| 1935年7月6日、チベット北部アムドのタクツェルの小さな農家にて、9人目の子供「それまでに8人の子供が生まれていた」とある(『ダライ・ラマ自伝』文春文庫p.33)。 |
| なお、「子供7人のうちの5番目の生まれ」という説もある(Craig1997,pg.xxi)として生まれた。 |
| なお、生家は小農ではあったが、地主に従属する小作人というわけでもなかった。 |
| 貴族階級でもない。 |
| わずかな土地を人に貸し、自分たちでも大麦、ソバ、トウモロコシなどを栽培しており、ゾモというヤクと牝牛の雑種を5〜6頭、80頭あまりの羊やヤギ、2〜3頭の馬、2頭のヤクを飼っていたという『ダライ・ラマ自伝』文春文庫p.31。 |
| 生家はチベットならどこにでもあるなんの変哲もないありふれた民家だったという『ダライ・ラマ自伝』文春文庫p.33。 |
| 幼名はラモ・ドンドゥプ''Lha-moDon-'grub''チベット語表記。 |
| と名づけられた。 |
| これは「願いを叶えてくれる女神」という意味である『ダライ・ラマ自伝』文春文庫p.30。 |
| 長男のトゥブテン・ジグメ・ノルブはすでに高僧タクツェル・リンポチェの化身として認められていて、有名な僧院クムブムで修行をしていた『ダライ・ラマ自伝』文春文庫p.35。 |
| 他にも18歳年上の姉としてチェリン・ドルマなどがいた『ダライ・ラマ自伝』文春文庫p.34。 |
| 見知らぬ人を少しも怖がらぬ子だったと、母親は後に語ったという『ダライ・ラマ自伝』文春文庫p.36。 |
| 3歳になるかならないかという頃、ダライ・ラマの化身を見つけるためにチベットの政府が派遣した捜索隊が、さまざまなお告げに導かれてクムブム僧院にやってきた。 |
| お告げのひとつは、1933年に死去したダライ・ラマ13世の遺体が埋葬前の安置期間中に頭の向きを北東に変えたこと。 |
| 他には、高僧が聖なる湖で湖面にAh、Ka、Maのチベット文字が浮かび上がるのを「視た」、続いて、青色と金色の屋根の3階建ての僧院とそこから一本の道が丘につづいている映像を「視た」、そして最後に変な形をした「樋」のある小さな家を「視た」ことだ、という。 |
| 僧は"Ah"は地名アムドのアだと確信して捜索隊をそこへ派遣したという。 |
| "Ka"の文字はクムブムのKに違いないと思ってクムブムにやってきた捜索隊は、クムブムの僧院が青くて3階建てであることを発見しその読みが正しかったと確信したという。 |
| 捜索隊は付近の村を探し回り、やがて屋根にこぶだらけの杜松が走っている民家を見つけた『ダライ・ラマ自伝』文春文庫p.39。 |
| 捜索隊は身分を隠していたのにそこに含まれていたセラ僧院の僧を「セラ・ラマ」と呼んだという。 |
| また、ダライ・ラマ13世の遺品とそれそっくりの偽物をいくつかその子供に見せたところ、いずれも正しい遺品のほうを選び「それ、ボクのだ」と言ったという『ダライ・ラマ自伝』文春文庫p.39。 |
| 上にあげたようないくつかの確認の手続を経てさらに他の捜索結果も含めて政府が厳密に審査した結果、この子は3歳の時に真正ダライ・ラマの化身第13世ダライ・ラマトゥプテン・ギャツォの転生と認定され、ジェツン・ジャンペル・ガワン・ロサン・イシ・テンジン・ギャツォチベット語表記。 |
| (聖主、穏やかな栄光、憐れみ深い、信仰の護持者、智慧の大海)と名付けられた。 |
| 1939年の夏、ラサに向けてチベット政府の捜索隊らおよび両親や兄弟らとともに3ヶ月かけて移動。 |
| ダライ・ラマの夏の離宮であるノルブリンカ(宝石の庭園の意)に入った『ダライ・ラマ自伝』文春文庫pp.41-44。 |
