| 1886年(30歳)、ウィーンへ帰り、シャルコーから学んだ催眠によるヒステリーの治療法を一般開業医として実践に移した。 |
| 治療経験を重ねるうちに、治療技法にさまざまな改良を加え、最終的にたどりついたのが自由連想法であった。 |
| これを毎日施すことによって患者はすべてを思い出すことができるとフロイトは考え、この治療法を精神分析()と名づけた。 |
| 1895年(39歳)、フロイトは、ヒステリーの原因は幼少期に受けた性的虐待の結果であるという病因論ならびに精神病理を発表した。 |
| 今日で言う心的外傷やPTSDの概念に通じるものであるしかし、フロイトはやがて、「不安神経症」の原因として「性的虐待」を除外するようになる。 |
| なぜならば、性的虐待を受けたと訴える患者の多くが、実は性的虐待を受けていないことが分かってきたからだ。 |
| 無論、被害が皆無だったわけではなく、フロイトは少なくとも数件においては性的虐待がほぼ確実だと報告している。 |
| フロイトはしかし、他の大部分が事実に反するからといってそれを無視はせず、むしろ「なぜ」患者がそう考えるのかという側面から考察を進めた。 |
| いわゆる「客観的事実」としては誤りでも、患者にとって何かしらの「心的現実」があるという考えである。 |
| 発達心理学者E.H.エリクソンはフロイトの理論を元にして、神経症患者達が性的な側面において損なわれており、患者達が過去において例外なくその発達課題を適切にこなせていなかったことを見いだした。 |
| これに基づいて彼は、ヒステリー患者が無意識に封印した内容を、身体症状として表出するのではなく、回想し言語化して表出することができれば、症状は消失する(除反応)という治療法にたどりついた。 |
| これは当時隆盛になりつつあった物理学の「エネルギー保存の法則」をも参考にしている。 |
| この治療法はお話し療法と呼ばれた。 |
| 今日の精神医学におけるナラティブセラピーの原型と考えることができる。 |
| 自然科学者として、彼の目指す精神分析はあくまでも「科学」であった。 |
| 彼の理論の背景には、ヘルムホルツに代表される機械論的な生理学、唯物論的な科学観があった。 |
| 脳神経の働きと心の動きがすべて解明されれば、人間の無意識の存在はおろか、その働きについてもすべて実証的に説明できると彼は信じていた。 |
| しかし、彼は脳神経に考察を限っていたわけでもなかった。 |
| 当時の脳細胞の研究は一段落ついており、かわって心理学や、当時の流行病であり謎でもあったヒステリーの解明が新たな挑戦課題となっていた。 |
| 彼はその挑戦とともに、ヒステリーの解明の鍵であった「性」という領域に、乗り出していったのだったすでにシャルコーが、ヒステリーの原因を「閨房の秘密」にあると彼にほのめかしていた。 |
| 彼はギムナジウム時代に受けた啓蒙的な教育からして、終生無神論者であり、宗教もしくは宗教的なものに対して峻厳な拒否を示しつづけ、そのため後年にユングをはじめ多くの弟子たちと袂を分かつことにもなった。 |
| やがて彼の関心は心的外傷から無意識そのものへと移り、精神分析は無意識に関する科学として方向付けられた。 |
| そして、自我・エス・超自我からなる構造論と神経症論が確立した。 |
| 自身がアシュケナジーであったためか、弟子もそのほとんどがアシュケナジーであった。 |
| また当時、アシュケナジーは大学で教職を持ち、研究者となることが困難であったので、フロイトも市井の開業医として生計を立てつつ研究に勤しんだ後にフロイトは大学教授の職を手に入れた。 |
| 彼は臨床経験と自己分析を通じて洞察を深めていった。 |
| 『夢判断』を含む多くの著作はこの期間に書かれていった。 |
| フロイトは日中の大部分を患者の治療と思索にあて、決まった時間に家族で食事をとり、夜は論文の編纂にいそしんだ。 |
| 夏休みは家族とともに旅行を楽しんだという。 |