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プロフィール
- ジャッキー・ロビンソンとは
- 生い立ち
- 軍人として
- ニグロ・リーグ
- マイナー・リーグ
- メジャー・デビュー
- 引退後
- 偉大な足跡
- 獲得タイトル・記録
- 関連サイト
“ジャッキー”ジャック・ルーズベルト・ロビンソン(JackRoosevelt"Jackie"Robinson,1919年1月31日-1972年10月24日)は、アメリカ合衆国のプロ野球選手(内野手)。それまで有色人種を排除していたMLBにおいて、アフリカ系アメリカ人選手としてデビューし活躍。有色人種のメジャーリーグ参加の道を開いた。一般に「黒人初のメジャーリーガー」として有名であるが、これは厳密に言えばMLBが体制を整備し終えた1900年以降の「近代メジャーリーグ」を対象とした言い方である。アフリカ系アメリカ人のメジャーリーガーは19世紀の1884年にアメリカン・アソシエーションでプレーした モーゼス・フリート・ウォーカーが最初と ...
生い立ち
| 1919年1月31日ジョージア州カイロで5人兄弟の末っ子として生まれる。 |
| 祖父はアフリカから連れてこられた奴隷である藤澤228頁。 |
| 生後6カ月の頃に父が蒸発したため、カリフォルニア州パサデナへ移住したロバート・W・ピーターソン著、宮川毅訳「ニグロリーグ伝説の謎と魅力」『月刊メジャー・リーグ』1998年9月号、ベースボールマガジン社、1998年、雑誌08625-9、66-69頁。 |
| 母はメイドとして働いたが、週8ドルの収入では家族を養うことができなかったため、生活保護を受けた波部64頁。 |
| 兄のマシューはベルリンオリンピックの200m走で銀メダルを獲得波部14頁。 |
| ロビンソンもスポーツ選手として頭角を現し、フットボール、バスケットボール、野球、陸上の4つのスポーツで奨学金をもらい高校へ進学波部72頁。 |
| 1937年にパサディナ短期大学(現・パサディナ市立大学)へ進学し、1938年には午前に走幅跳で優勝し、午後に野球の試合に出場し優勝することもあった。 |
| その後、多くの大学から奨学金を提示されたが、最も条件の良い大学ではなく、自宅から通えることを理由に1939年からはカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)へ進学波部15頁。 |
| UCLAでは将来妻となるレイチェルと出会った。 |
| ロビンソンは黒人が仕事に就くのに学問が役に立たないと考え、母やレイチェルは反対したが、1941年3月に名誉退学。 |
| 名誉退学後はフランクリン・ルーズベルトの妻エレノアが推進する青年局(NationalYouthAdministration)でスポーツ指導者として働くことに波部73頁。 |
| 青年局の事業は第二次世界大戦が始まると閉鎖。 |
| 仕事を失ったロビンソンは人種統合されたセミプロのフットボールチーム、ホノルル・べアーズへ入団し、平日は建設会社で働き、日曜はフットボールの生活を続けた。 |
| フットボールのシーズンが11月に終わり、1941年12月5日にカリフォルニアへ帰省した。 |
軍人として
| アメリカが第二次世界大戦に参戦したことに伴い、ロビンソンは徴兵され、1942年5月にカンザス州フォートライリーで訓練を受けることに波部75頁。 |
| ロビンソンは射的の名手として評価され、知性やスポーツでの好成績、大学時代の教育など幹部候補生学校の候補として秀でていた。 |
| 入学試験を受けたロビンソンや他の黒人たちは試験に合格したこと以外何も知らされないまま3か月間待たされた波部76頁。 |
| その頃にボクシング世界ヘビー級王者であるジョー・ルイスがライリー基地に移動してきた。 |
| ルイスは白人に発言力を持っており、ロビンソンがルイスに幹部候補生学校について相談すると、ルイスは政府の権力者に訴え、ロビンソンは幹部候補生学校入学を許可された。 |
| 1943年1月28日に学校を卒業し、少尉になった。 |
| 軍ではさまざまな基地がスポーツチームを持っていて、たがいに試合をしたり、大学チームともしていたが、黒人であるロビンソンはプレイできなかった波部78頁。 |
| 人種統合された陸軍のフットボールチームでは、練習はできたが、黒人であるということを理由で試合には出られずにいた波部78-79頁。 |
| また、試合に出場できない理由にロビンソンは右足に大きなけがをしており、軍隊の任務をこなすのに不適格とされ、任務を一部制限されていた波部79頁。 |
| 1944年4月13日にロビンソンを含む数人の黒人将校が人種隔離の厳しいテキサス州フォートフッドへ配置転換された。 |
| 同年7月6日にバスで白人の運転手がロビンソンに対し、黒人用の座席へ移動を命じたが(テキサス州ではジム・クロウ法が強制されていた)波部80頁、陸軍ではバスの中での人種隔離を禁止しており、ロビンソンは移動を拒否した波部80-81頁。 |
| 運転手は憲兵を呼び、ロビンソンは詰め所へ連れていかれた。 |
| 尋問が終わると、8月2日に軍法会議にかけられた波部83頁。 |
| 会議は結局9人の裁判官全員がロビンソンを無罪とした波部84頁。 |
