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つながりの強いひと
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トマス・ア・ケンピス
トマス・ア・ケンピス(ThomasaKempis、1380年-1471年)は中世の神秘思想家。彼の著した信心書『キリストに倣いて』(イミタツィオ・クリスティ)は聖書につい... |
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デジデリウス・エラスムス
ネーデルラント出身の司祭、人文主義者、神学者。出身地から「ロッテルダムのエラスムス」とも呼ばれる。エラスムス(聖人)(ErasmusofFormiae フォルミアの... |
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ピエール・ダイイ
フランスにおいて非常に影響力のあった神学者。コンスタンツ公会議でも重要な役割を果たした他、多方面に渡る膨大な著作を残した。 |
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ドミニコ
ドミニコ会の創設者、カトリックの修道士、聖人。本名はドミンゴ・デ・グスマン・ガルセス(DomingodeGuzmánGarcés)。 |
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尼子高久
尼子氏の祖は 塩冶高貞 の遺児である 塩冶玄貞 であるとされる。また、玄貞が京極氏の養子となり高久となったという説もある。高久に尼子郷を与えるよう高秀... |
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島津元久
南北朝時代から室町時代の武将、守護大名。大隅・日向・薩摩守護。島津氏第7代当主(奥州家第2代当主)。島津氏6代当主島津氏久の嫡男で、母は伊集院忠国の娘... |
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菊池武朝
南北朝時代から室町時代前期にかけての武将。肥後守護代。菊池氏の第17代当主。16代当主菊池武政の子。兼朝の父。幼名は加賀丸。別名に武興。官位は右京大夫... |
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島津氏
資料種別 : 一般書 書 名 : 琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻 シリーズ名 : 著者名 : 上里 隆史/著 出版者 : ボーダーインク ... |
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世阿弥
足利義満の指示によるもの。正しくは、「世阿彌」。 |
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足利義教
室町時代中期の室町幕府第6代将軍(在職:1428年-1441年)。3代将軍足利義満の3男。母は側室の藤原慶子で、4代将軍足利義持の同母弟。僧侶時代は義円、還俗直... |
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マルティン・ルター
救いは人間の行いによらず、 信仰 のみによるという「 信仰 義認論」を唱えて、 カトリック教会 の聖職位階制度、修道制を否定。 宗教改革 運動の立役者とな... |
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重源
中世初期の日本に生きた人物。平安時代末期から鎌倉時代にかけて活動した僧である。房号は俊乗房(しゅんじょうぼう、俊乗坊とも記す)。東大寺大勧進職とし... |
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恭愍王
恭愍王(きょうびんおう、1330年-1374年在位:1351年-1374年)は第31代の高麗王。忠粛王の子。姓は王、名は祺。蒙古名は伯顔帖木児。諡号は恭愍仁文義武勇智... |
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千葉満胤
南北朝時代から室町時代前期にかけての武将。千葉氏の第14代当主。第13代当主・千葉氏胤の子。母は新田義貞の娘。子に千葉兼胤、馬加康胤。官位は従五位下、... |
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陳友諒
陳友諒(ちんゆうりょう)は元末の群雄の一人。湖北から江西にかけての一帯に勢力を誇り、大漢皇帝を称したが、朱元璋との鄱陽湖の戦いで敗死した。 |
