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プロフィール
- ジャンボ鶴田とは
- 人物概要
- プロ入りまで
- 全日本プロレス入団
- 1970年代中盤:ライバル達との出世争い
- 1980年代前半:世界の鶴田へ
- 1980年代中盤:超獣コンビ・ジャパンプロレス勢との闘い
- 1980年代後半〜1990年代前半:天龍同盟・超世代軍との闘い
- 1992年以降:教授レスラーへの夢
- 没後
- 人物・評価
- 主な得意技など
- 生涯
- 関連サイト
ジャンボ鶴田(ジャンボつるた、1951年3月25日-2000年5月13日)は、日本のプロレスラー。三冠ヘビー級王座の初代王者であり、日本人初のAWA世界ヘビー級王者(第30代)。
人物概要
| 本名、鶴田友美(つるたともみ)。 |
| ミュンヘンオリンピック、レスリンググレコローマンスタイル最重量級代表を経て全日本プロレスリング入り、ジャイアント馬場後継の次の時代の大型エースとして期待され順調に成長し、1980年代、トップレスラーとして活躍したが、B型肝炎を発症したことにより第一線を退く。 |
| その後、桐蔭横浜大学、中央大学、慶應義塾大学で非常勤講師を勤めるなど、教育者としても活躍した。 |
| 山梨県東山梨郡牧丘町(現山梨市)出身。 |
| 山梨県立日川高等学校を経て、中央大学を卒業。 |
| ニックネームは「若大将」のち「怪物」。 |
| 座右の銘である「人生はチャレンジだ、チャンスは掴め」は、プロレスの師であるジャイアント馬場から継承したもの。 |
| オリンピック出場時の選手名簿には、身長194cm、体重112kgとある。 |
プロ入りまで
| 広大なブドウ農園を営む家に生まれる。 |
| 生まれた頃は体が小さく、女の子のようだからという理由で「友美」と名付けられた『全日本プロレス中継スペシャル』「ジャンボ鶴田と5人のライバル」。 |
| 中央大学法学部政治学科 |
| だが、バスケットボールではプロ選手になれないことや、日本のバスケットボールの実力では、予選に勝ってオリンピックに出場することができないということで、バスケットボール部を退部したということになっている。 |
| 選手層の薄いレスリングであればオリンピックに出場しやすいと考え、大学のレスリング部に入部を申し込むが、「一つのスポーツをやりとおすことのできない奴は何をやってもダメ」との理由で一旦は断られる。 |
| この時断った側の一人に関川哲夫(ミスター・ポーゴ)がいるが、彼の語るところによると鶴田の格闘技への思いは本物だったということで反省しているようである(ミルホンネット「ある極悪レスラーの懺悔」より)。 |
| そこで、自衛隊のレスリング道場で練習を始め、わずか1年半足らずで全日本選手権フリー・グレコローマン両種目とも2連覇(1971年、1972年)するほどの選手となった。 |
| 大学3年次にレスリング部から逆に入部を勧められ、4年次に石井庄八、笹原正三、池田三男、渡辺長武、中田茂男ら金メダリストを輩出した名門中央大学レスリング部へ入部した。 |
| レスリング日本代表にも選ばれ、当初の目的通り1972年のミュンヘンオリンピックに出場する(グレコローマンスタイル100kg以上級)。 |
| レスリングでの実績により、ジャイアント馬場からプロレスにスカウトされる。 |
| プロレスに対する偏見や評価などを考え葛藤したが、1972年9月16日、父親の死をきっかけに自分自身で人生に挑戦しようと思ったことと、大学の監督・先輩・マスコミなどからのアドバイス、日本レスリング界のドン八田一朗の「プロが栄えればアマも栄える」の言葉に励まされプロ入りを決意した。 |
全日本プロレス入団
| 全日本プロレス(以下、全日)への入団発表の際、「全日本プロレスが就職するのに一番いい会社かなぁと思って…」と発言。 |
| これが「プロレスに就職します」と報道される。 |
| デビュー当初のリングネームは本名の鶴田友美。 |
| ニックネームは「若大将」。 |
| 入団してすぐにザ・ファンクスのジムへ修行に行き、スタン・ハンセンやボブ・バックランドらと共にトレーニングへ励む。 |
| 特にハンセンとは気が合ったようで、ハンセンは鶴田を「トミー」の愛称で呼び、鶴田が日本から持ち込んだインスタントラーメンを分け合って食べる程の仲だった(ハンセンはその味に感動し、鶴田に黙って勝手に食べていたという話も残っている)。 |
