いにして苦労は実り、1991年のイギリス・カデット・カート選手権では同選手権の34戦を全勝するという圧倒的な成績でタイトルを獲得し、プロのイタリアチームと契約することができた。 |
| その後も、全英オープンカート選手権を3度に渡って制するなど活躍を続け、1997年にはカートスーパーAクラス・ヨーロッパ選手権を史上最年少(17歳)で制し、アイルトン・セナ・メモリアルカップを受賞した。 |
フォーミュラ・フォード
| 1998年に四輪にステップアップし、ヘイウッドレーシングからイギリス・フォーミュラ・フォードに参戦した。 |
| 初年度ながら9勝を収め、この年のタイトルを獲得した。 |
| ブランズハッチで開催されたフォーミュラ・フォードの国際レース、フォーミュラ・フォード・フェスティバルにおいても、当時アメリカ選手権に参戦していたダン・ウェルドンを破って優勝を飾っている。 |
| 年末にはこの年のマクラーレン/オートスポーツ・ヤングドライバー・オブ・ザ・イヤーを受賞し、翌年マクラーレンのF1カーをテストする特典を得た。 |
フォーミュラ3
| 翌1999年はイギリスF3に参戦し、参戦初年度ながら3勝を挙げ、年間ランキングでもルーキーとしては最上位となる3位に食い込む活躍を見せた(この年のタイトルはマーク・ハインズ、2位はルチアーノ・ブルティ)。 |
| 国際レースにおいては、マールボロ・マスターズにおいて5位、マカオグランプリにおいては優勝したダレン・マニングからわずか0.035秒遅れの2位という、初年度のドライバーらしからぬ結果を残した。 |
| この当時、日本のレース専門誌「オートスポーツ」(三栄書房)に連載の寄稿を行っていた。 |
F1テスト
| この年9月、前年の特典としてマクラーレンのテストに参加し初めてF1カーを運転した。 |
| 続けて、アラン・プロストから直々にオファーを受け参加したプロスト・グランプリのテストドライブでは、レギュラードライバーのジャン・アレジを上回るタイムを記録し注目された。 |
| このF1デビューの際、彼は英国における運転免許を保持していなかったため、父親にサーキットまで運転してもらっていたという。 |
ウィリアムズ
| 2000年の初め、F1の名門チームウィリアムズがアレックス・ザナルディの代役を決めるため開催したトライアウトに、チーム代表のフランク・ウィリアムズからオファーを受けて参加した。 |
| そしてブラジル人ドライバーのブルーノ・ジュンケイラとの激しい争いの末、ウィリアムズのレギュラーシートを勝ち取った。 |
| 20歳という異例の若さでのシート獲得だった。 |
| 大きな期待とプレッシャーの中で、デビュー2戦目のブラジルGPでいきなり6位入賞を果たした。 |
| 当時20歳67日だったバトンによる入賞は1962年のベルギーGPにおいてリカルド・ロドリゲスが記録した20歳123日という最年少入賞記録をほぼ40年振りに塗り替えるものであり、さらなる注目を浴びることとなる。 |
| その後もドイツGPで4位に入賞するなど、計12ポイントを獲得しランキング8位という成績を残した。 |
| 250px|thumb|ベネトンB201をドライブするバトン。 |
ベネトン/ルノー
| 続く2001年シーズンについてもウィリアムズとの契約が残っていたが、ウィリアムズはCARTチャンピオンのファン・パブロ・モントーヤがチームに加入したことを受け、バトンをベネトンへレンタル移籍させる決断を下した。 |
| この年のベネトンB201は戦闘力に欠ける車で、入賞はドイツGPのわずか1度、2ポイントに終わり、ランキングも17位に沈んだ。 |
| 2002年は前年にベネトンを買収したルノーが自社のフルワークスチーム、ルノーF1を復活させ、生まれ変わった同チームから引き続き参戦することとなる。 |
| 前年のジャンカルロ・フィジケラに代わってチームメイトとなったヤルノ・トゥルーリに予選では先行を許したものの、レースペースでは終始上回り、チームメイトを上回る14ポイントを獲得し、ランキングも7位とした。 |
| しかしながら、3位走行中だったにも関わらずファイナルラップでトラブルによる失速を余儀なくされ表彰台を逸したマレーシアGP、続くブラジルGP、と、4位を2回記録したものの、F1における初表彰台には届かなかった。 |
| チームメイト以上の活躍は見せたものの、チームは翌年に向け、テストドライバーのフェルナンド・アロンソを昇格させることを決め、押し出される形でチームからの離脱を余儀なくされた。 |
