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プロフィール
- ジョージ・ハリスンとは
- 概要
- 生い立ち
- ビートルズの中で
- 1970年代前半
- 1970年代後半
- 1980年代前半
- 1980年代後半
- 1990年代~晩年
- 死後
- ジョージとモータースポーツ
ジョージ・ハリスン(GeorgeHarrison,MBE、1943年2月25日-2001年11月29日)は、イギリスのミュージシャン。ビートルズのメンバー。
概要
| 1960年代にビートルズのリードギタリストとして活動し、解散後はソロとして活動した。 |
| ソロでは、「マイ・スウィート・ロード」や「ギヴ・ミー・ラヴ」「セット・オン・ユー」などをヒットさせたほか、『オール・シングス・マスト・パス』(1970年)は、ロック・アルバムの金字塔として高く評価されている。 |
| スライドギターの名手としても知られる1969年のデラニー&ボニーのライブツアーに参加したことをきっかけに、スライドギターを習得したと言われる。 |
| 生前の体形は、身長177cmで体重64kgだった。 |
| 血液型はA型。 |
| 2001年に肺癌と脳腫瘍のため死去。 |
| 1988年にビートルズのメンバーとして、2004年に個人としてロックの殿堂入りしている。 |
| 現在、「Sir」の称号を故人として初めて授与するかどうか議論されている。 |
生い立ち
| 時の国王ジョージ6世に因んで名づけられたハリスン家の三男。 |
| リヴァプールのアーノルド・グローヴ12番地で生まれた。 |
| 父・ハロルドの職業は、バス運転手だった。 |
| ジョージが6歳になった時、一家はアプトン・グリーン25番地に引っ越した。 |
| ダブディル・ロード幼児学校、ダブディル小学校に通い、リヴァプール・インスティテュートに入学した。 |
| 友達は彼を「独りぼっちで隅に座っているようなヤツ」と評していた。 |
| ロックンロールに熱中していたジョージが、スキッフルバンドを結成しようと考えて、初めて手にした楽器はギターではなく洗濯板だった。 |
| これは、一緒にバンドを組もうとしていた、2番目の兄ピーターがすでにギターを持っていたため。 |
| しかし、しばらくするとギターを演奏したい気持ちが強まっていき、とうとう同じ高校の生徒から中古のギターを譲り受ける。 |
| そして毎日の練習のおかげでギターの腕前が上達したジョージはある日、母・ルイーズにお金を援助してもらい、初めてのエレクトリック・ギターを手にする。 |
| エレキギターを手にしたジョージは念願のスキッフル・グループを結成。 |
| バンド名を「Rebels」(レベルズ・反逆者たちの意)とした。 |
| 当時のイギリスには同名のバンドは多数存在していた。 |
| 「レベルズ」が初めてライヴのステージに立った日、ブッキングされていた他のバンドが不運にもみんなキャンセルしたので、少ないレパートリーの中、一曲を繰り返しの連発で数十分間引きのばしたりして乗り切った、というエピソードもある。 |
| その後、1950年代の中頃に、ポール・マッカートニーと出会う。 |
| ポールの紹介で、ジョン・レノンらのバンド「クオリーメン」(ビートルズの前身)に参加。 |
| バンド加入のきっかけとなったのは、空のバス2階を使って行われた即席オーディションにおいて、当時高等テクニックを要したビル・ジャスティスの"Raunchy"」というギターインストゥルメンタルを完璧に弾いたことが、ジョンに認められたからと言われている(彼の家をバンドに貸したからという説もある)。 |
| ジョージ自身は、ポールに紹介される以前からジョン・レノンの存在は知っていた。 |
| なぜなら、以前ジョージがアルバイトをしていたクウォーク精肉店の得意先の1つがジョンの家だったからである。 |
ビートルズの中で
| ビートルズのメンバーでは最も年下で、主にリードギターとコーラス、ボーカルを担当した。 |
| 自作曲も20曲以上発表している。 |
| また、各種楽器の導入にも積極的であり、初期においてはエレクトリック12弦ギターを(後にアメリカのグループ、バーズのサウンドに影響を与えたといわれる)、中期にはインド楽器であるシタールを取り入れ、楽器の導入に留まらず、インド音楽とロックの融合を試みて、後のラーガ・ロックに大きな影響を与えた。 |
| また、後期には初期の型のシンセサイザーをいち早く導入している。 |
| ビートルズ時代のジョージの作品の特徴として、メロディーラインにシンコペーションを多用した曲が多いことが挙げられる(「タックスマン」「アイ・ウォント・トゥ・テル・ユー」「嘘つき女」「恋をするなら」など)。 |
| インド楽器の導入と同様、ジョンやポールとの違いを打ち出そうとする意識が強かったと思われる。 |
| 活動初期から中期においては、ソングライターとしては天才メロディーメーカー、レノン=マッカートニーの陰に隠れ目立たない存在であったが、中期に至って自作の「恋をするなら」と「嘘つき女」がアルバム「ラバー・ソウル」に収録され、「タックスマン」がアルバム「リボルバー」の1曲目を飾るなど頭角を現し、後期になると「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」「サムシング」「ヒア・カムズ・ザ・サン」等の曲を完成させる。 |
