| ウェストテキサス州立大学(現ウェスト・テキサスA&M大学)卒業後、プロフットボール球団のボルティモア・コルツ(現インディアナポリス・コルツ)、サンディエゴ・チャージャーズを経て、中学校で教鞭を執った学生時に地理教師の資格を取得。 |
| その頃、旧知のドリー・ファンク・シニアから父親を通じて声がかかり、プロレスにスカウトされた(当時ハンセンは教職の収入面に不満を持っており、スカウトに快諾した)。 |
| ファンク道場ではジャンボ鶴田やボブ・バックランドらとともにトレーニングを積んだ。 |
| 1973年1月1日にプロのレスラーとしてデビュー。 |
| 1976年4月26日、マディソン・スクエア・ガーデンで当時WWWF世界ヘビー級チャンピオンであったブルーノ・サンマルチノの首を骨折させた事件(実際は後述のとおり、ハンセンがボディスラムを失敗したことによる重度の頸椎捻挫であったが、ウエスタン・ラリアットによるものとして宣伝された)で有名になった。 |
| この一件後、ハンセンはサンマルチノとの遺恨劇でWWWFのリングを賑わせるが、以降はクラッシャー(壊し屋)の烙印を押されたために対戦を嫌われ、アメリカでの活躍の機会は少なくなった。 |
| 日本初参戦は1975年9月。 |
| まだ一介の若手であったが、シリーズ最終戦は蔵前国技館でのダブル・メインを控えたセミファイナル・マッチであった(対戦相手は当時全日本のNo.3だったザ・デストロイヤー)。 |
| ジャイアント馬場はギャラを手渡す際「いい試合をしてくれた」と声を掛けたが、実際の評価は「馬力だけの不器用なレスラー」だったという。 |
| サンマルチノ戦後の1977年新春より新日本プロレスと契約し、同年秋の2度目(来日は3度目)の参加からはシリーズエースとしてメイン級の働きをするようになった。 |
| 1979年のMSGシリーズでは、アンドレ・ザ・ジャイアントを抑えてアントニオ猪木と優勝戦を闘い、1980年2月にはウィリー・ウィリアムスが観戦する面前で猪木からNWFヘビー級王座を奪取した。 |
| 以後も猪木のライバルとして成長し、NWF王座をめぐる名勝負を展開した。 |
| 「0.X秒差の逆ラリアート」などのドラマを生み、それまでのメイン・イベンターであったタイガー・ジェット・シンを抜いて新日のトップ外国人レスラーとなった。 |
| 1981年9月には田園コロシアムにおいて、アンドレと伝説として語り継がれる名勝負を産んだ。 |
| またハルク・ホーガンとの強力タッグも話題を集めた。 |
| その圧倒的な強さは当時の実況アナウンサー古舘伊知郎により、「不沈艦」「ブレーキの壊れたダンプカー」などと形容された。 |
| 当時のアメリカではジョージア州を主戦場に活躍する一方、1981年には再びニューヨークのWWFに参戦。 |
| MSG定期戦において旧友ボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に3か月連続で挑戦している(3度目の挑戦となる同年4月6日の定期戦では、スチール・ケージ・マッチによる決着戦が行われた)。 |
| 1981年初夏にテリー・ファンクの仲介によってテキサス州ダラスで馬場と会談を持ち、新日本プロレスから全日本プロレスへの移籍を確約、同年12月の世界最強タッグ決定リーグ戦の最終戦にブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカ組のセコンドとして全日本プロレスに登場したなお、この試合中に場外でテリーへラリアットを食らわせKOさせたことで会場は騒然となり、試合後もザ・ファンクスに対し暴行を加え続けたため馬場が駆けつけた。 |
| この時に馬場が放ったチョップでハンセンが流血し、普段よりも数倍速く威力もあるものと判り、「馬場がキレた数少ない場面」として知られている。 |
| 12月初旬の段階で馬場夫妻とファンクス以外にはごく限られた関係者しか知らされておらず、盟友ブロディに対してもハンセン本人が直接状況説明をした。 |
| そのためブロディは、長くファンクスに対し不信感を持つこととなった。 |
| この試合でブロディのテーマ曲「移民の歌」が流れる中、ブロディ、スヌーカと共に現れたハンセンを見て日本テレビの解説を担当した山田隆(東京スポーツ)は「ハンセンですよ!!」と絶叫した。 |