| ハンセンは「身体は細いのに自分より何キロも重いベンチプレスを上げていた」と当時の鶴田のパワーを語っている。 |
| 1973年3月24日、テキサス州アマリロにてエル・タピア戦でプロデビュー。 |
| 同年5月20日には、NWA世界ヘビー級王座に挑戦(ドリー・ファンク・ジュニア戦)するという異例の大抜擢を受けるなど、当地で約150戦を消化。 |
| 凱旋帰国後の同年10月6日、後楽園ホールにおけるムース・モロウスキー戦で国内デビュー(フォール勝ち)。 |
| 3日後の10月9日に蔵前国技館で行われたザ・ファンクスとのインターナショナル・タッグ選手権試合60分3本勝負、パートナーはジャイアント馬場。 |
| 結果は1-1の引き分けでは、テリー・ファンクからジャーマン・スープレックス・ホールドでピンフォールを奪い大器の片鱗を見せ、すぐに馬場に次ぐ全日本プロレスNo.2の地位につく。 |
| 20代の中頃までは若い女性の親衛隊もいたほどの人気であった。 |
| ファンからの公募により、1973年10月27日にリングネームをジャンボ鶴田と改名。 |
| 日本でも日本航空でジャンボジェット機が就航し、一般にもその名称が浸透し始めた時期であり、師匠である馬場と同様にスケールの大きなプロレスを期待されての命名であった。 |
1970年代中盤:ライバル達との出世争い
| 1970年代中盤は、復活したUNヘビー級王座決定戦でジャック・ブリスコを破り初めてのシングルタイトルを獲得し、タイガー戸口(キム・ドク)との抗争や、ラッシャー木村とのエース対決、喧嘩番長ディック・スレーターをジャーマン・スープレックスで破ってのチャンピオン・カーニバル初優勝など、徐々に実績を上げていく。 |
| 1977年8月25日に行われたミル・マスカラスとの雨中田園コロシアム決戦を含め、東京スポーツ主催のプロレス大賞において3年連続年間最高試合賞(ベストバウト)を受賞(他の2試合は1976年3月28日に蔵前国技館で行われたUNヘビー級選手権試合のジャンボ鶴田vsラッシャー木村戦と、1978年1月20日に北海道帯広市総合体育館で行われたNWA世界ヘビー級選手権試合のハーリー・レイスvsジャンボ鶴田戦)。 |
| この時期の鶴田の代名詞は、UNヘビー級王座と背後に星を刻んだレスリングタイツ。 |
| 必殺技は4種類のスープレックス、特にジャーマン・スープレックスとトップロープからのウルトラCドロップキック(ミサイルキック)を大一番で用いている。 |
| このころの好敵手にビル・ロビンソン、ハーリー・レイス、アブドーラ・ザ・ブッチャーらがいる。 |
1980年代前半:世界の鶴田へ
| 1980年代前半は、NWA世界ヘビー級王座(当時世界三大王座(NWA・AWA・WWF)のうちのひとつ)に対してあと一歩でタイトルを取り逃がす歯がゆい試合を続けたため「善戦マン」と呼ばれていたが、1982年のNWA戦からタイツも黒を基調としたエースらしいものに変更し、「善戦マン」からの脱却を心がけた。 |
| 1983年4月ごろ来日していたルー・テーズから必殺技のバックドロップ、フライング・ボディシザース・ドロップを継承。 |
| このとき「今のは百万ドルだな」というルー・テーズの言葉に「世界チャンピオンになったら払います」と答えた逸話が残されている。 |
| 1983年の6月にはNWA王者リック・フレアーに挑戦し、三本勝負を1-0で時間切れ勝ちはするものの、「三本勝負の場合、二本勝たなければ王座の移動はしない」というルール規定により、世界奪取はならなかった。 |
| しかし、フレアーとのNWA戦では1981年の1-2での敗北や1982年のダブルフォールでの引き分け(この試合は一本勝負)に比べるともっとも善戦しており、AWA王座を奪取するまでの間「鶴田が世界に一番近づいた日」と呼ばれていた。 |
| この後、UNヘビー級王座を返上。 |
| 1983年8月には蔵前国技館において、力道山以来の日本の至宝インターナショナル・ヘビー級王座をブルーザー・ブロディから奪取。 |
| 馬場から「今日からお前がエースだ」と公式に全日のエースを襲名する。 |
| この年末の最強タッグで鶴龍コンビとして初参加、ミラクルパワーコンビに次ぐ準優勝に終わる。 |
| この年、プロレス大賞最優秀選手賞(MVP)を、同世代を表す「鶴藤長天(格闘頂点)」の中で初受賞。 |
| 1984年、入場曲を「J」に変更。 |
