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プロフィール
- ジャッキー・イクスとは
- 1966年
- 1967年
- 1968年
- 1969年
- 1970年
- 1971年
- 1972年
- 1973年
- 1974年
- 1975年
- 1976年
- 1977年
- 1978年
- 1979年
- 耐久レース
- 1965年
- 1980年
- 1981年
- 1982年
- 1985年
- パリ・ダカールラリー
- 1989年
- 安全に対するポリシー
- ドライバー業以外
- 補足
- 関連サイト
ジャック・ベルナール・"ジャッキー"・イクス(JacquesBernard"Jacky"Ickx、1945年1月1日-)は、ベルギー生まれの、かつてF1で活躍した元レーシングドライバーである。また、 ル・マン24時間レースでの活躍も有名である。子供の頃は内気かつ無気力であった。13歳の時モータージャーナリストだった父に連れられベルギーグランプリを見に行ったが終了後「また来年も見にこなくちゃならないの?」と聞いたという。しかし14歳の時父が50ccのバイクを買い与えたのがきっかけでトライアルに熱中するようになり、まだ免許が取れないので自宅裏にあった林道で走っていた。16歳で学校を中退、いくつかのロードレースで優勝する ...
1966年
| 1965年のスパ1000kmを制したことなどからケン・ティレルの眼に留まり、テストを受けて合格、「結果さえ良ければF2にステップアップもある」という内容でF3の契約をした。 |
| ただ実際にはF2で走ることの方が多かったという。 |
| 自動車はマトラ・コスワースF2。 |
| F1との混走だった西ドイツグランプリ予選でF2最速を記録したが決勝はリタイアに終わった。 |
| 最高位はアルビの4位。 |
| BMW・1800TIでスパ1000kmレース優勝。 |
| BMW・2000でスパ・フランコルシャン24時間レース優勝。 |
| ル・マン24時間レースにも出場したが完走できなかった。 |
1967年
| ニュルブルクリンクで行なわれた西ドイツGPにおいて、ティレルF2チームから参戦。 |
| 予選において並み居るF1ドライバーを凌ぎ、ジム・クラーク、デニス・ハルムに次ぐ総合3位に相当する予選タイムをマークした。 |
| グリッドはF1の後ろとなるにも関わらず決勝でも4周目終了時には12台を抜いて5位を走行、サスペンション故障によりリタイアに終わったもののF1チームのマネージャー達に対する強いアピールとなり、負傷したペトロ・ロドリゲスに代わる形でクーパー・マセラティでのF1ワークスシートを獲得、初戦の9月10日イタリアグランプリで早くも6位入賞を果たした。 |
| この年ティレル・マトラF2で優勝3回、3位2回を挙げてヨーロッパ・F2チャンピオンとなった。 |
1968年
| クリス・エイモンのナンバー2としてフェラーリへ移籍。 |
| フランスグランプリで初優勝、ドイツグランプリではポールポジションを獲得する活躍を見せた。 |
| 23歳と216日は当時の史上最年少PP記録であった。 |
| 第10戦となったカナダグランプリで予選中コース外に飛び出し左足を骨折したが回復が早く最終戦メキシコグランプリにはギプス固定しつつも出場している。 |
| ベルギー、イギリス、イタリアで3位、オランダと西ドイツで4位を獲得しランキング4位となった。 |
1969年
| ブラバムへ移籍しカナダと西ドイツで2勝、イギリスとメキシコで2位、フランスで3位、オランダで5位。 |
| ジャッキー・スチュワートに次ぐドライバーズランキング2位となった。 |
| ポールポジションも西ドイツ、カナダ、メキシコで獲得している。 |
| 第9戦カナダグランプリで「前年のチャンピオンであったジャッキー・スチュワートをコーナーではじき飛ばして勝利した」と非難された。 |
| ル・マン式スタートの危険性を避けるためゆっくり歩いて乗り込み最後尾からスタートし、ル・マン24時間レース優勝。 |
| 2位のポルシェ・908との差は130mであった。 |
1970年
| ナンバーワンドライバーとしてフェラーリへ戻った。 |
| 自動車はフェラーリ312B。 |
| ランキングトップだったヨッヘン・リントの事故死を受け、非公式ながら「死んだ人物からチャンピオンを奪い取るわけにはいかない」と発言している。 |