| 全日本プロレスへの公式移籍後は馬場1982年2月4日の初の直接対決はプロレス大賞年間最高試合賞を受賞。 |
| や鶴田、天龍源一郎と闘うが、鶴田との試合は旧知の間柄であることもあって、噛み合わない試合が多かった。 |
| また、ブロディと組んだミラクルパワーコンビは圧倒的な強さを誇ったこのコンビは日本マットでピンフォール負けしたことが一度もない。 |
| ミラクルパワーコンビと並行してロン・バスとのコンビ「ラリアット・ライダース」を結成し、インターナショナル・タッグ王座も獲得している1983年4月12日、愛媛。 |
| ブロディとのコンビ解消後はテッド・デビアス、テリー・ゴディらとタッグを結成し、PWF世界タッグ王座、世界タッグ王座を数回獲得、最強タッグでも優勝を果たした。 |
| また天龍とのコンビでも世界タッグ王座を獲得したほか、史上初の最強タッグ全勝優勝を達成した。 |
| 本国では1985年12月29日、ニュージャージー州イーストラザフォードでリック・マーテルを破りAWA世界ヘビー級王座を奪取し、米国での地位も確かなものとした。 |
| またAWA王座在位中の1986年3月29日には、自身の保持するAWA世界ヘビー級・PWFヘビー級両王座と、インターナショナル・ヘビー級王座を保持する鶴田との間で、日本初となるトリプル・タイトルマッチが実現した。 |
| 1990年2月10日の新日本プロレス主催・東京ドーム大会では、目玉の一つとなった「新日vs全日」の一環として、当時IWGPヘビー級チャンピオンであったベイダーに挑戦。 |
| 両者リングアウトとなるも、ド迫力の戦いは語り草となった。 |
| 4月13日の日米レスリングサミットでは、メインイベントでハルク・ホーガンと戦い敗れる。 |
| 以後6月まで、レンタルという形で再び新日本プロレスのリングに立ち、長州力とタッグを組んだほか、武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也の闘魂三銃士とも対戦している(武藤の場合は、グレート・ムタとしてWCWでタッグを組んだこともあった)。 |
| 天龍、鶴田が去った後も、プロレス四天王の壁として強さを見せ続けた。 |
| チャンピオン・カーニバルでは1992年と1993年で2連覇を達成した2度とも決勝の相手は三沢光晴。 |
| なお、1992年は全勝優勝。 |
| 1990年代後半は衰えたと言われながらも、1998年(ベイダーとのコンビ)・1999年(田上明とのコンビ)と、世界最強タッグ決定リーグ戦で2年連続準優勝を果たし、不沈艦健在を見せつけた。 |
| 両膝の故障が元で2000年11月19日に引退を表明。 |
| 2001年1月28日、東京ドームでのジャイアント馬場三回忌追悼興行で引退セレモニーが行われた。 |
| 通常、全日本では選手が亡くなった時にしか10カウントゴングは鳴らさないが、ハンセンの功績を称えセレモニー中に異例の10カウント・ゴングが鳴らされた。 |
| 新日本・全日本の各選手が参列する引退セレモニーもまた異例のことであった。 |
| 引退後はPWF会長を2007年7月15日まで務め(後任は衆議院議員の馳浩)、地元の少年たちにスポーツを教えつつ、悠々自適の人生を送っているという。 |
| 2006年夏、2人の息子が日米親善高校野球大会に出場するのに伴い来日。 |
| 遊撃手の兄、外野手の弟ともに右投げ両打ちであり、走攻守揃ったオールラウンダーである。 |
| ハンセン自身が指導して両打ちを教えた。 |
| 2008年にはIGFにウィットネスとしてドリー・ファンク・ジュニアと共に来日した。 |
| 2009年6月、2006年に来日した息子シェーバー・ハンセンがアメリカMLBのシアトル・マリナーズにドラフト6位指名され喜ぶが、数日後、三沢光晴の訃報を聞き「嬉しいことが数日前にあったのに、その直後になんて悲しいことが起こったんだ」と三沢の死を悲しんだ。 |
| 2010年3月27日には、アリゾナ州フェニックスにて開催されたWWE殿堂の顕彰セレモニーにおいて、殿堂入りを果たしたアントニオ猪木のインダクター(プレゼンター)を務めた。 |