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プロフィール
- ダグラス・マッカーサーとは
- 生い立ち
- 陸軍入隊
- 第一次世界大戦
- 陸軍参謀総長
- フィリピン生活
- 現役復帰
- フィリピン撤退
- フィリピン反攻
- GHQ最高司令官
- 大統領選
- 北朝鮮による奇襲攻撃
- 更迭
- 引退
- 「目玉焼き事件」
- 「12歳」発言
- 関連サイト
ダグラス・マッカーサー(DouglasMacArthur、1880年1月26日-1964年4月5日)は、アメリカ陸軍の将軍(元帥)で、GHQ最高司令官であり、名誉 勲章の受章者である。__TOC__
生い立ち
| 1880年、軍人である父の任地であったアーカンソー州リトルロックの兵営内の宿舎で生まれ、基地内で育った。 |
| 父のアーサー・マッカーサー・ジュニア中将は南北戦争の退役軍人であり、名誉勲章を受章している。 |
| フィリピンでは初代軍政総督も勤めた人物であり、ダグラスは親子二代でフィリピンに縁があった。 |
| 母のメアリー・ピンクニー・ハーディ・マッカーサーはヴァージニア州ノーフォーク生まれである。 |
| 兄のアーサーはアメリカ海軍兵学校に入学し、海軍大尉として1923年に死亡。 |
| 弟マルコムは1883年に死亡。 |
| 甥のダグラス・マッカーサー2世は在日本アメリカ合衆国大使となる。 |
| フランクリン・ルーズベルト、ウィンストン・チャーチルらとは遠戚関係にある。 |
| これは祖父のアーサー・マッカーサー卿が元々はイギリス貴族からの移民であり、祖父はサーの称号を持っており、マッカーサー家はイギリス貴族の血筋であるためである。 |
| 幼少期は、母によってフランスの風習に倣い女子の格好をさせられていた。 |
| このことの人格形成への悪影響を危惧した父によって陸軍士官学校に入学させられることとなる。 |
陸軍入隊
| 1899年にウェストポイントアメリカ陸軍士官学校にトップ入学し、1903年に陸軍少尉で卒業した。 |
| この時期、マッカーサーの母は学校の近くのホテルに移り住んでいた。 |
| その成績はアメリカ陸軍士官学校史上抜群で、ダグラス以上の成績で卒業した者はこれまで二名しかいない(ロバート・リーがそのうちの一人である)。 |
| 卒業後、アメリカ陸軍の工兵隊少尉としてアメリカの植民地であったフィリピンに配属された。 |
| 彼の長いフィリピン生活の始まりであった。 |
| 1905年に父が駐日アメリカ合衆国大使館付き武官となったため、ダグラスも副官として日本の東京で勤務した。 |
第一次世界大戦
| レインボー師団司令部で。 |
| その後に陸軍省に戻り、陸軍長官副官・広報班長という要職についた。 |
| 1917年4月にアメリカが第一次世界大戦に参戦することが決まった際、マッカーサーはウィルソン大統領に「欧州に送り込む最初の師団は全州の州民から徴募して創設した師団にしたい」と提案した。 |
| 「アメリカ人は一丸となって戦いぬく」という姿勢を示すことでアメリカ国民の戦意を鼓舞するためであった。 |
| ウィルソン大統領はマッカーサーの提案を採用し、各州の州兵からなる第42師団を立ち上げた。 |
| マッカーサーはウィルソン大統領に「虹のように様々なカラー(気風)を持った各州住民が、大西洋にかかる虹のように戦場に向かうのです」と説明し、これに感銘を受けたウィルソン大統領は第42師団に「レインボー師団」の名前を与えた。 |
| マッカーサーは第42師団「レインボー師団」の参謀長・旅団長に就任した。 |
| 同師団は1918年2月に西部戦線に動員され、アメリカ軍で第一次世界大戦の実戦に参加した最初の部隊の一つとなった。 |
| マッカーサーは雨のような銃弾にもひるまず、突撃隊を率いて果敢に敵の陣地を強襲した。 |
| 戦場において二回負傷し、外国の勲章も含めて15個の勲章を受章した。 |
| 戦後、最年少で少将となる栄進を果たし、士官学校の校長に就いた。 |
| 1928年のアムステルダムオリンピックではアメリカ選手団長となったが、アムステルダムで新聞記者に囲まれた彼は「我々は勝つためにやって来た」と答えた。 |
陸軍参謀総長
| 1930年、アメリカ陸軍最年少で参謀総長に就任した。 |
