| デュ・ベレーは、父の邸宅であったチュルムリエール城で独りきりという不遇な少年時代を過ごした。 |
| そして、彼は森の寂寥の中で黙考したり、ロワール川のほとりで夢想したりすることに慣れている儚げな青年になった。 |
| KléberHaedens司教が『フランス文学史』で述べるように、ある夏の日が彼の人生にとって決定的なものとなった。 |
| ロワール川沿いの旅籠でピエール・ド・ロンサールと出会ったのである。 |
| ロンサールは繊細にして優雅で、寛いで語った。 |
| 二人はともに20代であった。 |
| 彼らには共通の親族や友人がいた。 |
| ともに軍務に就くことを夢見たが、早期の難聴が原因で望みを断たれたという。 |
| 別の説では、彼らの出会いは1547年にポワティエ大学の学生の時だった。 |
| ロンサールは詩を書いていて、大詩人になることを望んでいた。 |
| 彼はデュ・ベレーに、パリのコレージュ・ド・コクレに入って、古代の書き手たちについて学ぶと説明した。 |
| デュ・ベレーは彼も作詩をすることを打ち明けた。 |
| ロンサールはデュ・ベレーに一緒に来るよう説得した。 |
| 彼らは、コレージュ・ド・コクレで優れたギリシャ学者ジャン・ドラの指導を受けた。 |
| ドラは彼らに古代の書き手たちやイタリアの詩人たちを理解させた。 |
| ロンサールとデュ・ベレーはその頃友人たちでグループを作った。 |
| これは1549年に「ブリガード」と名付けられ、1553年にはプレイヤード派となる。 |
| プレイヤード派は、新たな詩の規律を定義しようとした。 |
| 彼は聖職者となることを選び、ノートルダム・ド・パリの参事会員となった。 |
| これは十分に世俗的な生活を送ることの妨げにはならなかった。 |
| 彼の詩は王宮への道を開き、そこで彼は「フランスのオウィディウス」の異名を取った。 |
| 1549年にグループはデュ・ベレーを文責とする宣言書を出版することに決めた。 |
| これが『フランス語の擁護と顕揚』である。 |
| デュ・ベレーは、グループの理想、つまりはラテン語の支配に対してフランス語を守ること、新たなジャンルを耕すこと、語彙を豊かにすること等に触発されたその宣言書に署名をした。 |
| 力強いが少々高ぶっている息吹に活気づけられたこの書は、フランス語詩の創出の証書たらんとした。 |
| 勇敢なる冒険、それは彼が知識、才能、皮肉とともに導いたものである。 |
| そして、デュ・ベレーは50篇ほどのソネットを集めた『オリーブ』を出版した。 |
| このペトラルカ風のソネット集は大成功をおさめた。 |
| それは、恋愛のソネットをフランス語で集めた初の詩集であったのだ。 |
| 健康上の問題にもかかわらず、彼は1553年から1557年までローマのジャン・デュ・ベレー枢機卿の秘書を務めた。 |
| ジャン・デュ・ベレーは、ジョアシャンの父の従兄弟にして有名な外交官であった。 |
| ジョアシャンはローマに憧れを持っていたので、この4年間は情熱的に始まった。 |
| しかし、古代の神話的な都は、もはや廃墟、放蕩、豪奢の町でしかないことを見いだすこととなった。 |
| 嫌悪と後悔の念が、より美しい時代に触発されていた彼を捉えた。 |
| 夢の中で讃えていたローマが彼を裏切ったのである。 |
| 1558年にパリに帰還すると、『ローマの古跡』、『様々な田舎風遊戯』、アレクサンドランの191篇のソネットを集めた『哀惜詩集』を刊行した。 |
| これらの作品は当時よく知られた。 |
| 彼は健康状態が悪化し、1560年1月1日に書斎の机で急逝した。 |
| 彼はノートルダム・ド・パリに葬られたが、遺骸は失われた。 |