| ファーブルの父方の祖父は、羊飼いや小作人を抱えたそれなりの経営規模の自作農であったが、そこから自立して農場を離れた父のアントワーヌ・ファーブルは定職に就けず、様々な手伝い仕事を転々とした。 |
| 大規模な自作農であった妻の実家サルグ家に経済的援助をあおぎ、妻の婦人用皮手袋作りの内職で生計を立てるなど一家の生活は貧しかった。 |
| ファーブルは4歳から7歳までの間、弟のフレデリックの育児や母の内職を妨げないために、20km程離れた父の郷里マラヴァルの祖父の家に預けられた。 |
| 自然豊かな環境で育ったことが、その後の人生に影響を与えたと言われている。 |
| 7歳になって、学校に行くためにサン・レオンの父の家に戻り、フランス語の読み書きを身に付けた。 |
| 1833年、ファーブルが10歳の時に一家はサン・レオンを離れ、アヴェロン県の県庁所在地ロデズに出てカフェを開業した。 |
| 依然一家は貧しかったが、両親が教育には理解があったこと、王立中学校の礼拝堂で司祭のミサを手助けして聖歌隊の役を務めることを条件に学費が免除されたこともあって中学校に進学、ラテン語とギリシア語で優秀な成績を収めた。 |
| しかし接客の下手な両親のカフェ経営は失敗し、1年足らずで店を畳んでロデズを離れることとなった。 |
| 父はその後オーヴェルニュ、トゥールーズ、モンペリエと各地を転々としながらカフェを開いては失敗を重ねていった。 |
| ファーブルは父の開店先の一つであったトゥルーズのエスキーユ神学校で再び授業料免除の入学を認められて、中学2年に相当する第5学級を終えたが、15歳で一家は離散状態となり、肉体労働で糊口を凌ぎながら独学で学問を続けることとなる。 |
| 1840年にファーブルはアヴィニョンに滞在していた時に、そこの師範学校で学生を募集していることを知り、入学試験を受け首位で合格する。 |
| 3年後には師範学校を首席で卒業、小学校上級免状を取得した。 |
| その後独学で数学を習得。 |
| カルパントラのビクトル・ユーゴー学院で数学と物理学の教師になり、21歳で同じ学院の教師であるマリー・セザリーヌ・ヴィアーヌと結婚する。 |
| この時期に娘と息子を儲けるも、幼いうちに亡くしている。 |
| その後コルシカ島の大学に進み数学を研究しながらも、昆虫学に傾倒していく。 |
| アヴィニョンに戻ったファーブルは1861年、博物館の館長として働き、同時に研究資金を稼いで大学教授となるための財産基準を満たすために、染料の材料であるアカネの研究に没頭した。 |
| そして天然アカネから効率よく染料のアリザリンを抽出し、精製する技術開発で大きな成果を挙げる。 |
| この成果でファーブルはレジオンドヌール勲章を得ることになる。 |
| しかしこの研究成果に基づく工業化は、ほぼ同時にドイツで人工合成に成功し、工業化された合成アリザリンとの競争に敗れ、事業からの撤退を余儀なくされた。 |
| 1863年、アヴィニョンのサンマルシャル礼拝堂で市民を対象に「植物はおしべとめしべで受粉をする」という原理を説明するも、参加者のほとんどが女性であったことから大きな非難を浴びた。 |
| その後政界や教育界からの圧力により、彼は教壇を降りることとなる。 |
| この事件には独学で名を成したファーブルへの妬みや、文部大臣デュリュイへの宗教界からの意趣返しの側面デュリュイはカトリック教会から教育切り離す改革に尽力しており、彼の教育改革を象徴する教育者としてファーブルを大変ひいきにしていた。 |
| もあったとされる。 |
| 教員を辞めさせられると、彼の講義を受けていた生徒たちは置時計を記念に贈呈した()。 |
| その後、家主にも追い立てられたファーブルは、住み慣れたアヴィニオンを出てセリニアンに移り住む(セリニアンに移り住む前にアヴィニオンに近いオランジュの町に一時移住していた)。 |
| たまたまアヴィニオンに滞在していたイギリスの思想家ジョン・スチュアート・ミルに、ファーブルの生涯でただ一度の借金を申し込んだのもこの頃である。 |
| ファーブルは大きな試練に立たされるが、『昆虫記』の執筆に注力するのはこの後のことである。 |
| セリニアンに移り住んで後に最初の妻を病気で失い、23歳の村の娘ジョゼフィーヌと再婚する年齢差40に近いこの結婚は村人からあまり祝福されず、結婚後しばらくの間アルマスの屋敷には毎夜石が投げ込まれる始末であった。 |
| 3人の子に恵まれ家族は8人の大所帯となる。 |
| ファーブルが自らアルマスと名付けたセリニアンの自宅には1ヘクタールの裏庭があり、ファーブルは世界中から様々な草木を取り寄せて庭に植え付けると共に様々な仕掛けを設置した。 |
| 老衰で亡くなるまで36年間、彼はこの裏庭を中心として昆虫の研究に没頭した。 |
| この時期にファーブルはオオクジャクヤママユの研究から、メスには一種の匂い(現在でいうフェロモン)があり、オスはその匂いに引かれて相手を探し出すということを突き止めた。 |
| 試しに部屋にメスのヤママユを置いて一晩窓を開けていると、翌日60匹ものオスのヤママユが部屋を乱舞したという。 |
| ファーブルは高齢になると年金による収入がなく、『昆虫記』ほか科学啓蒙書の売れ行きも悪かったため、生活は極貧であったと言われているこの話はかなり誇張されて伝えられており、実際のファーブル家は極貧どころか使用人を雇える余裕すらあった。 |
| 最後の妻マリー・ジョセフィーヌはそのようにしてファーブル家に雇われた家政婦である。 |
| また終の棲家となったアルマスもその地方ではお屋敷と呼ばれるに相応しい邸宅であった。 |
| さらにファーブルが極貧にあえいでいるとの噂を聞きつけフランス全土から多額の義捐金がファーブルの元に送付されたが、こうした人の情けを嫌う彼の性格もあり、それらは全て差出人に送り返されている。 |
| 当時85歳を超えていたファーブルは健康を損なっており、横になったままの時期が多くなっていく。 |
| 1915年5月、ファーブルは担架に乗せられて、アルマスの庭を一巡りする。 |
| これが彼にとっての最後の野外活動となってしまう。 |
| そして同年10月11日、老衰と尿毒症で92歳で亡くなった。 |