| 1940年冬、ポタラ宮殿に移動し、チベットの精神的指導者の座に正式に就任、ラサのジョカン寺で剃髪式、見習い僧の式が行われ、ダライ・ラマとしての手ほどきを受け始めた『ダライ・ラマ自伝』文春文庫pp.47-49。 |
| 教師としてついたのはレティン・リンポチェ(当初上級教師、後に教師からはずれる)、タタ・リンポチェ(当初下級教師、後に上級教師に昇格)、キゥツァン・リンポチェ(非公式の個人教師、元捜索隊長)、リン・リンポチェ(タタ・リンポチェのかわりに下級教師となった)。 |
| リン・リンポチェとは親友となった(出典:同ページ)。 |
| ロブサン・サムテン(1つ上の兄)とともに読み書きの勉強から開始。 |
| お経の授業も開始脚注:チベット語にはウ・チェンとウ・メという2種類の筆記形態があり、一方は私的な書き物、もう一方は公文書や書簡用となっている(『ダライ・ラマ自伝』文春文庫p.53)。 |
| 脚注:少年のダライ・ラマの生活スケジュールについて。 |
| 朝6時起床、着替えて1時間ほど祈祷と瞑想。 |
| 7時に朝食を摂り、それから授業の開始。 |
| 12時ちょうどに鐘が鳴り、昼休みとなり、子供らしく遊ぶ。 |
| 1時に軽い昼食。 |
| 食後すぐに授業が再開。 |
| 午後4時にお茶。 |
| その後2人のチェンシャプが来て、抽象的な論題(たとえば「心」の本性とは何か?)といった質問との格闘。 |
| 午後5時半頃にようやく1日の試練から開放される。 |
| 7時頃まで絵を描いたりして過ごし、夕食。 |
| 夕食後は宮殿の内庭を散歩をしながら経典を暗誦したり祈祷をする決まりになっていたが、実際は子供らしく物語を考え出したりして時を過ごしたという(『ダライ・ラマ自伝』文春文庫pp.53-61)。 |
| 少年のダライ・ラマが受けた一般教育のカリキュラムの内容は仏教学で学位取得を目指す他の僧たちと同じで、主要科目・副科目に分かれ、以下のような内容。 |
| 主要科目:「論理学」「チベット芸術と文化」「サンスクリット」「医術」「仏教哲学」。 |
| この中でも「仏教哲学」が一番深遠で、5つに分類されていて、「プラジュナパラミタ(般若波羅蜜=智慧の完成)」「マディヤミカ(中観=中庸の道)」「アビダルマ(=形而上学)」「ヴィヤナ(=僧院生活の戒律)」「プラマナ(=論理学と認識論)」。 |
| 副科目:詩歌、音楽・ドラマ、占星学、韻律・表現法・同義語研究(『ダライ・ラマ自伝』文春文庫pp.57-58)。 |
| 10歳の時から、チベットの僧院教育で基本とされている弁証法と討論技術を熱心に学んだ。 |
| ダライ・ラマとして仏教哲学を知っているだけでなく、討論にも熟達している必要があったためである(『ダライ・ラマ自伝』文春文庫p.58)。 |
| さらに、精神的(宗教的な)指導者としての教育と同時に、世俗的(一般社会の)指導者としての教育も受け始めた脚注:政府の会議のある時には、授業は朝10時に中断し、その会議に出席した(『ダライ・ラマ自伝』文春文庫p.54)。 |
| また、他にも板を駆け上ってそこからジャンプするなど、腕白な遊びも大好きだった、という(『ダライ・ラマ自伝』文春文庫pp.55-57)。 |
| 8歳の時には兄ロブサンは私立学校に行き、ダライ・ラマは一人で教育を受けるようになった。 |
| 毎年春先にノルブリンカに移り、半年後の冬の始まりとともにポタラ宮殿に戻る、という生活を20歳まで繰り返した『ダライ・ラマ自伝』文春文庫p.72。 |
| 少年時代にラサには10人ほどのヨーロッパ人が住んでいて、その中の一人ハインリッヒ・ハラーを兄ロブサンが連れてきたことで、互いに知り合うことになった。 |