| しかしながらこれは八百長発言というわけではなく、リントが死亡したイタリアグランプリの前戦オーストリアグランプリ終了時点で45ポイントを獲得してランキングトップだったリントに対して、イクスはトップのリントはおろかジャック・ブラバムの25ポイント、デニス・ハルムの20ポイントにも遅れをとる19ポイントを獲得していたに過ぎなかった。 |
| 状況としてはトラブルでリタイアを余儀なくされたイタリアグランプリを除く最終3戦を3連勝してようやくリントを1ポイント上回るという大差を付けられており、イクスの意思にかかわらず元々タイトルを獲れる可能性は非常に小さなものであった。 |
| 実際にはこの最終3戦を最終戦メキシコグランプリの優勝を含む優勝2回・4位1回で終え、この3戦だけで21ポイントを稼ぐ大健闘を見せているが、この頑張りは「手を抜いた走りをするのはリントに失礼」と言う思いがあったからである。 |
| 後に最終戦を優勝したイクスにリント夫人が「カナダグランプリを優勝した時には、このまま全部勝ってしまうのではないかと思った」と言ったという。 |
| それに加え、最終的にこの年のランキング2位を獲得できたのはブラバムやハルム、更にオーストリアグランプリ終了時点で同点だったジャッキー・スチュワートがシーズン終盤になって失速したことに助けられた部分も大であった。 |
| この年がキャリアの中でも最もチャンピオンに近づいた年となった。 |
1971年
| 自動車はフェラーリ312B2。 |
| チャンピオン候補のナンバーワンに挙げられていたが、オランダグランプリとノンチャンピオンシップのリントメモリアル・ホッケンハイムで勝利したに留まった。 |
1972年
| 西ドイツグランプリで1勝したに留まった。 |
| マリオ・アンドレッティ・クレイ・レガツォーニと組んでフェラーリ・312PBをドライブ。 |
1973年
| フェラーリのエースとして開幕を迎えたがチームとの関係は悪化しており、更にニューマシン312B3の開発が難航しフェラーリはイギリスグランプリの後F1を休止、その間ドイツグランプリで3台目のマクラーレンM23を駆り、2台のティレルに次ぐ3位表彰台を獲得。 |
| 再びフェラーリに戻ったが、オーストリアグランプリ用の新型B3はセカンドドライバーのイタリア人、アルトゥーロ・メルツァリオのみに委ねられた。 |
| 結局シーズン終了を待たずしてフェラーリを離脱。 |
| 最終戦アメリカグランプリで、フランク・ウィリアムズ率いるイソで出走し、7位に入り意地を見せた(メルツァリオはリタイア)。 |
| 前年から一転、マトラ前年のルマン24時間を征したのを機に選手権にフル参戦を開始した。 |
1974年
| エマーソン・フィッティパルディの抜けたロータスに加入。 |
| 手始めにブランズハッチで行われたノンタイトル戦「レース・オブ・チャンピオンズ」で優勝を挙げる。 |
| この年ロータスはニューマシン76をデビューさせたが、後に車の出来が期待はずれであることが判明、結局僚友、ロニー・ピーターソンがモナコグランプリで優勝した後に開発中止となり、その後は76のパーツを流用した72Eで戦うこととなる。 |
| チーム内では1年の経験があるピーターソンの方に分があったが、彼が後退した2レースで表彰台を獲得し、ドイツグランプリでは得意のニュルブルクリンクを舞台にピーターソンの0.8秒差(このレースのタイム計測は1/10秒単位であった)でフィニッシュするなど、時折光る走りを見せた。 |
1975年
| ピーターソンと共にロータスを駆ったが、時代遅れの72Eにもはや勝つための能力はなく、人身事故のため29周で中断したスペイングランプリでの2位が唯一の入賞となった。 |
| 結局イギリスグランプリ前にロータスを去ることとなる。 |
| デレック・ベルと組んでル・マン24時間レース優勝。 |
1976年
| 1973年最終戦以来となるウィリアムズチームに移籍。 |
| しかしアメリカ西グランプリ、ベルギーグランプリ、モナコグランプリ、イギリスグランプリで予選落ちを喫するという散々な成績の末チームを去ることになる。 |
| この年は、スウェーデングランプリを欠場する代わりにポルシェ・936を駆りル・マン24時間レースを制しており、この頃からスポーツカーレースを活動の中心に置くようになったようである。 |
| その後ドイツグランプリで起こったニキ・ラウダの事故にて、安全管理に不満を示しF1を引退したクリス・エイモンに代わり母国オーストリアグランプリを走ったハンス・ビンダーを引き継ぐ形でエンサインに移籍しF1復帰。 |
| イタリアグランプリ、カナダグランプリで完走するも世界のトップドライバーに見合うパッケージとは程遠かった。 |