| 2月23日に蔵前国技館で、AWA王者ニック・ボックウィンクルに挑戦。 |
| 「バックドロップ・ホールド」によって勝利し、当時日本人として初めてAWA世界ヘビー級王座を獲得、念願の世界奪取を達成した。 |
| AWA王座獲得後、同王座をリック・マーテルに敗れるまで16回の防衛、日米2国間を往復しての世界ヘビー級王座防衛は、日本人初の快挙であった。 |
| この年、プロレス大賞2連覇。 |
| これらの活躍により同世代「鶴藤長天」の中では一段上の扱いとなり、実力的には馬場・猪木の後継者とされるものの、人気では維新革命の長州力や天龍源一郎の後塵を拝す。 |
| このレスラーとしての格と人気面のギャップは、「バックドロップは相手によって落とす角度を変えている」などという鶴田の発言に対し、ファンが「本気でやれ」という反応を見せるなど、鶴田のキャラクターや試合ぶりにファンが感情移入しにくい点に一因があった。 |
1980年代中盤:超獣コンビ・ジャパンプロレス勢との闘い
| 「プロレス界のキングコング」と称されたブルーザー・ブロディやハンセン、ロード・ウォリアーズといった大型外人レスラーとの戦いがメインとなっていた1980年代中盤、大型の外人と戦っても見劣りしないレスリング技術は、後に全日に参戦した長州力、ブロディが新日本に移籍した後で対戦したアントニオ猪木らの戦いと比較される中で評価されるようになった。 |
| 相手レスラーからの評価も高く、戦った選手のほとんどは鶴田の身体的能力を絶賛している。 |
| 新日本プロレスのエースであり、1984年末から全日に参戦した長州力と、1985年11月4日に大阪でシングルマッチを行う。 |
| 結果は、60分フルタイムドローで終わったが、試合後はロッカールームで全く動けなかった長州に対し、鶴田はシャワーを浴びて大阪市内へ飲みに出かけた、といった伝説を作る。 |
| また、鶴田は、この一戦はリング中央でどっしりと構え、自身の周りを長州が動き回るようにファイトすることを意識し引退後マスコミに「あれは私の作戦勝ちだった」と語っている。 |
| これは馬場がエース候補生たちに必ず教えていた心構えであり、また、自分が格上のレスラーであると印象付けられる上にスタミナの消費も少ないという効果を狙ったものだったただし、当時、ジャパンプロレス勢とのマッチメイクだと聞いた対戦相手は、バックステージで「今日はカラータイマーだから楽だな」と話していた、という逸話もある。 |
| これは、ジャパンプロレス勢が攻めばかりで、スタミナが極端にないことを揶揄したものである。 |
| そのため、鶴田が王道プロレスを体現した試合として名高い。 |
| 一方、長州は対戦前には鶴田を散々酷評していたが、対戦後は鶴田へ一目置くようになり、マスコミに対し「彼には勝てないよ」と語った。 |
| 以後、鶴田を評価する発言を度々行うようになる。 |
1980年代後半〜1990年代前半:天龍同盟・超世代軍との闘い
| 鶴田が怪物レスラーとしての評価を高めたのは、1987年に「天龍同盟」を結成した天龍源一郎との一連の抗争、そして天龍離脱後のプロレス四天王達との戦いであった。 |
| 1980年代後半以降は、一般的なプロレス技で仲野信市や天龍を失神(天龍の失神は、逆水平チョップをまともに喉へ食らった鶴田が我を忘れ、後に「ジャンボ・リフト」と呼ばれるおきて破りの急角度のパワーボムを放ったため)させる、寺西勇やアニマル浜口が全治数か月の入院を余儀なくされる、といった怪物ぶりを発揮した。 |
| 1988年6月には、谷津嘉章との五輪コンビでインターナショナル・タッグ王座とPWF世界タッグ王座を統一、初代世界タッグ王座に就いた。 |
| 1989年4月には、シングルタイトルであるインター・PWF・UNの三冠を統一し、初代三冠王者となる。 |
| これらの実力が認められた結果、ジャンボ鶴田の人気は不動のものとなり、1990年2月に開かれた東京ドーム大会(新日本プロレス主催)では敵地であるにもかかわらず、入場時に「ツルタ、オー!」コールが爆発するなど、日本プロレス界のエースと呼ばれるにふさわしい存在になっていた。 |
| 天龍が新天地を求めて全日を離脱した後、ライバルとして名乗りをあげたのは弟子の三沢光晴であった。 |
| 1990年6月、三沢はシングルマッチで鶴田越えを果たすが、この試合は「丸め込み」合戦を制してのもので、真に鶴田越えを果たしたとは言い難いものだった(試合後、勝った三沢はリング上で倒れこんだままで、負けた鶴田はレフェリーに抗議している)。 |