| しかし、当時ビートルズ内でのジョージの評価は決して高くなく、1作のアルバムにつき2曲しか発表できない、自由にリードギターを弾かせてもらえないなどで不満を募らせる。 |
| この確執は「ゲット・バック・セッション」で顕在化し、彼はメンバーの中でも早くからソロ活動を志向するようになり、バンド解散の原因の一つともなった。 |
| ドキュメンタリー映画「レット・イット・ビー」の中で、ギターソロをめぐってポールと口論するシーンがカメラに収められている。 |
| 一連のセッションについて、「最悪だったよ。 |
| 地獄にいるみたいだった。 |
| 世界一熱心なビートルズ・ファンでも、あの空気には耐えられないだろう」と語っている。 |
| 一方で、ビートルズの中でもっとも外部ミュージシャンとの交流が盛んだったのも彼であった。 |
| これは、彼の人柄によるものが大きく、ブライアン・エプスタインは「ジョージといると本当に心が休まる。 |
| ジョンやポールと一緒のときのように、何かしなくちゃいけないというプレッシャーが全くない」と語っており、尊大なところがなく、誠実で人懐っこい性格だったといわれる。 |
| 自作曲「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」のギターソロにエリック・クラプトンを、キーボード・プレイヤーとしてビリー・プレストンをゲット・バック・セッションに参加させるなど、閉鎖的だったバンドのサウンドに、外部の血を入れるという面でも貢献した。 |
| 他にもボブ・ディラン、ボンゾ・ドッグ・ドー・ダー・バンドとの交流はよく知られるが、無名時代にロリー・ストーム、リンゴと最初に仲良くなったのも、ビリー・プレストンと仲良くなったのも彼であった。 |
| その初期に於いて、デッカ・レコードにローリング・ストーンズを紹介したとも言われる。 |
| 欧米では、「静かなるビートル(QuietBeatle)」の異名を取っていた。 |
| このことについてジョージ本人は「僕は『静かなるビートル』なんて呼ばれていたけど、心根は狂っているのさ。 |
| なんていったってビートルズの一員として務まったんだからね。 |
| 」と語っている。 |
| 大英帝国勲章に関して後年「俺たちは国のために尽くして金を儲けてやったのに、貰ったものは戦争で人殺しをした連中と同じ物だった。 |
| 野暮ったいヒモの付いたチンケなメダルさ。 |
| 」と笑いながら語った。 |
1970年代前半
| ビートルズ解散直後、最も活発に音楽活動を展開したのはハリスンであった。 |
| その活動の充実ぶりに、多くの評論家から「ビートルズを解散して最も得をした元ビートル」と評された。 |
| 本格的な初のソロ・アルバムとなった『オール・シングス・マスト・パス』は、異例のLP3枚組として発売されたにも関わらず、全米/全英のアルバムチャートで7週連続1位となる大ヒットを収め、シングル「マイ・スウィート・ロード」も米英それぞれ4、5週連続No.1となっている。 |
| 自作の曲を正当に評価されず発表の機会を得ることができなかった彼が、書きためていた曲を一気に放出した作品が多く含まれ、伝説のプロデューサー、フィル・スペクターの見事なプロデュースと相まって、その完成度の高さから、今もなお画期的なロックアルバムとして評価されている。 |
| 翌年8月には、シタールの師であるラヴィ・シャンカールの要請でロック界初の大規模なチャリティー・コンサート(バングラデシュ・コンサート)を開催。 |
| エリック・クラプトンや、ボブ・ディラン、レオン・ラッセルなどが参加したイベントは大成功を収め、20世紀最大のロック・イベントとも称された。 |
| その模様を収めたライヴ盤は、1972年度グラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーに輝いた(全米・全英No.1)。 |
| 1973年に発売された2枚目の『リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』も全英2位・全米で5週連続1位を記録。 |
| 翌1974年にはA&Mレコード傘下に自らのレーベル「ダーク・ホース」『レノン=マッカートニー』の2人に比べて自身を「穴馬」に例えたネーミング。 |
| を立ち上げ、そこから彼自身が発掘しプロデュースを手がけた新人やラヴィ・シャンカールのアルバムなどを次々リリースする(彼自身はまだアップルとの契約が残っていたため、このあともしばらくはEMIからレコードを発売し続けた)。 |
| それに伴い同年秋にはビートルズ解散後初の大規模な北米ツアーをシャンカールとの連名で行うなど、積極的に活動を続けた。 |
| しかしツアー自体は、シャンカールのインド音楽のコーナーを中間に挟む構成や、多忙なスケジュールがもたらしたハリスンの声帯の不調などが原因で失敗に終わり、評論家の間では酷評されてしまった。 |
| 喉の異常は当時のアルバムにも顕著に現れており、レコードセールスもこれ以降下降してゆくこととなる。 |
