| 1821年、メキシコのスペインからの独立は、オースティンの入植計画に混乱をもたらした。 |
| 皇帝アグスティン・デ・イトゥルビデによる臨時政府議会は、移住(入国)者を規制する新政策に基づきスペイン領時代の土地払い下げの再認可を拒否するとマルティネス知事を通じて通告してきた。 |
| オースティンは父親の受けた認可の再承認を得るべく議会の説得工作のためメキシコシティーに出向き、1823年1月3日に何とかスペイン人皇帝による法律への署名を得た。 |
| この法律は一家族あたり1リーグ(4,428エーカー、放牧用)プラス1レーバー(177エーカー、穀物栽培用)の合計4,605エーカーの土地の耕作を認めるものであった。 |
| また、移民を促進するため、移民に関する斡旋代理人を指定し、これをエンプレサリオ(Empressario)と呼ぶことも定められた。 |
| オースティン自身もエンプレサリオとして67,000エーカーの土地を彼が誘致した200家族の報酬として得た。 |
| 法律によれば、移民者は政府に対しては何らの支払いも要求されていなかった。 |
| このため移民者の中にはオースティンの権利としての1エーカー当たり12.5セントの手数料の支払いを拒否するものも現れ始めた。 |
| メキシコ皇帝アグスティンが1823年3月に退位したとき、各種の法律は再び無効となった。 |
| 1823年4月、オースティンはテキサスに300家族を受け入れる契約が取れるよう働きかけた。 |
| 1824年にメキシコ議会は各州に裁量権を与え、ある条件下で公有地の公開と殖民を許す新しい移民法を採決した。 |
| 1825年にはコアウイラ・イ・テハス州議会はイトゥルビデ時代と同様な法律を可決した。 |
| この法律はエンプレサリオ制度を継承し、既婚男性一人につき4,428エーカー(1リーグ)を与え、植民者は6年以内に国へ30ドルを支払わなければならないというものだった。 |
| 1825年後半までに、オースティンは最初の300家族の入植を完了させた。 |
| 彼らは今日、「テキサスの”OldThreeHundred”」と呼ばれている。 |
| 更にオースティンは1825年から1829年にかけて900家族の入植契約を結んだ。 |
| 彼は入植者の中で民間と軍隊の両方に顔が利いたが、早い時期からアメリカの法体系を持ち込み、1827年11月にはコアウィラ・イ・テハス州憲法にそれを盛り込んだ。 |
| また、入植者保護のため、非正式な小規模武装集団を組織したが、これが後のテキサス・レンジャーである。 |
| 彼の希望にもかかわらず、オースティンはその努力の割には僅かなお金しか稼いでいなかった。 |
| 入植者達は彼のエンプレサリオとしての仕事に対する報酬を払う気はなく、得た金銭は政府及び他の公共事業のプロセスに使われてしまった。 |
| この頃、オースティンはテキサスにフリーメーソン団を設立しようとしていた。 |
| メキシコの教養のある階級ではフリーメーソンの考え方が確実に定着していた。 |
| すなわちブルボン家に忠実な上流階級の間では保守派が秩序を完全にコントロールしていた。 |
| 1827年まで、メキシコシティーに住むアメリカ人がそれまでのヨーロッパ式スコットランド儀礼にかわり、よりリベラルなアメリカ式のヨーク儀礼を広めた。 |
| 1828年2月11日、オースティンは役員の選挙と新しいグランドロッジをメキシコシティーに設立する許可を得るための請願を行うためにサンフェリペの集会に参加した。 |
| オースティンはそこで新しいロッジの“WorshipfulMaster”に選出された。 |
| 請願書はマタモロスに届き、さらにメキシコシティーに回送されるはずであったが何の音沙汰もなかった。 |
| 1828年まで、メキシコ支配階層はテキサスのリベラルな風潮が独立運動へ繋がるのではという心配をしていた。 |
| アメリカのフリーメーソンの政治哲学に完全に気が付き1828年10月25日にはフリーメーソン団を非合法化した。 |
| 彼は貿易にも熱心で、メキシコ当局者の歓心を買うために、アメリカ人エンプレサリオであるヘイデン・エドワーズ(HadenEdwards)の起こしたフレドニアン暴動(FredonianRebellion)の鎮圧に手を貸すなどした。 |
| しかし、1832年までに11,000人を超える入植者がオースティンの言うことを聞かなくなり、メキシコ政府も、植民地を成長させ、彼らからこの州を買い取ろうとするアメリカ合衆国の努力に対し協力的ではなくなってきた。 |
| メキシコ政府は1830年4月までにアメリカからの移民をストップさせようとしたが、オースティンは再びその手腕を生かして彼の植民地だけは例外とさせることに成功した。 |