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プロフィール
- ジャン・トッドとは
- ラリーからプジョーへ
- F1・フェラーリへ転籍
- チャンピオン争いから常勝チーム復活を成し遂げる
- 人物
ジャン・トッド(JeanTodt、1946年2月25日-)は、フランスのカンタル県Pierrefort出身の自動車技術者、ナビゲーター。2010年4月現在、国際自動車連盟(FIA)の会長。プジョーの世界ラリー選手権およびグループCチームで、またフェラーリのF1チームで監督を務め、いずれも世界チャンピオンを獲得した。
ラリーからプジョーへ
| 父親のミニクーパーSを駆って友人と乗り回したのがモータースポーツキャリアの始まりである。 |
| それから、数々のラリーレースで様々な役どころを演じるようになり、自分の力が向いている方向を見定めて後はドライバーの補佐をするコ・ドライバーに専念し、1972年には日産ワークスチームのコ・ドライバーとしてモンテカルロ・ラリーに出場し、ラウノ・アルトーネンとのコンビで240Zを総合3位に導いている。 |
| その後、1981年までプジョーのラリーチームに身を置き、WRCへの参戦を続けた。 |
| 現シトロエン・スポール監督のギ・フレクランと組んだ1981年シーズンには、シリーズ2位を獲得している。 |
| コ・ドライバーを引退した後も、チームは運営部門のスタッフとしてトッドがチームにとどまることを望んだため、レース部門のマネージャーに就任(プジョー・タルボ・スポールの誕生)、1982年からWRCの車体デザイン部門の組織構築を委ねられた。 |
| 出足は鈍かったが、1984年に投入されたプジョー205T16が1985年になって初のタイトルを獲得すると、翌年も連覇を果たし、トッドによって組織されたデザイン部門から生まれた車体は選手権の支配に成功し、ラリー、ヒルクライム、そして1990年代にはル・マン24時間レースで監督としてチームを率いて1992年、1993年と連覇するなど監督として大いに活躍し、優勝請負人と称されていた。 |
| この頃からトッドはF1での仕事を望んでいたが、当時のプジョーはF1への進出を決めかねていた。 |
F1・フェラーリへ転籍
| フェラーリの社長であるルカ・コルデーロ・ディ・モンテゼーモロは、1991年からタイトル争いにも加われず、おまけに1勝もできずに低迷していたスクーデリア・フェラーリの復活のため、チームマネージメントからの改革を必要と考えた。 |
| モンテゼモーロは他カテゴリーではあるが、実績を残しているトッドの仕事ぶりを高く評価し、チームマネージャー(監督)へ招聘した。 |
| トッドもF1で働きたい意欲があったのでオファーを受けたが、長期的な計画でチームの復活を図る必要を訴え、当時としては異例の5年契約で加入した。 |
| 1993年フランスGPから現場に合流したトッドは、チームリソースの現状を分析しながら、内部改革や必要な人材確保を徐々に実行し始める。 |
| 1994年ドイツGPでゲルハルト・ベルガーが、1995年カナダGPでジャン・アレジがそれぞれ優勝したが、その一方でチーム復活に向け、当時唯一の現役ワールドチャンピオンであったベネトンのミハエル・シューマッハと交渉を始め、ドライバーラインナップの一新を図っていた。 |
| そして1996年からシューマッハと、No.2ドライバーとしてジョーダンからエディ・アーバインを加入させた。 |
| また技術陣もそれまでのジョン・バーナードやグスタフ・ブルナーの代わりに、ベネトンのテクニカルディレクターであるロス・ブラウンと、チーフデザイナーのロリー・バーンらを引き抜いた。 |
チャンピオン争いから常勝チーム復活を成し遂げる
| この体制は2000年には、トッド、シューマッハ、ブラウン、バーン、パオロ・マルティネッリらのいずれかがチームから離脱した場合、即座に他の人物も契約を解除できるようになっている、と報道されるほどの結束となっていった。 |
| この強力なメンバーによりチームは劇的に強化され、スクーデリア・フェラーリは1997年から毎シーズンタイトル争いに絡むようになり、1999年から2004年までコンストラクターズタイトルを6連覇、シューマッハも2000年から2004年までドライバーズタイトルを5連覇し、ドライバーズとコンストラクターズのダブルタイトルを5年間保持し続けた。 |
| レースでの活躍以外でも、トッドは辣腕ぶりを発揮していた。 |
| セールスマンとしてフェラーリ・ロードカーの売り上げにも貢献し、各種イベントやパーティーで顧客に直接契約を持ちかける姿が見られる。 |
| 特に受注が芳しくなかった612を拡販した。 |
| トッドはモンテゼーモロとともにスクーデリア・フェラーリの復活の立役者であり、チームの成績だけでなくフェラーリ本社の業績も上がり、エンツォ・フェラーリ死後において初めて黄金時代を享受することとなった。 |
| モンテゼーモロが2004年にフェラーリを傘下に治めているフィアットの会長に就任し、フェラーリ本社の会長も兼務していたが、モンテゼーモロの兼務による負担削減とトッドの既述の実績も評価され、2006年にフェラーリ本社のCEOに就任した。 |
| この人事異動によりフェラーリ本社のCEOに就くことになったが、それ以前はFIA会長マックス・モズレーの引退に関連し、トッドがFIAの役員選挙に立候補するのではないかと噂されていたことがあり、当のモズレー自身「トッドなら会長としても申し分ないだろう」という趣旨のコメントを発していた。 |
| 一方でこの頃から、モンテゼーモロの承認を得ずに契約をすることが多々あり、両者の不仲説が囁かれていた。 |
| その一例として、2007年10月16日にフェリペ・マッサの2008年末までの契約を、2010年末まで2年間延長することを発表したことがあげられる。 |
| この背景にマッサのマネージャーがトッドの息子であるニコラス・トッドであるため、トッド自身をチームに残留させるか、マッサを契約延長させるか交換条件を提示した。 |
| さらにモンテゼーモロがフェルナンド・アロンソとの契約を構想していたが、「トッドはアロンソとは不仲であるから、上記の事由に加えて契約させないための方法であった」と報道された。 |
| 2008年3月18日に、フェラーリ本社のCEOとスクーデリア・フェラーリ代表も退いた。 |
| 代表を退いた後はフェラーリにおけるFIA・WMSC(世界モータースポーツ評議会)における代表を務め、GTカーレース、スポーツ・マネージメントを担っていたが、2009年3月にフェラーリにおける全ての役職を退き |
| 2009年10月23日マックス・モズレーの後任のFIAの会長に選出された。 |
人物
| 2001年2月にフランス政府からレジオンドヌール勲章(コマンドール)を、2007年1月にもレジオンドヌール勲章(グランドフィシエ)を贈られた。 |
| 2004年9月28日に、元ボンドガールのミシェール・ヨーとの婚約を発表した。 |
| 乗用車としてフェラーリ・エンツォを含め、フェラーリの現行車種は全車種所有している。 |
| 今宮純はトッドは暗算がとても得意なことと、飛行機でたまたま通路を挟んで席が隣になったときに機上の間、終始書類を読んでいて睡眠もアルコールも採っていなかった仕事熱心ぶりに感心したと言っている。 |
| フェラーリでチーム監督をしてたときは絶えず片手にストップウォッチを持っていた。 |
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1946年
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ジャン・トッド(Jean Todt )は、フランスの... |
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1972年
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日産ワークスチームのコ・ドライバーとしてモ... |
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