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プロフィール
- セルゲイ・プロコフィエフとは
- 作風
- ピアニストとしての活動
- 小説家プロコフィエフ
- 性格と政治的態度
- 誕生と幼年期(1891年 - 1904年)
- 音楽院時代(1904年 - 1914年)
- 革命前後(1914年 - 1917年)
- 亡命と日本滞在(1918年)
- 遍歴:アメリカとパリ(1918年 - 1932年)
- 第二次世界大戦(1941年 - 1945年)
- 戦争終了後の3年間(1945年 - 1947年)
- 晩年(1948年 - 1953年)
- 交響曲
- 歌劇
- 映画音楽
- その他の管弦楽曲
- 関連サイト
セルゲイ・セルゲーエヴィチ・プロコフィエフ(シェルギェーイ・シェルギェーイェヴィチュ・プラコーフィイェフ;ラテン文字 転写の例:SergeiSergeevichProkofiev、1891年4月23日-1953年3月5日)は、ロシアの作曲家、ピアニスト、指揮者。現在のウクライナ、ドネツィク州(当時はロシア帝国領)ソンツォフカ(;ラテン文字 転写の例:Sontsovka)生まれのロシア人。帝政期のロシアに生を受け、サンクトペテルブルク音楽院で作曲・ピアノを学ぶ。革命後、シベリア・日本を経由してアメリカへ5回渡り、さらにパリに居を移す。20年近い海外生活の後、1936年に社会主義のソヴィエトへ帰国。作風は ...
作風
| 初期には急進的な作風を取る。 |
| 長期の海外生活中の作品は、次第に新古典主義的で晦渋なものとなったが、ソヴィエト連邦への帰国後は社会主義リアリズムの路線に沿った作風へ転換し、現代的感覚と豊かな叙情性を併せ持つ独自の境地へ到り、多くの傑作を生んだ。 |
| 快活なリズム感、斬新な管弦楽法は、ティシチェンコやシチェドリンなど後代のロシアの作曲家に影響を与えた。 |
| 理論的に音楽を構築するタイプの作曲家ではなく、シェーンベルク、ストラヴィンスキー、バルトークのように音楽語法の発展に寄与した面は少ない。 |
| シチェドリンが“作曲の極意とは何ですか?”とプロコフィエフに尋ねたところ、こう答えたと言う…。 |
| “如何に聴衆を驚かすかという事だ”。 |
ピアニストとしての活動
| アメリカへ渡る途中、日本でも帝国劇場などで3回のコンサートを行っている。 |
| アメリカ時代はピアニストとしての活動が主であった。 |
| しかし、その多くは自作曲の演奏である。 |
小説家プロコフィエフ
| プロコフィエフは海外にいた1918年ごろにいくつかの短編小説を書いている。 |
| 2003年にロシアで刊行され彼の新たな才能が知られるようになった。 |
| 作品の多くが当時のモダニズム文学の流れを汲むもので、「エッフェル塔が歩き出す」といった奇想天外な内容である。 |
| しかし彼の「作家活動」は3年程度で終わり音楽活動に専念することになる。 |
| 日本語の翻訳は2010年に刊行された。 |
性格と政治的態度
| 来日時山田耕筰のフォローにもかかわらず、わがままな言動で当時の記者たちを随分と混迷させたことが、記録からわかっている。 |
| そこには「尊敬するべき現代作曲家などおらん」、「クロード・ドビュッシーはかなりインチキ」、「リヒャルト・シュトラウスはまぁ可」などの言動、あわせてニコライ・メトネルの作品を練習したことなどが残っており、必ずしもアヴァンギャルドな作曲家を無条件称揚していたわけではない(すでに穏健化が始まっていた)ことが推察できる。 |
| 特に注目されるのは、楽壇政治に耐えるために共産党員ミラ・メンデリソンに媚び、妻リナ・リュベラLinaLlubera(本名カロリナ・コディナ)を「売った」点については、多くのプロコフィエフ伝記から抹消されていた(親ソ連であった日本では当然であった)。 |
| その事実がようやく開示されたのは、エル・バシャによるプロコフィエフ初期ピアノ作品集がリリースされ、その作品集に対する栄誉を、亡命を余儀なくされた未亡人の彼女がエル・バシャに与えた辺りからである。 |
| この直後に彼女は亡くなっている。 |
誕生と幼年期(1891年 - 1904年)
| 1891年4月23日、農業技術者で貴族の農場の管理人をしていた父セルゲイ・アレクセエヴィチ・プロコフィエフ(1846年-1910年)と母マリヤ・グリゴリエヴナ・プロコフィエヴァ(旧姓ジトコヴァ、1855年-1924年)の息子として、ウクライナ地方南部のエカテリノスラフ県バフムート郡ソンツォフカ村に生まれた。 |