| このポストは大将職であるため、少将から中将を経ずに、一時的に大将に昇進した。 |
| 1933年から副官には、後の大統領ドワイト・D・アイゼンハワーが付いた。 |
| 1932年に、退役軍人の団体が恩給前払いを求めてワシントンD.C.に居座った事件(ボーナスアーミー)で、陸軍による武力排除が行われた。 |
| これは、「退役軍人たちは、共産党の支援を受けてデモを起こしたのではないか」と疑念を抱いた政府が、マッカーサーの計画案を許可して行われたものである。 |
| マッカーサー自身も共産主義を徹底的に嫌っていた。 |
| フランクリン・ルーズベルト大統領は不況対策と称して軍事予算削減の方針であったが、マッカーサーは「共産主義者の陰謀である」と考え、大統領をあからさまに批判した事で大統領の怒りを買った。 |
フィリピン生活
| 1935年に参謀総長を退任して少将の階級に戻り、フィリピン軍の軍事顧問に就任した。 |
| アメリカは自国の植民地であるフィリピンを1946年に独立させることを決定した為、フィリピン国民による軍が必要であった。 |
| 初代大統領にはマヌエル・ケソンが予定されていたが、ケソンはマッカーサーの友人であり、軍事顧問の依頼はケソンによるものだった。 |
| マッカーサーがアメリカ陸軍でする仕事はほとんど無くなり、ケソンの求めに応えてフィリピンへ赴いた。 |
| そこで、未来のフィリピン大統領から「フィリピン軍元帥」の称号を与えられたが、この称号はマッカーサーのために特に設けられたものだった。 |
| なおこの頃もアイゼンハワーはマッカーサーの副官を務めていた。 |
| マッカーサーはフィリピンの軍事顧問として在任している間、現地の最高級ホテルで、ケソンがオーナーとなっていたマニラ・ホテルのスイート・ルームを住居として要求し、高等弁務官を兼任して高額の報酬を得ると共に、フィリピン財界の主要メンバーとなった。 |
| また、アメリカ資本の在フィリピン企業に投資を行い、多額の利益を得ていた。 |
| また1936年1月17日にマニラでアメリカ系フリーメイソンに加盟、600名のマスターが参加したという。 |
| 3月13日には第14階級(薔薇十字高級階級結社)に異例昇進した『歴史読本臨時増刊世界謎の秘密結社』1986年9月掲載79ページ犬塚きよ子「フリーメーソンの全貌占領政策」)から。 |
| 1937年4月にケソンに伴われて、日本を経て一度帰国した。 |
| ここで2度目の結婚をして再度フィリピンを訪れ、それ以後は本土へ戻らなかった。 |
| 1937年12月にアメリカ陸軍を退役。 |
| 後年、アメリカ陸軍に復帰してからもフィリピン軍元帥の制帽を着用し続けた事はよく知られている。 |
現役復帰
| 1941年7月にルーズベルト大統領の要請を受け、中将として現役に復帰(26日付で少将として召集、翌27日付で中将に昇進)してフィリピン駐屯のアメリカ極東軍司令官となり、アメリカが対日戦に突入後の12月18日付で大将に昇進した。 |
| ルーズベルトはマッカーサーを嫌っていたが、当時アメリカにはマッカーサーより東南アジアに詳しく、優秀な人材はいなかった。 |
| ルーズベルトはマッカーサーを中将で復帰させたが、マッカーサーは大変不満であった。 |
| 一度は大将に就いていたし、自分は中将なのに、同じくフィリピンを本拠地とする海軍のアジア艦隊司令長官で、知り合いでもあったトーマス・ハートが大将なのも気に入らなかったアジア艦隊のトップが大将なのは、上海などで砲艦外交をする上で仕事をやりやすくするためという理由があった。 |
| 中将になってからも「Smallfleet,BigAdmiral(=小さな艦隊のくせに海軍大将)」と、相変わらずハートやアジア艦隊を揶揄していたマッカーサーがウエストポイント校長時代、アナポリス校長はハートであった。 |
フィリピン撤退
| 12月8日に、日本軍がイギリス領マレーとハワイ州の真珠湾などに対して攻撃を行い太平洋戦争が始まると、ルソン島に上陸した日本陸軍と戦い、日本陸軍戦闘機の攻撃で自軍の航空機を破壊されると、人種差別的発想から日本人を見下していたマッカーサーは、「戦闘機を操縦しているのはドイツ人だ」と信じた。 |