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韓林児
元末の群雄の一人。白蓮教の指導者韓山童の子。本貫は河北欒城。 |
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アルベルトゥス・マグヌス
アルベルトゥス・マグヌス(AlbertusMagnus,1193年頃-1280年11月15日・ケルン)は大聖アルベルトとも呼ばれる13世紀のドイツのキリスト教神学者である。また... |
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寛意
平安時代後期の真言宗の僧。父は小一条院敦明親王の子敦貞親王。観音院僧都・宮僧都とも称される。性信入道親王のもとで真言宗広沢流の法を受け、白河天皇の... |
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北畠満雅
室町時代前期の武将。伊勢国司北畠家の第3代当主。北畠顕泰の次男。子に教具。北畠顕泰の次男であるが、長男の満泰は戦死していたため、北畠家を継ぐ。皇統が... |
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プロフィール
- ジャン・ジェルソンとは
- 生い立ちから青年期
- 教会再一致への情熱
- コンスタンツ公会議へ
- 晩年のジェルソン
ジャン・ジェルソン(JeanGerson,1363年12月14日-1429年7月12日)はフランス出身の神学者。パリ大学総長をつとめ、ピサ教会会議および コンスタンツ公会議を主導し、公会議主義を精神的に支える思想家となった。
生い立ちから青年期
| ジェルソンは敬虔な両親、父アーヌルフ・シャリエルと母エリザベス・デ・ラ・シャルデニエールの間に12人兄弟の7番目として生まれた。 |
| ジェルソンのほか兄弟姉妹のうち7人が修道者になっている。 |
| 彼は14歳でパリ大学のナバール・カレッジに学び、自由学芸を修めると神学を学んだ。 |
| そこでパリ大学総長ピエール・ダイイの薫陶を受けた。 |
| ダイイは後に司教から枢機卿にあげられ、ジェルソンの生涯の師にして生涯の友になることになる。 |
| ジェルソンは優秀であったため早くから大学内で注目されており、1383年~1384年にかけてパリ大学のフランス人学生団の代表に選ばれた。 |
| 1387年にはジェルソンはパリ大学の代表団の一員として教皇へ陳情された問題の事情説明に赴くという栄誉を担った。 |
| その問題とはパリ大学の出身でドミニコ会の神学博士モンテソノのモンソンなる人物が聖母マリアもまた原罪からのがれ得なかったと主張して他のドミニコ会員と共に大学から追放された事件に関することであった。 |
| モンソンがこれを不服としてアヴィニョンの教皇クレメンス7世に直訴したため、審理を行うべくパリ大学の代表が召還され、ジェルソンやダイイがアヴィニョンに赴いたのである。 |
| ジェルソンのこのアヴィニョンへの旅は、後世のマルティン・ルターのローマへの旅とよく比される。 |
| 二人とともそこで目にした教会の現状に心を痛め、教会改革を決意したという共通点がある。 |
| ジェルソンは教会分裂の現状と聖職者のモラルの低下に衝撃を受け、以後パリ大学を拠点に聖職者の霊的向上と教会分裂の克服に全力を注ぐことになる。 |
教会再一致への情熱
| 1392年、ジェルソンは博士号を取得。 |
| 1395年にはル・ピュイの司教に選ばれたピエール・ダイイの後任として32歳でパリ大学総長に選ばれた。 |
| 改革への熱意に燃えるジェルソン総長のもと、パリ大学の名声は頂点に達した。 |
| 王権と教皇権に対する大学の自主性を主張しただけでなく、大学の研究環境と教員たる聖職者たちのモラルを向上させたことで、パリ大学にはヨーロッパ中から優れた学生たちが集まった。 |
| しかしジェルソンの著作を分析すると、この時代のジェルソンは一方で職責の重さに悩んでいたこと、終日書簡の執筆と自著の分析に追われていたことがわかる。 |
| 彼の著作は三つの時代に区分できる、第1は大学改革に取り組んだ時代、第2は教会分裂の収拾にかけた時代、最後は晩年の信心書の執筆に情熱を注いだ時代である。 |
| ジェルソンの最大の業績はなんといってもカトリック教会の大危機であった教会大分裂(シスマ)を克服させたことである。 |
| 1378年のグレゴリウス11世の死後、教会には二人の教皇が立っていた。 |
| これは中世の人から見れば唯一であるはずの教会が二つになり、ひとりであるはずのキリストが二人になったかのような異常事態であった。 |
| 教会分裂のもともとの原因はフランス王にあったため、心あるフランス人たちはその責任を感じていた。 |
| ジェルソン、ピエール・ダイイ、クラメンゲスのニコラスといったパリ大学の重鎮たちは教皇クレメンス7世の時代、パリ大学の名において教会分裂収拾への三つのロードマップ(あるいは選択肢)を提示した。 |