| プロコフィエフ家には、はじめ2人の娘が生まれたが、2人とも幼くして世を去ったので、3番目の子供セルゲイは特別注意を払って育てられた。 |
| 1896年(5歳)最初の作曲。 |
| 母親が譜面に起こしたヘ長調のピアノの小曲で「インドのギャロップ」と名づけられた。 |
| 1898年(7歳)4手ピアノのためのハ長調の行進曲を作曲。 |
| 1900年(9歳)両親に連れられ、モスクワでオペラ「ファウスト」、「イーゴリ公」、バレエ「眠りの森の美女」を見る。 |
| 最初のオペラ「巨人」を作曲。 |
| 1901年(10歳)第2のオペラ「無人島で」の作曲を始めるが、序曲と第1幕までしかできなかった。 |
| 1902年(11歳)父の友人の甥ポメランツェフの尽力で、母と共にタネーエフを訪問。 |
| タネーエフの勧めでポメランツェフのレッスンを受けるが退屈きわまりないものであった。 |
| ソンツォフカに帰るとタネーエフの紹介でグリエールに師事。 |
| 夏の終わる頃、ト長調の4楽章の交響曲を作曲。 |
| 冬に2度目のタネーエフ訪問をし、グリエールと2人で交響曲を連弾するが、和声が単純すぎると評され、いっそう和声の勉強に集中するようになった。 |
| 1903年(12歳)グリエールの指導のもとプーシキンによる本格的なオペラ「ペスト流行期の酒宴」を作曲。 |
| 3度目のタネーエフ訪問。 |
音楽院時代(1904年 - 1914年)
| 1904年(13歳)母に連れられペテルブルクのグラズノフを訪問。 |
| 女流詩人マリーヤ・キルシュテットの勧めにより、フーケの詩によるオペラ「ウンディーネ(水の精)」の作曲を開始、第1幕を書く。 |
| サンクトペテルブルク音楽院(Санкт-Петербургскаяконсерватория;ラテン文字転写の例:St.PetersburgConservatory)に入学。 |
| リャードフの和声学クラスで学び、ボリス・アサフィエフと親交を結ぶ。 |
| 1905年(14歳)音楽院当局への抗議文に署名。 |
| 特別ピアノ・クラスに移りヴィンクレル(1865-1935)にピアノを学ぶ。 |
| オペラ「ウンディーネ」の第2幕を書く。 |
| 1906年(15歳)リャードフの対位法クラスとリムスキー=コルサコフの管弦楽法クラスで学ぶ。 |
| ミャスコフスキーとヴァイオリン・ソナタを共作し、プロコフィエフは第1楽章を書いた。 |
| 1907年(16歳)オペラ「ウンディーネ」の第3幕と第4幕を書き、オペラを完成させる。 |
| 1908年(17歳)チェルノフに連れられ、音楽サークル「現代音楽の夕べ」に参加する。 |
| ホ短調の3楽章の交響曲を作曲、グラズノフの斡旋でワルリヒ指揮の宮廷オーケストラの非公開リハーサルで演奏される。 |
| ヴィートル(1863年-1949年)に楽式を学ぶ。 |
| 12月31日に「現代音楽の夕べ」で自作7曲(『伝説』『雪』『思い出』『躍動』『祈り』『絶望』『悪魔的暗示』)で初の公開演奏。 |
| 1909年(18歳)音楽院の作曲科の課程を修了。 |
| ミャスコフスキーらに音楽院をやめずにピアノと指揮のクラスに入るように説得される。 |
| ニコライ・チェレプニンに指揮と作曲を学び、エシポワ夫人にピアノを学ぶ。 |
| ピアノ・ソナタ第1番Op.1を作曲。 |
| 1910年(19歳)父が急死。 |
| 1912年(21歳)「人民の家」ホールで作曲者のピアノ、サラジェフの指揮でピアノ協奏曲第1番が初演される。 |
| 1913年(22歳)パーヴロフスクの夏の演奏会で作曲者のピアノ、アスラーノフの指揮でピアノ協奏曲第2番(初版)が初演される。 |
| 曲はモダニズムに満ちており、賛否両論を巻き起こした。 |
| 1914年(23歳)ピアノ科と指揮科を終了。 |
| 音楽院卒業試験でバッハのフーガと自作のピアノ協奏曲第1番を弾き、アントン・ルビンシテイン賞(ラテン文字転写の例:AntonRubinsteinprize)を得る。 |
革命前後(1914年 - 1917年)
| 1914年(23歳)ヌヴェルと共にロンドン旅行に行き、ヌヴェルが催した招待会でロシア第一の興行家セルゲイ・ディアギレフ(セルゲイ・ヂャギレフ)と会う。 |
