| 前回と前々回のスルタン死去の際には熾烈な後継者争いがあり、後継者になれなかった王子やその子らがほとんど全員処刑されるといった経緯があったが、セリム1世死去の際にはそうした争いはなく、スムーズにスレイマン1世が即位した。 |
| スレイマンの他の男児の記録はないことから、スレイマンが唯一の後継者候補だった可能性が示唆される。 |
| 若くして東ヨーロッパから中東にまたがる帝国の支配者となったスレイマンは、即位してまもなく1521年にハンガリー王国からベオグラード、1522年に聖ヨハネ騎士団からロードス島を奪うなど活発な外征を行った。 |
| この2ヶ所は曽祖父の「征服王」メフメト2世が最後まで征服できなかったところであり、これにより帝国内におけるスレイマンの支持、評価は著しく向上した。 |
| ロードス島征服の直後に、スルタン即位前からの寵臣イブラヒム・パシャ(en)を大宰相に抜擢しているが、ベオグラード、ロードス島ともに、若いスルタンの実力を国内向けの演出する効果を狙ったイブラヒム・パシャの進言によるものとも言われている。 |
| 1526年には、モハーチの戦いでハンガリー王ラヨシュ2世を破ってハンガリー中央部を平定し、ハプスブルク家のオーストリア大公国と国境を接した。 |
| スレイマンはラヨシュの戦死により断絶したハンガリー王位に、オスマン帝国に服属したトランシルヴァニア公サポヤイ・ヤーノシュを推し、ハンガリー王位継承を宣言したハプスブルク家出身の神聖ローマ皇帝カール5世と対立すると、1529年に第一次ウィーン包囲を敢行し、ウィーン攻略には失敗するもののヨーロッパの奥深くにまで侵攻して西欧の人々に強い衝撃を与えた。 |
| 1534年にはイランのサファヴィー朝と戦い、バグダードを占領してイラクとアゼルバイジャンの大半を支配下に置き、東方の国境を安定させた。 |
| 海軍の育成にも力を注ぎ、1533年にアルジェを本拠地とする海賊勢力のバルバロス・ハイレディン=パシャが帰順すると彼を海軍提督とした。 |
| 1538年のプレヴェザの海戦ではスペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の連合艦隊を破り地中海の制海権を握った。 |
| また、ハプスブルク家に対抗するためフランス国王フランソワ1世と同盟を結び、1543年には、オスマン艦隊とフランス艦隊が共同でニースを攻略した。 |
| さらに、ハプスブルク家と対立していたドイツのルター派をフランソワを通じて間接的に援助したとも言われる。 |
| フランソワとその後継者アンリ2世がルター派諸侯に送った資金の大部分は、オスマン帝国から供出されていたようである。 |
| のちにスレイマンは、ハプスブルク家の支配下であったネーデルラントのルター派に対しても援助を申し出た。 |
| スレイマンは哲学などの学問や芸術を好み、「ムヒッビー(恋する者)」の筆名で詩作を行う詩人でもあった。 |
| 建築の分野ではミマール・スィナンを登用し、多くの優れた建物をつくらせた。 |
| 軍事的に成功が続き、オスマン帝国がヨーロッパ諸国・イスラム諸国を圧倒したスレイマン1世の治世は栄光の時代として記憶され、「帝国の最盛期」と言われる。 |
| またイェニチェリなどの精強な軍事組織や中央集権的な行政制度が、スレイマン1世の時代に完成されるとともに、もっとも円滑に機能したと言われ、のちにオスマン帝国が軍事的な衰退を続ける中で、「栄光のスレイマン1世の時代に立ち返ろう」という主張が繰り返されることになる。 |
| その一方で、長きに渡った治世の後半には政争が相次ぎ、16世紀末から激化する帝国の混乱の始まりが見られた。 |
| とくにスレイマンは他の后妾を差し置いて、後宮の女奴隷であったヒュッレム・スルタン(ロクセラーナ)を寵愛し、極めて異例なことに、彼女を奴隷の身分から解放し正式な皇后として迎えている。 |
| このことから、ヒュッレムの子と異腹の子たち、さらにヒュッレムの子どうしの間でスレイマンの後継者を巡る激しい争いが行われ、後宮の女性が政治に容喙する端緒を作ったと言われる。 |
| また、しばしばオスマン帝国の軍事的衰退の原因とされるイェニチェリの急速な拡大などの軍事組織の構造変化も、スレイマンの時代に始まったものである。 |
| このほか、フランスと同盟を結んだ際にフランス人に対する領事裁判権や租税免除などの恩恵的な特権を与えた(イギリスやオランダにも適用された)ことも、後にオスマン帝国を苦しめる要因となる。 |
| 加えて皇帝自らが政務を行うことが少なくなり、実権は大宰相の手へと移っていった。 |
| 1565年に大宰相となったソコルル・メフメト・パシャは名宰相と誉れ高く、スレイマンの築いた大帝国を維持、拡大させている。 |
| 軍事的、政治的弛緩はスレイマンの晩年に始まっていたものの、大宰相による政治と優れた官僚制度によって帝国の衰退は、なお1世紀の後のこととなる。 |
| 最愛の妻ヒュッレムの死後、反乱を起こした皇子バヤズィトを1561年に処刑するなど家庭的に暗い晩年を送ったスレイマンは、1566年にハンガリー遠征の陣中で没した。 |
| 遺骸はイスタンブルに運ばれて、自身がスィナンに建造させたスレイマニエ・モスクの墓地に葬られた。 |
| 次のスルタンには、政争の結果唯一生き残った皇子セリム2世が即位した。 |