| それは「協議の道」(ViaConcessione)、「妥協の道」(ViaCompromissi)、「公会議の道」(ViaConcili)といわれるものであった。 |
| フランス王や教皇たちに働きかけるパリ大学の努力が続けられた結果、ついに対立する教皇たちに協議についての合意を取り付けるまでに至った。 |
| しかし、ヨーロッパの諸王たちは、分裂の収拾において教皇たちが話し合って解決するよりは、各国の枢機卿団の思惑が通りやすい公会議のほうが自分たちの政治的意向を反映させうると考え、公会議開催への世論と圧力を高めていった。 |
| ジェルソンは多くの文書をあらわして分裂収拾を方向付けていったが、そこからは初めは「協議の道」にかけていた希望が結局教皇たちの指導力のなさによって果たされず、徐々に公会議への期待に転換していくことが読み取れる。 |
コンスタンツ公会議へ
| 最終的に事態は公会議の強力なイニシアティブによってしか解決できないところにまで追い込まれていた。 |
| というのも新たに教皇ヨハネス23世を選出したピサ教会会議が教皇対立の解決どころか、第三の教皇をたてるという最悪の結果を引き起こしてしまったのである。 |
| ダイイはここにいたって公会議でも解決はできないと失望したが、ジェルソンはあきらめなかった。 |
| 彼はまたもう1つの理由で公会議の実施を熱望した。 |
| それは同じころに起こった(ブルゴーニュ公ジャンの指示による)オルレアン公ルイの暗殺を合法的なものとして支持した神学者ジャン・プティに対するパリ大学とパリ司教の弾劾の実効性を公会議で確認しようとしたからである。 |
| ジェルソンの熱意はついに皇帝ジギスムントを動かした。 |
| ここにおいて歴史にその名を残すコンスタンツ公会議が開かれた。 |
| この公会議では三人の教皇たちの処遇とフス派への対応についてが話し合われた。 |
| 最終的に公会議は三人の教皇を廃位、あるいは退位させて新教皇をたてることで分裂に終止符を打つことに成功した。 |
| ここでは公会議の権威の教皇権に対する優越を確認したことで知られ、それがそのままジェルソンの思想と同義にみられがちだが、彼の著作を注意深く読めば、ジェルソンが「公会議の教皇権への優位は、教会分裂などの非常事態に限定される」と考えていることがわかる。 |
| ジェルソンはそこまで徹底した教会改革は志向してはいなかった。 |
| 彼のものとされてきた教会改革に関する主要な著作も研究者によってランドルフのアンドレアスらの手によるものだということがわかっている。 |
| 皮肉なことにジェルソンの名を不朽のものとしたこの公会議によってジェルソンは没落することになる。 |
| それはジャン・プティへの弾劾が黒幕のブルゴーニュ公の圧力で却下されたことによる。 |
| 公会議はプティの問題は道徳に関することで、教義に関することではないため、弾劾に及ばないと結論したのだ。 |
| ジェルソンはもはやフランスに戻るつもりはなかった。 |
| 敵対するブルゴーニュ公が国内においてその権威を増していたからでもある。 |
| 彼はコンスタンツ、ラッテンベルクといった都市に滞在して『神学のなぐさめ』などの書を執筆した。 |
晩年のジェルソン
| 年老いたジェルソンは故国フランスへ戻ろうと思い、弟が修道院長をしていたリヨンにやってきた。 |
| 伝承では子供たちに勉強を教えていたという。 |
| その代金としてジェルソンが求めたのは自分の魂の救いのために短い祈りをしてほしいということだけだったとされている。 |
| 晩年のジェルソンは神秘神学に関する信心書を執筆していた。 |
| 長い間、この時期ジェルソンが書いた信心書こそが、トマス・ア・ケンピスの名をつけられた『キリストにならう』だったといわれていたが、研究の結果、実際にトマス・ア・ケンピスのものだということがわかっている。 |
| ジャン・ジェルソン、1429年7月12日リヨンで死去。 |
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1384年
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かけてパリ大学のフランス人学生団の代表に選... |
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1392年
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ジェルソンは博士号を取得 |
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ジャン・ジェルソンさんについてのひとこと紹介
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