| 13歳でクラリネットを始める。 |
| 後にアルト・サックスに転向し、1946年よりプロとして活動開始。 |
| 1949年にディジー・ガレスピーのバンドに参加し、その後テナー・サックスに転向。 |
| ほとんど無名のままいくつかのバンドを転々とした。 |
| レコーディングの機会にもあまり恵まれず、この時期のコルトレーンの録音はごくわずかしか残っていない。 |
| 1955年にマイルス・デイヴィスのグループに入る。 |
| マイルスはすでにマイルスとコルトレーンはともに1926年生まれジャズの大スターであったため、マイルスバンドに抜擢ソニー・ロリンズやキャノンボール・アダレイに参加を打診するも実現できず、コルトレーンの起用は窮余の策だった。 |
| されたコルトレーンもその名前が知られるようになり、マイルスバンド以外のレコーディングの機会も多くなる。 |
| しかしこの時期のコルトレーンの演奏は決して評判この当時のコルトレーンの演奏はどこか風変わりではあるものの、テナー奏者としては不安定で標準以上の実力があるとはとてもいえず、実力者揃いのマイルスバンドには不釣り合いで、ファンからはあいつをクビにしろと言われる始末だった。 |
| 一方、ぎこちないコルトレーンのテナーは、スムーズでクールなマイルスのトランペットを引き立てる効果があることを評価した評論家もいた。 |
| のよいものではなかった。 |
| 1957年に一旦マイルスバンドを退団コルトレーンは麻薬中毒の禁断症状を抑えるために深酒をあおって泥酔、そのために出演予定のステージをすっぽかすという失態を何度か演じたため、マイルスは激怒しコルトレーンを殴った上、バンドから彼をクビにした。 |
| その後はセロニアス・モンクのバンドに加入し、モンクから楽理の知識を授かるコルトレーンは質問魔であり、無口なマイルスはコルトレーンから質問をされるのを嫌ったが、モンクは嫌な顔をすることなく、実際にピアノを弾きながらコルトレーンの質問に丁寧に答えた。 |
| とともに音楽的修業に一層打ち込む。 |
| また同時期に麻薬中毒も克服。 |
| 同年3月にマイルスバンド時代の同僚であったピアニストのレッド・ガーランドの紹介でプレスティッジ・レコードと契約プレスティッジ・レコードとの契約条件は、アルバム1枚あたりの録音のギャラがたったの300ドルで、版権もすべてプレスティッジ・レコードに帰属することになっていた。 |
| 5月には初リーダー・アルバム『コルトレーン』の吹き込みを行っている。 |
| 同年7月にニューヨークのライブハウス「ファイブ・スポット」にモンクバンドとして出演。 |
| コルトレーンはこの月「神の啓示」を得たと語っている1964年に録音されたアルバム『至上の愛』にコルトレーン自身が寄せたライナーノーツにて記述。 |
| 「神の啓示」が本当に意味するところは本人にしか分からないが、この月以前に録音されたトレーンの演奏はどこか不安定でぎこちなさが残っていたのに対し、この月以降に録音された演奏はどれもが自信に満ちたものに変わっており、本人の内面に何らかの大きな精神的変化記録によれば、コルトレーンの当時の妻ナイーマは、夫のために連日コンサートの演奏をテープに録音していたといわれているが、この年の7月に行われたファイブ・スポットでの演奏を収録したテープは今のところ見つかっていない。 |
| 1990年代に入ってモンクとコルトレーンとの共演による『ライブ・アット・ファイブ・スポット・ディスカバリー』というアルバムが発売されたが、これは翌年の演奏が録音されたものである。 |
| モンクが契約していたリヴァーサイド・レコードのプロデューサーオリン・キープニュースは、評判のよい「ファイブ・スポット」でのライヴをレコード化しようと考えるが、コルトレーンが所属するプレスティッジ・レコードのボブ・ワインストックとの交渉がうまくいかなかった。 |
| が訪れたものと考えられる。 |
| いずれにせよ、1957年7月は20世紀を代表する一人のジャズの巨人が誕生した月として記憶されるべき月となる。 |
| 9月にはブルーノート・レコードにて初期の代表作『ブルー・トレイン』プレスティッジでの録音はほとんどがオール・スター・ジャム・セッション形式で、あまり周到な準備をせずに、ミュージシャンが思い思いに行う即興演奏を録音するというスタイルだった。 |
| これに対してブルー・ノートは、リーダーの音楽的魅力を最大限引き出すように共演者の組み合わせにも気を配った上、ギャラまで払ってミュージシャンたちにリハーサルをさせるという手の込んだものだった。 |
| を吹き込んでいる。 |
| 1958年、モンクの元を離れモンクは当時売り出し中の新人テナー奏者ジョニー・グリフィンを大いに気に入り、コルトレーンの後任として雇っている。 |
| 、マイルスバンドに再加入。 |
| マイルスはこの時期、コルトレーンをソニー・ロリンズと並ぶ2大テナー奏者として高く評価した。 |
| また音楽評論家のアイラ・ギトラーは同年『ダウン・ビート』誌において、音を敷き詰めたようなコルトレーンの演奏スタイルを「シーツ・オブ・サウンド」コルトレーンはハーモニー(和声)に異常な関心を示したと言われる。 |
| コルトレーンは単音楽器であるサックスでコードの構成音を高速に吹き分ける技法をモンクから学んだと語っている。 |
| これが1958年になってシーツ・オブ・サウンドという奏法のもとになったとされる。 |
| またアルバムコルトレーン・ジャズではサックスに倍音を発生させることで同時に複数の音を鳴らす奏法を試している。 |
| この奏法はマイルスとの最後のツアーの中の1960年春のコンサートの録音テープでもしばしば聴かれる。 |
| と形容。 |
| 以後、この形容は初期コルトレーンの奏法の代名詞となる。 |
| 一方、コルトレーンのソロはいつも長かったコルトレーンはインタビューの中で、なぜあんなに長いソロをとるのかという質問に対して「自分は一つのソロの中でいろいろなことを試そうとしている」と答えたことがある。 |