| 同時期には「マイ・スウィート・ロード」にまつわる盗作問題で訴訟を起こされる(最終的に敗訴する)など、順風満帆に過ぎていたソロ活動はこの頃様々な不運によって精彩を欠いていた。 |
1970年代後半
| 1974年にはアルバム「ダーク・ホース」(全米4位)を発表。 |
| 1975年発売の『ジョージ・ハリスン帝国』(全米8位)を最後にEMIとの契約が満了したハリスンは、ようやくダーク・ホース・レーベルに移籍し、そこから発売される予定のアルバムの録音にとりかかる。 |
| A&Mに支払う違約金を肩代わりしてもらうことを条件にワーナー・ブラザーズと新たに契約した彼は、「新たな関係が築けてうれしい」と話し、ここから新たなスタートを切ることとなる。 |
| ここから1976年に「331/3」、1979年に「慈愛の輝き」という2枚のアルバムを発表し、それぞれ全米11、14位というまずまずのセールスを収めた。 |
| 私生活では、親友であるエリック・クラプトンと交際するようになった妻のパティ・ボイドと離婚。 |
| 仕事上で出会ったメキシコ系のアメリカ人女性オリヴィア・トリニアード・アリアス(勿論、後のオリヴィア・ハリスン)と1978年に再婚し、同年に一人息子のダーニ・ハリスン(父同様にミュージシャン)をもうけている。 |
| 1977年頃からは、音楽以外の活動にも興味を示すようになり、副業として始めた映画制作の仕事で大きな成功を収めることとなる。 |
1980年代前半
| 1980年に制作したアルバム『想いは果てなく~母なるイングランド』は「キャッチーな曲が少ない、内容が暗い」という理由からレコード会社に発売延期と収録曲の差し替えを命じられてしまう(ジョージ自身が製作したジャケットも気に入らないと要求された)。 |
| 屈辱を味わいながらもレコーディングを再開した矢先に起こったのが、1980年12月8日のジョン・レノン射殺事件である。 |
| このあまりに衝撃的な訃報が音楽業界に与えた影響は大きく、翌81年から1982年にかけてはクイーンやエルトン・ジョンなどによるレノンへの追悼歌が多数発表された。 |
| ハリスンの1981年のシングル「過ぎ去りし日々」はその代表的な例であり、この曲は全米チャートで最高2位を記録する大ヒットとなった。 |
| リンゴ・スターに提供する予定だった曲の歌詞を書き換えて完成したこの曲は、スターがドラム、ウイングス(ポール・マッカートニー夫妻とデニー・レインの3人)がコーラスで参加したことでも大きな話題を呼んだ。 |
| 翌1982年には次作『ゴーン・トロッポ』を制作・発表するが、当時の彼は音楽業界に殆ど興味を失っていたようで、アルバムの宣伝には全く力を入れなかった。 |
| 所属レコード会社のワーナーも宣伝活動には協力しなかったため、アルバムはアメリカのチャートで100位圏外という結果に終わり、その他の国ではチャートインさえできなかった。 |
1980年代後半
| 本格的な音楽活動から遠ざかっていたハリスンに変化をもたらしたのが、1986年公開のマドンナ、ショーン・ペン主演の映画『上海サプライズ』だった。 |
| 映画自体は評論家から酷評され、ペン夫妻の演技やハリスンの書いた主題歌はゴールデンラズベリー賞にノミネートされるなど、汚点ともいえる酷い代物であったものの、この作品の存在は後のハリスンの復活劇に大きな役割を果たした。 |
| ジェフを共同プロデューサーに迎えて制作されたアルバム『クラウド・ナイン』は、1987年11月に発売された。 |
| -->は1988年1月20日付のビルボードのシングル・チャートでNo.1(1988年度の年間チャートでも5位)を記録。 |
| 同年ジョージはリン、ボブ・ディラン、ロイ・オービソン、トム・ペティらと覆面バンド「トラベリング・ウィルベリーズ」を結成。 |
| 所属レコード会社が違ったため、実名を伏せ、プローモーションなどの宣伝活動を行わなかったのだが、2枚のアルバムを発表し、1stアルバム『ヴォリューム・ワン』は、1989年度のグラミー賞を受賞するなど、大きな成功を収めた。 |
1990年代~晩年
| 1989年のスター、1990年のマッカートニーに次いで、元ビートルズが3年連続で来日したことになる。 |
| 1993年より、「ビートルズ・アンソロジー」のプロジェクトが正式に始まり、マッカートニー、スターとの共同作業が行われる。 |
| ジョン・レノンの生前に残されたデモ音源から「フリー・アズ・ア・バード」「リアル・ラヴ」の2曲が正式なビートルズの新曲として1995年と1996年に相次いで発表され、各国のチャートに入るヒットとなった。 |
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1963年
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結婚してアメリカに移住した姉に会いに行った... |
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1965年
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撮影された一連のプロモーション・フィルム(... |
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