| 怒濤の勢いで進軍してくる日本軍に対してマッカーサーは、マニラを放棄してバターン半島とコレヒドール島で籠城する作戦に持ち込んだ。 |
| 二ヶ月に渡って日本陸軍を相手に「善戦」していると、アメリカ本国では「英雄」として派手に宣伝され、生まれた男の子に「ダグラス」と名付ける親が続出した。 |
| しかし、実際にはアメリカ軍は各地で日本軍に完全に圧倒され、救援の来ない戦いに苦しみ、このままではマッカーサー自ら捕虜になりかねない状態であった。 |
| 一方、ルーズベルト大統領は個人的にはマッカーサーを嫌っていたが、マッカーサーが戦死あるいは捕虜になった場合、国民の士気に悪い影響が生じかねないと考え、マッカーサーとケソン大統領にオーストラリアへ脱出するよう命じた。 |
| マッカーサーはケソンの脱出には反対だったが、ケソンはマッカーサーの長い功績をたたえて、マッカーサーの口座に50万ドルを振り込んだ。 |
| 実際には脱出させてもらう為のあからさまな賄賂であったが、マッカーサーは仕方なく応じた。 |
| コレヒドール島からの脱出を余儀なくされ、"Ishallreturn"(必ずや私は戻って来るだろう/私はここに戻って来る運命にある)と言い残して家族や幕僚達と共に魚雷艇でミンダナオ島に脱出、パイナップル畑の秘密飛行場からボーイングB-17でオーストラリアに飛び立った。 |
| この日本軍の攻撃を前にした敵前逃亡はマッカーサーの軍歴の数少ない失態となった。 |
| オーストラリアでマッカーサーは南西太平洋方面の連合国軍総司令官に就任した。 |
フィリピン反攻
| 南西太平洋方面総司令官時代には、ビスマルク海海戦(所謂ダンピール海峡の悲劇)の勝利の報を聞き、第5航空軍司令官ジョージ・ケニーによれば、「彼があれほど喜んだのは、ほかには見たことがない」というぐらいに狂喜乱舞した。 |
| そうかと思えば、同方面の海軍部隊(後の第7艦隊)のトップ交代(マッカーサーの要求による)の際、「後任としてトーマス・C・キンケイドが就任する」という発表を聞くと、自分に何の相談もなく勝手に決められた人事だということで激怒した。 |
| 1944年のフィリピンへの反攻作戦については、アメリカ陸軍参謀本部では「戦略上必要無し」との判断であったし、アメリカ海軍もトップのアーネスト・キング作戦部長をはじめとしてそれに同意する意見が多かったが、マッカーサーは「フィリピン国民との約束」の履行を理由にこれを主張した。 |
| マッカーサーは10月23日にセルヒオ・オスメニャとともにフィリピンのレイテ島のレイテ湾に上陸した。 |
| フィリピンゲリラにも助けられたが、結局は終戦まで日本軍の一部はルソン島の山岳地帯で抵抗を続け、殲滅は出来なかった。 |
| この間、1944年12月に元帥に昇進している(アメリカ陸軍内の先任順位では、参謀総長のジョージ・マーシャル元帥に次ぎ2番目)。 |
GHQ最高司令官
| 戦争終結のための調印式が、9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で全権・重光葵(日本政府)、梅津美治郎(大本営)がイギリスやアメリカ、中華民国やオーストラリアなどの連合国代表を相手に行なわれ正式な降伏へ至った。 |
| 直ちに日本はアメリカ軍やイギリス軍、中華民国軍やフランス軍を中心とする連合軍の占領下に入った。 |
| マッカーサーは、降伏文書の調印に先立つ1945年8月30日に専用機「バターン号」で神奈川県の厚木海軍飛行場に到着した。 |
| その後横浜の「ホテルニューグランド」に滞在し、降伏文書の調印式にアメリカ代表として立ち会った後東京に入り、以後連合国軍が接収した皇居前の第一生命ビル内の執務室で、1951年4月11日まで連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の総司令官として日本占領に当たった。 |
| 1945年9月27日には、昭和天皇を当時宿舎としていた駐日アメリカ大使館公邸に招いて会談を行った。 |
| なおマッカーサーは略装を好み、重要な場でも略装で臨むことが多かったために、その後大統領となったハリー・S・トルーマンから批判されたこともあるデービッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ 第1部』(金子宣子訳、新潮社、1997年)。 |