| ロビンソンは陸軍に除隊を申し出ると、ケンタッキー州のキャンプ・ブレッキンリッジへ転属され、1944年11月に名誉除隊となるまで黒人のスポーツチームのコーチを務めた波部86頁。 |
ニグロ・リーグ
| 1945年にニグロ・リーグのカンザスシティ・モナークスに入団。 |
| トライアウトの結果、球団は月給300ドルを提示したが、ロビンソンは月給400ドルを要求し、この要求は受け入れられた波部89頁。 |
| 4月からモナークスでプレイしていたが、4月16日にロビンソンを含む3人の黒人選手はボストン・レッドソックスのトライアウトに参加。 |
| レッドソックスは彼らのプレイを評価したが、契約には至らなかった波部92-94頁。 |
| ロビンソンはチーム最高の打率.345を記録しニグロ・リーグでは正確な記録が残っていないため資料によっては打率.387である |
| ニグロ・リーグのオールスターゲームに遊撃手として先発出場した波部91頁。 |
| ニグロ・リーグでは収入を得るため練習よりも試合を少しでも多く行っており、モナークスはナイター設備が導入されていたため、昼夜試合をしていた。 |
| ホテルは黒人客を受け入れないため、選手はバスが食堂・寝室だった波部90頁。 |
| 大学時代に練習やスケジュールが統制されていたためこのニグロ・リーグの環境に適応できずにいた。 |
マイナー・リーグ
| 1945年にブルックリン・ドジャースの会長ブランチ・リッキーに誘われる。 |
| リッキーは優秀な選手を欲していたが、その供給源としてニグロ・リーグの黒人選手に求めた。 |
| ロビンソンの評判を知ったリッキーはその確認に行き、現地で評判を調べた。 |
| 耳にした批判は黒人への差別にはたちどころに抗議をすることだった。 |
| リッキーはロビンソンに最も求めたことは「やり返さないだけのガッツを持ってほしい」であった波部104頁。 |
| 1945年8月23日に契約金3,500ドル、月給600ドルの契約でドジャースの傘下のAAA級モントリオール・ロイヤルズへ入団。 |
| その時にリッキーは「君はこれまで誰もやっていなかった困難な戦いを始めなければならない。 |
| その戦いに勝つには、君は偉大なプレーヤーであるばかりか、立派な紳士でなければならない。 |
| 仕返しをしない勇気を持つんだ」とロビンソンに言い、右の頬を殴った。 |
| ご存じですか」と答えた藤澤229頁。 |
| 10月23日にロビンソンがモントリオール・ロイヤルズへ入団したことを発表。 |
| 1946年2月10日にレイチェルと結婚波部206頁。 |
| 1946年に長男、1950年に長女、1952年に次男が誕生波部130頁。 |
| 1946年3月17日にアフリカ系アメリカ人として20世紀初の入場料を必要としたオープン戦に出場波部107頁。 |
| オープン戦の期間中、ディープサウス地域では白人と黒人が一緒にプレイすることを禁止する条例があるところもあり、数試合を中止に追い込まれた。 |
| 1946年4月18日にインターナショナルリーグが開幕。 |
| ロビンソンは打席に立ち、黒人選手としてインターナショナルリーグでは57年ぶり、他の野球機構のマイナーリーグを含めても48年ぶりのことだった。 |
| この年、ロビンソンが記録した打率.349・113打点はリーグ1位で、打率は球団新記録となった波部109頁。 |
| プレイオフでも10月4日にロイヤルズの本拠地モントリオールで優勝し、ファンはこの勝利でロビンソンを抱きしめたり、肩に担ぎあげて他の選手と走りまわった波部110-111頁。 |
メジャー・デビュー
| 開幕戦の4月15日に本拠地のエベッツ・フィールドには26,623人の観客のうち半数以上の14,000人はロビンソンを見ようとする黒人だった{{Citeweb|url=http://www.baseball-reference.com/teams/BRO/1947_sched.shtml。 |
| MLBのオーナー会議ではドジャースを除く全15球団がロビンソンがメジャーでプレイすることに反対しており、フィラデルフィア・フィリーズはドジャースとの対戦を前にロビンソンが出場するなら対戦を拒否すると通告したり、セントルイス・カージナルスも同じように脅した。 |
| それに対し、ハッピー・チャンドラーコミッショナーはドジャースを支持し、フォード・フリックナショナルリーグ会長は対戦拒否したら出場停止処分を課すと発表し、問題の鎮静化を図った藤澤230頁。 |
| 監督のレオ・ドローチャーは「自分は選手の肌が黄色であろうと黒であろうと構わない。 |
| 開幕前、チームメイトのなかにはジャッキーとプレイするのを嫌がって移籍した選手もいたが、ジャッキーは常に紳士的に振る舞い、シーズンが始まるとトレードを志願していたディキシー・ウォーカーがロビンソンに打撃や守備について教えるようになるなど、シーズン終了時にはチームメイト・監督・報道陣から受け入れられるようになった波部116-119頁。 |
| 一塁手として打率.297・12本塁打・48打点・29盗塁という成績を残してチームの優勝にも貢献し、この年より制定された新人王を受賞した。 |
| 1948年からは二塁手として出場。 |