| ディアギレフにピアノ協奏曲第2番を弾いて聞かせ、その才能に驚嘆したディアギレフから一緒に仕事をしようと提案される。 |
| プロコフィエフはドストエフスキーの「賭博者」のオペラ化を申し出るが、オペラは流行遅れだと反対される。 |
| 話し合った結果、ロシアの昔話をテーマにしたバレエを作ることになり、前衛的詩人ゴロデツキーと協力してスキタイ人の物語を題材にしたバレエ「アラとロリー」の台本を作り上げ、作曲に着手する。 |
| その合間に「アラとロリー」とは全く対照的な叙情性あふれる歌曲「みにくいあひるの子」を作曲。 |
| 1915年(24歳)イタリアでディアギレフと再会する。 |
| ディアギレフに「アラとロリー」のスケッチを聞かせるが「筋は作為が多く、音楽はチェレプニン風で面白くない、もう1つ新しいバレエを書くべきだ」と上演を拒まれる。 |
| ディアギレフの家でストラヴィンスキーと会い、ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」を連弾する。 |
| ディアギレフが「アラとロリー」に代わる新しい題材をアファナシエフの「ロシア民話集」の中から選び、プロコフィエフに新しいバレエの作曲を注文する。 |
| 帰国後、早速作曲に着手してバレエ「道化師」を完成させる。 |
| 「アラとロリー」を改作して「スキタイ組曲」を完成させる。 |
| アルバート・コーツにオペラ「賭博者」を書くようにすすめられ、作曲に着手する。 |
| 1917年(26歳)ロシアが革命の嵐に包まれる中、祖国を離れることを考え始める。 |
亡命と日本滞在(1918年)
| 1918年(27歳)「古典交響曲」の初演を果たした直後、プロコフィエフはアメリカへの亡命を決意した。 |
| 教育人民委員アナトリー・ルナチャルスキー(1875-1933)は、「君は音楽の革命家だ。 |
| 5月7日、シベリア鉄道にてモスクワを発つ。 |
| 31日、敦賀港に上陸し、6月1日、東京に到着。 |
| 冬シーズン中の南米行きの船便を探すが出航した直後で、次便ではシーズン終了後になることから、8月になるまで日本に滞在してから北米へ向かうことにする。 |
| 12〜18日、京都市に滞在し、琵琶湖疏水、祇園などを散策。 |
| 29日に東京に戻り、以後離日まで東京、横浜周辺に滞在するが、7月19〜21日には軽井沢を、28日には箱根を訪れている。 |
遍歴:アメリカとパリ(1918年 - 1932年)
| 1918年(27歳)-1922年(31歳)主にアメリカを拠点として、作曲家、ピアニストとして活躍する。 |
[[第二次世界大戦]](1941年 - 1945年)
| ドイツ軍の侵入により、他の芸術家らと共に1941年8月にモスクワからナリチク(カバルダ・バルカル共和国)へ疎開、さらに戦況の拡大により11月末にトビリシ(グルジア共和国)へ移動。 |
| 1942年5月、映画監督セルゲイ・エイゼンシュテインとの「イワン雷帝」の仕事のため、アルマトゥ(カザフスタン共和国)へ移動。 |
| 1945年(54歳)1月13日、交響曲第5番初演(この演奏が作曲者の最後の指揮)。 |
戦争終了後の3年間(1945年 - 1947年)
| 交響曲第5番、ピアノ・ソナタ第8番、「イワン雷帝」第1部、バレエ「シンデレラ」にスターリン賞が贈られる。 |
| 1947年(56歳)交響曲第6番完成、ムラヴィンスキーの指揮で初演される。 |
晩年(1948年 - 1953年)
| 1952年(61歳)チェロ協奏曲第2番がロストロポーヴィチの独奏とリヒテルの指揮によってモスクワで初演される(初演後さらに改訂を加え、『チェロと管弦楽のための交響的協奏曲』に題名を変更した)。 |
[[交響曲]]
| 交響曲第4番ハ長調op.47(第1版:1930年)、op.112(第2版:1947年)。 |
歌劇
| 「戦争と平和」op.91(第1版:1943年、第2版:1946年、第3版:1947年、第4版:1950年、第5版:1952年)。 |
映画音楽
| 「イワン雷帝」(第1部、第2部)op.116(監督:エイゼンシュテイン)(1945年)。 |
その他の管弦楽曲
| シンフォニエッタイ長調op.5(第1版:1909年、第2版:1914年)、op.48(第3版:1929年)。 |
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