| これに対して内務省が一時的に検閲を行ったことは、GHQの反発を招く事になり、東久邇宮内閣の退陣の理由のひとつともなった。 |
大統領選
| マッカーサーは大統領への道を閉ざされたが、つまりそれは、もはやアメリカ国民の視線を気にせずに日本統治を行えることを意味しており、日本の労働争議の弾圧などを推し進めることとなった。 |
北朝鮮による奇襲攻撃
| 第二次世界大戦後に南北に分割独立した朝鮮半島において、1950年6月25日に、ソ連のヨシフ・スターリンの許可を受けた金日成率いる朝鮮人民軍が韓国に侵攻を開始し、朝鮮戦争が勃発した。 |
| 当時、マッカーサーは、アメリカ中央情報局(CIA)やマッカーサー麾下の諜報機関(Z機関)から、北朝鮮の南進準備の報告が再三なされていたのにも関わらず、「朝鮮半島では軍事行動は発生しない」と信じ、真剣に検討しようとはしていなかったので、北朝鮮軍の侵攻を知らせる電話を受け取った際、「考えたいから一人にさせてくれ」と言って日本の降伏から5年で、平和が破られたことに衝撃を受けていたデービッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ 第1部』(全2冊、金子宣子訳、新潮社、1997年)、続編『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争』(上・下、山田耕介・侑平訳、文藝春秋、2009年)。 |
| 僅かの期間で韓国の首都が占領されてしまったことに驚き、事の深刻さを再認識したマッカーサーは本格的軍事行動に乗り出すべくソウル南方の水原飛行場に飛び、李承晩大統領ら要人との会談を行った。 |
更迭
| 4月16日にマッカーサーはマシュー・リッジウェイ中将に業務を引継いで東京国際空港へ向かったが、その際には沿道に20万人の日本人が詰め掛け、毎日新聞と朝日新聞はマッカーサーに感謝する文章を掲載した。 |
引退
| 老衰による肝臓・腎臓の機能不全でワシントンD.C.のウォルターリード陸軍病院に1964年3月6日したのち3回も手術を受けるなどしていたが4月3日に危篤となり4月5日午後2時39分(日本時間、6日午前4時39分)に84歳で死去した。 |
「目玉焼き事件」
| 当時のホテルニューグランド会長の回想によれば、マッカーサーがニューグランドに着いて最初に出された食事は冷凍のスケソウダラとサバ、酢をかけたキュウリ、そして鯨肉のステーキであり、マッカーサーはステーキを一口だけ食べると無言になり、後は手をつけなかった。 |
「12歳」発言
| しかし、いずれにしてもこの発言の前提として「大正デモクラシー」以降に議会制民主主義が日本に根付こうとしていた事実や、大戦前に日本は「五大国」の一国として高い科学、美術、宗教、文化程度を持っていた経緯を、マッカーサーが故意か無知か無視していたこともあり、5月16日にこの発言が日本で報道されると、日本人は未熟であるという否定的意味合いのみが巷間に広まり、このため日本におけるマッカーサー熱は一気に冷却化した。 |
| 政府が計画していた「終身国賓待遇の贈呈」、「マッカーサー記念館の建設」はいずれも先送りになり、三共、日本光学工業(現ニコン)、味の素の三社が「12歳ではありません」と銘打ち、タカジアスターゼ、ニッコール、味の素の三製品が国際的に高い評価を受けている旨を宣伝する共同広告を新聞に出す騒ぎになった。 |
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1880年
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軍人である父の任地であったアーカンソー州リ... |
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ウェストポイントアメリカ陸軍士官学校にトッ... |
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ダグラス・マッカーサーさんについてのひとこと紹介
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