| 体重の増加に伴い、走力が落ちたため、レオ・ドローチャー監督から批判され、ウェーバーに入れられた波部120頁。 |
| 6月24日に本塁打を放ってからはスランプを脱出し、チーム1位となる打率.296・85打点を記録。 |
| ロビンソンは黒人と言う理由で退場させられなかったためうれしかったという波部120-121頁。 |
| ポール・ロブスンが「アメリカの黒人はたとえロシアと戦争になってもアメリカのために戦わないだろう」と発言したため、アメリカ合衆国下院の非米活動委員会で発言への抗議を求められた。 |
| ロブスンは1943年にケネソー・マウンテン・ランディスコミッショナーやMLBのオーナーたちにジムクロウを廃止するように抗議していたため、証言台に立つべきか悩むも、証言台に立つことを決断。 |
| 1949年7月8日に共産主義者は黒人たちに抗議するように扇動していることは誤解であることと、ロブスンでも1,500万人のアフリカ系アメリカ人を代表して発言することができないと主張した波部123-125頁。 |
| 1949年は自己最高の打率.342・37盗塁を記録し、首位打者と盗塁王を獲得。 |
| 黒人選手としてロイ・キャンパネラ、ドン・ニューカム、ラリー・ドビーと共に初のオールスターゲームに出場を果たし、1954年まで6年連続でオールスターに出場した。 |
| その頃からドジャースのフロントとのトラブルを抱えるようになり、黒人であるロイ・キャンパネラと比較され、攻撃的であるとロビンソンは批判された波部127頁。 |
| 1953年に「若者が知りたいこと(YouthWantstoKnow)」というテレビ番組に出演した際に、ヤンキースに黒人選手がいないので人種差別しているかという質問にロビンソンは「ヤンキースのフロントは黒人を差別していて、ニューヨークで唯一、一人も黒人選手を雇っていない球団である」と発言したため、記者からは怒りを買うことに波部128頁。 |
| 1955年は自己最少の105試合の出場で、打率.256・8本塁打・36打点と自己最低の成績に終わったが、ワールドシリーズではニューヨーク・ヤンキースを破り、球団史上初のワールドチャンピオンの一員となった。 |
| 1956年シーズン終了後の12月13日にディック・リトルフィールドと35,000ドルでジャイアンツへの移籍が持ち上がるが、ドジャースにいられないならばと翌年の1月23日に引退を表明。 |
引退後
| チョックフル・オ・ナッツ(ChockfullO'nutsの副社長や全米黒人地位向上協会(NAACP)の自由基金運動の議長に就任波部130頁。 |
| NAACPの創設者であるジョエル・E・スピンガーンが創設したスピンガンメダルを1956年に受賞している。 |
| ファイル:Jackierobinson42expos.png|thumb|left|ロビンソンの背番号42は1972年にドジャースの永久欠番に制定され、1997年にはMLB全球団の永久欠番となった。 |
| 1962年には1939年のルー・ゲーリッグ以来となる有資格初年度で野球殿堂入りを果たす。 |
| 1972年6月4日、ロビンソン(42)と共にロイ・キャンパネラ(39)、サンディー・コーファックス(32)の背番号がドジャースの永久欠番に制定された。 |
| 永久欠番の式典に出席した時には杖なしで歩けず、右目は失明していた波部173頁。 |
| 1972年10月24日、スタンフォードの自宅で死去波部173-174頁。 |
偉大な足跡
| ロビンソンの活躍によりメジャーへの黒人選手受け入れを早める役割を果たし、ハンク・アーロンやウィリー・メイズ、サチェル・ペイジのメジャーデビューの足がかりとなった。 |
| カリーム・アブドゥル=ジャバーパット・サマーオール『ヒーロー・インタヴューズ』朝日新聞社刊、45ページ、アーサー・アッシュパット・サマーオール『ヒーロー・インタヴューズ』朝日新聞社刊、51ページ、ジム・ブラウンパット・サマーオール『ヒーロー・インタヴューズ』朝日新聞社刊、90ページといった他のスポーツの選手からも尊敬を集めている。 |
| ロビンソンのメジャーデビュー50年目にあたる。 |
| 同日、ドジャース対メッツ戦が行われたニューヨーク・メッツの本拠地シェイ・スタジアムで式典が行われた波部186頁。 |
| 1999年には、メジャーリーグベースボール・オールセンチュリー・チームの二塁手部門に1位で選ばれている。 |
獲得タイトル・記録
| ナショナルリーグMVP 1回:1949年。 |
| MLBオールスターゲーム選出 6回:1949年-1954年。 |
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1884年
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アメリカン・アソシエーションでプレーしたモ... |
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1937年
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パサディナ短期大学(現・パサディナ市立大学... |
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