| 1991年10月、大阪府立第二体育館での6人タッグ戦では、鶴田のエルボーが三沢光晴の鼻を直撃し、三沢が鼻骨を骨折してしまう。 |
| 鶴田は反旗後の三沢に、「あいつはもっと良い奴だと思っていた」という意味不明なコメントを残しているが、この試合後に「三沢はまだまだ良い奴じゃないよ」と語っており、自分が壁であることを自認していたとも言える。 |
| また、同年1月下旬の後楽園ホール大会では、川田利明から顔面へのステップキックを執拗に繰り出された直後、鶴田は目の色を変え、大迫力のエルボー(この段階で川田をのしたが、鶴田の怒りは収まらず、無理矢理起こして次の攻撃を続けた)、顎へまともに入るジャンボキック、場外でのボディスラム、座面ではなくステンレス部分でのイス攻撃などを川田に繰り出した。 |
| タッグパートナーの渕正信が止めに入るものの、渕を突き飛ばし、解説の竹内宏介も言葉が出なくなるほど壮絶な攻撃であった。 |
| 和田京平によると、試合後の控え室では「何でボク、あんなにキレちゃったんだろう」と普段のジャンボ鶴田に戻っていたという。 |
| 当時ホーガンが所属するWWF(現WWE)と全日本とは全く団体間の交流はなく、しかも、全日は選手のスタンド・プレーに厳しかった。 |
| 対戦したい相手として他に、前田日明、藤波辰巳の名も挙げており、一時は新日本プロレスへの移籍を本気で考えた時期もあったという。 |
| ジャイアント馬場VSアントニオ猪木戦争に対しても、「全日本に閉鎖的な面もあると思うが、(馬場に偽の挑戦状を叩きつけた)猪木さんは今は良いけど、あと何年かすれば年齢でベストなファイトが出来なくなるのは確実だ。 |
1992年以降:教授レスラーへの夢
| 1992年にB型肝炎を発症し長期入院を余儀なくされた。 |
| 元々鶴田がB型肝炎ウイルスキャリアであることはわかっており、当時の主治医によるインターフェロン療法がうまくいかず症状を悪化させたため、と後に保子夫人が著書で述べている。 |
| 1987年1月4日、東京スポーツ主催のプロレス大賞授賞式の席上でも、「今年は藤波選手と闘って最高試合賞を取りたい」とコメントしており、週刊ゴングによる鶴藤長天キャンペーンのきっかけの一つとなっていた。 |
| 鶴田がアメリカへ向かう際、成田空港に見送りに来たのは三沢、仲田龍、大八木賢一専務のたった三人であったが、仲田の著書によれば、鶴田サイドと馬場元子オーナーとの間には既に距離があり、見送りに行けない空気を振り切って来たとのことである。 |
| オーストラリアで臓器提供を待っていたところ、2000年春になりフィリピン・マニラでドナー出現の報を聞き、かの地へ急行・手術。 |
没後
| 鶴田の死から1ヶ月後の6月13日、かつて鶴田の付き人を務めていた三沢光晴が全日本プロレスを退団し、その三日後の記者会見で新団体(プロレスリング・ノア)の旗揚げを正式発表した。 |
| これに伴い全日本の選手が大量離脱したことに対して、彼らが全日本で冷遇されていたことを知らぬ保子夫人は「ジャンボ鶴田・お別れの会」にて「夫は三沢くんを支持したと思う。 |
| 鶴田の突然の死は各方面で大々的に報道され、2000年11月26日には『知ってるつもり?!』(日本テレビ系)で「ジャンボ鶴田、家族の絆と衝撃死の真相」と題した追悼番組が放送された |
人物・評価
| レスラー時代はバラエティ番組へも出演しており、プロレス好きの三宅裕司の番組やさんまのまんまにも出演した。 |
| また日野自動車のトラックや井関農機のコンバイン「太郎」シリーズのCMにも出演経験有。 |
| アマチュアレスリングでは鶴田よりも身長が13センチ低い |
主な得意技など
| 現在では秋山準が鶴田から直接教わったことを明言して使用し、女子でも西田夏(NEO)が習得し、仲村由佳(NEO)・りほ(アイスリボン)へと伝承されている。 |
| ジャーマン、ダブルアーム、フロント、サイドの4種類のスープレックスを使いこなし、特にジャーマンのブリッジは真円を描くかのごとく美しかった。 |
生涯
| 1988年6月10日、日本武道館にてインターナショナル・タッグ王者・ロード・ウォリアーズに勝利し、PWF世界タッグと王座統一し、初代世界タッグ王者となった(パートナーは谷津嘉章)。 |
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