| これについて、同チームのチーム代表のフラビオ・ブリアトーレは『タイムズ』紙のインタビューの中で、バトンの才能は認めつつも、アロンソを筆頭に契約を結んでいるドライバーが多いルノーとしては政治的に止むをえない判断であった、と後に語っている『タイムズ』オンライン版・2005年9月9日記事- |
B・A・R
| 2003年はB・A・Rに移籍となり、元チャンピオンのジャック・ヴィルヌーヴをチームメイトとすることとなった。 |
| しかしながら、開幕戦オーストラリアGPで、バトンのピットストップのタイミングにヴィルヌーヴが割り込む形となり、これを大きな要因としてバトンが入賞を逃す結果となった。 |
| これが引き金となり、バトンとヴィルヌーヴとの関係は良好とは言いがたいものとなり、結果報道機関を通して舌戦を繰り広げる事態にまで発展してしまった。 |
| レース結果においてはヴィルヌーヴのマシンが何度かトラブルでリタイアに見舞われる事もあってバトンがヴィルヌーヴを上回り、ヴィルヌーヴがこの年2回しか入賞できなかったのに対してバトンは同じ期間に6度の入賞を記録し、差は歴然であった。 |
| もっとも、他チームと比較し客観的に見ればこの年も車の戦闘力は不十分なものであり、第15戦アメリカGPでは自身初となるラップリーダーを記録したもののエンジンブローによりリタイア、表彰台には恵まれず、第6戦オーストリアGPと第16戦日本GPで記録した4位が最高位であった。 |
| 第7戦モナコGPでは土曜日の予選セッションにおいて大きな事故に見舞われ、同レースを棄権したばかりでなく、翌週のモンツァテストも欠席する事態となった。 |
| 前年終盤にヴィルヌーヴがチームから離脱したため、2004年シーズンをB・A・Rチームのエースとして迎えた。 |
| チームメイトは佐藤琢磨(正確には前年最終戦、日本GPから)。 |
| この年のB・A・Rの新車006は高い戦闘力を持ち、第2戦マレーシアGPを3位でフィニッシュしF1初表彰台に立つと、ウィリアムズやマクラーレンの不振にも助けられ、年間で表彰台圏内でのフィニッシュを計10回記録した。 |
| 第4戦サンマリノGPでは自身初のポールポジションも獲得。 |
| B・A・Rのコンストラクターズランキング2位躍進に大きく貢献し、自身のドライバーズランキングも3位とした。 |
| その一方で、フェラーリの壁は厚く、またチーム戦略の拙さもあり、初優勝にはあと一歩手が届かなかった。 |
| この年の8月5日にウィリアムズからバトンを獲得した旨を記したプレスリリースが出され、大騒動を巻き起こしたのである。 |
| 9月6日にはイギリスの新聞社主催による記者会見が行われ、バトンと彼のマネージャーが出席した。 |
| その会見でバトン自身は「BAT(B・A・Rの主要株主)とホンダから良い条件を提示されていたが、来年僕は100%ウィリアムズで走ることになるだろう」と語っている。 |
| バトンとウィリアムズの間で結ばれた契約について、B・A・R側は即座に無効の申し立てを行い、結果、FIAの契約承認委員会(CRB)の裁定により、この契約は無効とされ、バトンは翌年もB・A・Rチームに残留することとなった。 |
| しかしながら、翌年度の契約についてはバトン自身に有利なパフォーマンス条項を設け、ランキング首位のドライバーから一定の得点以上離されていた場合は自由に離脱可能なものとし、この問題は翌年まで尾を引くこととなった。 |
| 第8戦カナダGPではポールポジションを獲得し復調の兆しを見せたものの、シーズンのほぼ半ばとなる第9戦アメリカGP終了時点でノーポイントという事態となってしまった。 |
| シーズン折り返しの第10戦フランスGPでようやく初入賞すると、後半戦は第19戦であり最終戦中国GPまで10戦連続で入賞するという、きわめて対照的な結果を残した。 |
| この年は得意としているドイツGPにおいてシーズン初表彰台3位を記録し、ベルギーGPにおいても3位に入り、年間で2回表彰台に立った。 |
| 前年から尾を引いていた契約問題について、前年の時点でバトンはウィリアムズと2006年についての契約を交わしていたが、2005年には急転直下ウィリアムズがこの年限りでワークスのBMWエンジンを失うことが決まったことから、バトンは翻意し、前年とは一転して(ホンダというワークスエンジンを持つ)B・A・Rチームへの残留を希望した。 |
| ウィリアムズ側は表向きバトンは契約により移籍すべきであると主張したものの、結局、2005年9月21日、推定3000万ドル(約33億円)という違約金をバトン個人がウィリアムズ側に払う形で、この騒動は落着することとなった。 |
ホンダ
