| 1567年、ジェームズが最初の誕生日を迎える以前に、父ダーンリー卿は不審な死を遂げ、母メアリーとは引き離された。 |
| 同年7月26日にメアリーは廃位され、ジェームズは1歳1ヶ月でスコットランド王位に就いた。 |
| メアリーは1568年にイングランドへ亡命し、以後1587年に処刑されるまでジェームズ6世と会うことはなかった。 |
| ジェームズ6世の即位後しばらくの間は摂政が置かれ、17歳になるまで実質的な政務を執ることは無かった。 |
| 最初の摂政はメアリー女王の庶出の兄で王の母方の伯父に当たるマリ伯ジェームズ・ステュアートであったが、1570年にメアリーの支持者によって暗殺された。 |
| 次いで、ダーンリー卿の父で王の祖父に当たるレノックス伯マシュー・ステュアートが摂政となったが、彼も1571年に国内の紛争で殺害された。 |
| 3人目の摂政マー伯ジョン・アースキン(JohnErskine,17thEarlofMar)も1572年に死去し、モートン伯ジェームズ・ダグラス(JamesDouglas,4thEarlofMorton)が最後に摂政となった。 |
| 1579年、13歳のジェームズ6世はフランス帰りのオウビーニュイ卿エズメ・ステュアート(EsméStewart,Sieurd'Aubigny:父ヘンリーの父方の従弟に当たる)に魅了され、彼を寵愛した(ジェームズは男色家=ホモセクシュアルで知られている)。 |
| 邪魔になったモートン伯は、ダーンリー卿殺害に関与したとして1581年1月に処刑された。 |
| 1582年、ガウリ伯ウィリアム・リヴァン(WilliamRuthven,1stEarlofGowrie)の計略により、ジェームズ6世はリヴァン城(RuthvenCastle)に軟禁された。 |
| 翌年リヴァン城からの脱走に成功したジェームズ6世は、1584年にガウリ伯を処刑し、直接統治を行うこととした。 |
| 親政に乗り出したジェームズ6世は、当面の懸案であった宗教問題に取り組むことにした。 |
| 当時のスコットランドの宗教界は長老主義の影響が強く、彼らは「聖職者の任命は国王ではなく、長老会議によるべき」と主張していた。 |
| ジェームズ6世は、1584年5月に「暗黒法」(ブラック・アクト)を発布し、国王が最高権威者であり、司教制度を謳い、国王や議会に反対する説教を禁止した。 |
| これに対する信徒の反発は強く、1592年には「黄金法」(ゴールデン・アクト)により「集会」を認めることとした。 |
| さらに、1598年には「司教国会議員」を認め、教会(カーク)の推す3人の司教に国会議員同様の立法活動を許すこととした。 |
| 1589年、ジェームズ6世はデンマーク王兼ノルウェー王フレデリク2世の娘アンナ(アン・オブ・デンマーク)と結婚した。 |
| 翌年、国王の乗船が嵐に巻き込まれて沈没寸前になる出来事が起きたが、これに関して国王に反対する勢力が雇った黒魔術師による国王暗殺計画があったとして70名の女性が逮捕される魔女狩り騒動が起きている(ただしジェームズ6世自身は消極的であったという)。 |
| ジェームズ6世はみずから『自由なる君主国の真の法』(1598年)という論文を書いて王権神授説を唱えた。 |
| ここでいう「自由なる君主国」とは、王は議会からの何の助言や承認も必要なく、自由に法律や勅令を制定することができるという意味であってジェームズ1世は、1609年のイングランド議会でも「王が神とよばれるのは正しい。 |
| そのわけは、王が地上において神の権力にも似た権力をふるっているからである。 |
| ……王はすべての臣民のあらゆる場合の裁き手であり、しかも神以外のなにものにも責任を負わない」と演説している。 |
| 大野(1975)。 |
| 1603年3月14日、イングランド女王エリザベス1世が死去すると、後継者として指名されたジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世として即位することになった。 |
| 7月25日に戴冠し、スコットランド王に加えてイングランド王・アイルランド王も兼ねることになった。 |
| これがイングランドにおけるステュアート朝の幕開けとなる。 |
| 以後イングランドとスコットランドは、1707年に合同してグレートブリテン王国となるまで、共通の王と異なる政府・議会を持つ同君連合体制をとることとなる。 |
| なお、イングランドの宮廷生活に満足したジェームズ1世は、その後スコットランドには1度しか帰ることがなかった。 |
| 1604年にイングランドの国教会や清教徒など宗教界の代表者たちを招いて会議を行った。 |
| この中で、ジェームズ1世はカトリックと清教徒の両極を排除することを宣言した。 |
| これにより、カトリックと清教徒の両方から反感を買うことになった。 |
| 1605年にはガイ・フォークスらカトリック教徒による、国王・重臣らをねらった爆殺未遂事件(火薬陰謀事件)が起こった。 |
| なお、1611年に刊行された欽定訳聖書は、ジェームズ1世の命により国教会の典礼で用いるための標準訳として翻訳されたものである。 |
| 200px|thumb|ユニオン・フラッグ(1606年版)。 |
| ジェームズ1世はイングランドとスコットランドの統一を熱望したが、両政府は強硬に反対し続けた。 |
| 一方でジェームズ1世は統一に向けて自分が影響を与えられることは行った。 |
| 第一に「グレートブリテン王」(KingofGreatBritain)と自称し、第二に新しい硬貨「ユナイト」(theUnite)を発行してイングランドとスコットランドの両国に通用させた。 |
| 最も重要なことは、イングランドのセント・ジョージ・クロスとスコットランドのセント・アンドリュー・クロスを重ね合せたユニオン・フラッグを1606年4月12日に制定したことである。 |
| 新しい旗の意匠は他にも5種類ほど提案されたが、他の案は重ね合せではなく組合わせたものであったり、イングランド旗部分が大きいものであったりしたため、ジェームズ1世は「統一を象徴しない」として却下した。 |
| エリザベス1世時代に敵対していたスペインとは和解した。 |
| だが、その一方で私掠船を禁止したり、「反スペイン」で関係を強めていたオスマン帝国に対してはキリスト教徒としての観点から敵意を抱いて断交を決め、重臣や東方貿易に従事する商人達からの猛反対を受けた。 |
| 最終的にジェームス1世が妥協して、従来国家が負担していた大使館などの経費を全て商人たちに負担させることを条件に、オスマン帝国との国交は維持することになった。 |
| また、ジェームス1世はスコットランド王としてもイングランド王としても弱体な権力基盤の上に君臨していたため、自己の味方を増やそうと有力貴族たちに気前良く恩賜を授け、多額な金品を支出していた。 |
| 更に王妃アンの浪費(後述)によって国家財政は逼迫してしまうことになった。 |
| このため、国王大権をもって議会に諮らずに関税を大商人達に請け負わせる契約(「大請負」)を締結して、議会との対立を深めた。 |
| 1610年、ソールズベリー伯ロバート・セシルが財政再建策として大契約を議会に提出した。 |
| 議会は1度は同意したが、議会側は国王が絶対王政に走るのではないかとの疑いから、廃案となった。 |
| 1622年にはホワイトホール宮殿の拡張を実施し、イニゴ・ジョーンズの設計によるバンケティング・ハウスを完成させた。 |
| 1625年3月27日にジェームズ1世はシーアボールズ宮殿で亡くなった。 |