| ポルシェ・936でル・マン24時間レース優勝。 |
1977年
| クレイ・レガッツォーニに代わり、エンサインのワークスカーでモナコグランプリのみスポット参戦して10位。 |
| ル・マン24時間レースで自車は脱落したがチームメイトのポルシェ・936に乗り換えて優勝した。 |
1978年
| 引き続きエンサインでモナコグランプリ、ベルギーグランプリ、スペイングランプリ、スウェーデングランプリに参戦したが、好成績を得られぬままデレック・デイリーにシートを託した。 |
1979年
| もはやモナコグランプリにも母国ベルギーグランプリにも出走しなかったが、フランスグランプリ前にリジェのパトリック・ドゥパイエがハンググライダーの事故で負傷して空いたシートに収まった。 |
| この年リジェチームは3勝を挙げており、再び勝利を伺える千載一遇のチャンスだったが、不運にもシーズン中頃から低迷、5位と6位それぞれ1回ずつの入賞に留まった。 |
| 最終戦アメリカグランプリはグリッド最後尾24番手でかろうじて決勝に進出したものの決勝レーススタート2周目アクシデントでリタイア、更にその次の周ではチームメイト、ジャック・ラフィットまでもアクシデントでリタイア。 |
| イクスはこの年を最後にF1を去り、リジェのシートはディディエ・ピローニに引き継がれた。 |
耐久レース
| F1参戦中より活躍を見せており、特にル・マン24時間レースにおいては1969年、1975年、1976年、1977年、1981年、1982年と6勝をマーク、これは2005年にトム・クリステンセンに破られるまで長く最多勝記録であり、「ル・マンの帝王」と呼ばれた。 |
| この頃日本ダンロップのタイヤ「ル・マン24」のテレビコマーシャルにも出演している。 |
1980年
| ポルシェ908/80でル・マン24時間レース2位。 |
1981年
| ポルシェ936/81でル・マン24時間レース優勝、これは当時史上最多であった5勝目。 |
1982年
| ポルシェ・956でル・マン24時間レース最多勝記録を更新する6勝目を記録。 |
1985年
| スパ1000kmレースで僚友ステファン・ベロフに追突され20mジャンプしてバリアに叩き付けられたが無傷であった。 |
パリ・ダカールラリー
| 1981年からパリ・ダカールラリー(現ダカール・ラリー)に出場した。 |
1989年
| プジョー405T16GRを駆り、チームメイトのアリ・バタネンと壮絶な首位争いをする中、同士討ちを恐れた監督のジャン・トッドの指示によりコイントスで順位を決め、負けたイクスはこの年総合2位となり、FISAの会長が「モータースポーツを冒涜する行為だ!」と激怒し物議を醸した。 |
安全に対するポリシー
| 更に、レースマスコミがカーレースの潜在的な危険性を勘違いし、ある種の見世物のように無用な蛮勇を褒めあげる事もとても嫌っており、記者から「レースに勝つコツは」としつこいインタビューをされた際には「できるだけ"遅い"タイムで1位で完走すること。 |
ドライバー業以外
| モナコグランプリの競技役員も務め、チェッカーフラッグを振る役目を果たしていたが、1984年の豪雨のレースでは、レース中盤に赤旗による打ち切りの判断を下したことが、「猛然と迫ってくるアイルトン・セナとステファン・ベロフが首位走行のアラン・プロストを追い抜くことを阻止するためだったのではないのか」と物議を醸したこともあった。 |
補足
| 長女のバニーナ・イクスもレーシングドライバーであり、スパ・フランコルシャン24時間レースやル・マン耐久シリーズに参戦した他、2006年からはドイツツーリングカー選手権にフル参戦している。 |
| 2006年に行われたラ・フェスタ・ミッレミリアにはアルファロメオ1900スーパースプリントでエントリーしていたが、当日は姿を見せなかった。 |
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1945年
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ジャック・ベルナール・"ジャッキー"・イクス... |
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1965年
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かけてベルギーフォードと契約、フォード・コ... |
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