| 2006年は、フェラーリで9回の優勝を達成したルーベンス・バリチェロがチームメイトとなった。 |
| 前年の最終戦で参戦数が100戦に達していたバトンに対しては、開幕前から母国イギリスで「100戦して未勝利のドライバーはチャンピオンにはなれないのではないか」という声が吹き荒れ、バトンにとっては正念場となるシーズンと目された。 |
| この年の前半は第2戦マレーシアGPで3位表彰台に立ったことを除けば低調に推移したため危ぶまれたが、第13戦ハンガリーGPにおいて参戦113戦目で待望のF1初優勝を飾った(予選出走のみのレースを含めると115戦目にあたる)。 |
| これはその時点において、125戦のルーベンス・バリチェロ、119戦のヤルノ・トゥルーリに次いで、史上3番目に遅い初優勝であった。 |
| これは1989年のハンガリーGPで12番手スタートから優勝を得たナイジェル・マンセルを抜き、イギリス人ドライバーとしては1983年アメリカ西GPで22番手スタートから優勝したジョン・ワトソンに次ぐ最も後方のグリッドからのスタートで得た優勝であった。 |
| また、ハンガロリンクは同じくイギリス人の元F1チャンピオンデイモン・ヒルが13年前に初優勝を挙げた地でもあった。 |
| 250px|thumb|2009年マレーシアGPにて。 |
ブラウンGP
| 2009年3月5日に、撤退したホンダF1チームを、チーム代表であるロス・ブラウンが買収したことで、新チームブラウンGPに生まれ変わったことが発表された。 |
| 使用マシンBGP001は、本来ホンダRA109になるはずだったもので、2008年の開発をホンダが事実上諦めて作り上げたものである。 |
| 一週間後のマレーシアGPでは、スタートで4位に後退するものの、直前に驚異的なファステストラップを叩き出してからのピットストップで、ヤルノ・トゥルーリやニコ・ロズベルグをオーバーテイク、トップを奪還した。 |
| 250px|thumb|left|2009年中国GPにて。 |
| 次の中国GPは再び雨のレースとなり、予選5位、決勝はレッドブルのセバスチャン・ベッテルとマーク・ウェバーの後ろで3位表彰台に甘んじる。 |
| トルコGPではフリー走行1回目で11位,2回目で12位と出遅れ,予選もポールポジションをベッテルに奪われ2番手,汚れた側のグリッドからスタートすることになったが,決勝レースでは1周目にミスでコースオフを喫したベッテルをあっさりかわすと,その後はまったくその座をおびやかされることもなく終盤は余裕のクルージング。 |
| 250px|thumb|2009年シーズン唯一のリタイヤとなったベルギーGPでのバトン。 |
| 第16戦ブラジルグランプリでは、予選で14位と出遅れ、ポールポジションを獲得したチームメイトでランキング2位のバリチェロに大きなアドバンテージを築かれたものの、決勝ではスタート直後のクラッシュや、その後の度重なるオーバーテイクで順位を大きく上げた。 |
マクラーレン
| 2010年シーズンについては、バトンは当初ブラウンGPへの残留を希望する発言を行っていたが、年俸に対する希望がチーム側と折り合わず交渉が難航 |
| 第13戦のベルギーGPでは、スタートで1位に躍り出たチームメイトのルイス・ハミルトンと共に一気に2位まで上がったが16周目にベッテルに追突されてリタイアを喫した。 |
| 第6戦のモナコGPではベッテル、アロンソと対等な争いを演じ、一時トップ走行でベッテル、アロンソを上回るペースであったものの、作戦のアヤとセーフティーカーのタイミングがあまりにもバトン不利に動いたのが響き、最終的に3位に終わった。 |
エピソード
| 2010年5月28日には英大衆紙サンなどが2人の破局を報じた。 |
| これらの趣味から自身の鍛錬と新境地の発見を兼ねて2008年よりトライアスロン競技にも参加している。 |
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1976年
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RACイギリスラリークロス選手権でランキング2... |
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1980年
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ジェンソン・アレクサンダー・ライオンズ・バ... |
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