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プロフィール
- チェーザレ・ボルジアとは
- 幼年・青年期
- 大司教・枢機卿時期
- フランス滞在期
- イーモラ・フォルリ征服
- ロマーニャ公爵
- ウルビーノ等征服
- マジョーネの乱
- シニガッリア事件
- 暗転、捕縛
- 最期
- エピソード
- 評価
チェーザレ・ボルジア(,(セザール・ボルジア)1475年9月13日(14日説有)-1507年3月12日)は、イタリアルネサンス期の軍人・政治家。なお、イタリアにおいては単に「チェーザレ」という名前は一般に カエサルを指す為、現地で チェーザレ・ボルジアは「ヴァレンティーノ公」と呼ばれる事が多い。
幼年・青年期
| チェーザレ・ボルジアはロドリーゴ・ボルジアとヴァノッツァ・カタネイの子としてローマで生まれたただし戸籍上の父親はドメニコ・ダリニャーノという教会官吏である。 |
| チェーザレの同腹の妹弟としてフアンホアンが長兄との説もあるが不確定。 |
| 、ルクレツィア、ホフレ、異母兄としてペドロ・ルイスただし同母兄の可能性も否定できない。 |
| らが知られているロドリーゴ(アレクサンデル6世)は聖職に就いていた為、対外的にはチェーザレを含めたロドリーゴの子息は全て庶子とされた。 |
| チェーザレの幼年期より、ロドリーゴは枢機卿にまで昇進し、ボルジア家の発祥の地でもあったスペインではガンディア公位をペドロ・ルイスが承継「ガンディア公爵」は1399年にアラゴン王マルティン1世が創設、後のアラゴン王フアン2世らが承継した。 |
| 1485年にロドリーゴがこの「ガンディア公」の位を金銭との引き換えにより獲得した。 |
| カトリック百科事典「PopeAlexanderVI」。 |
| していたものの、チェーザレは父の目の届くローマで暮らし、やがてピサやペルージャの大学で法律等を学んだ。 |
| そのいっぽうで狩猟晩年まで非常に好んだ。 |
| や武芸全般にも精を出した。 |
| チェーザレは灰色の目及びオレンジ色の髪の毛を持つ大変な美男子だったといわれ、後にマキャヴェッリも「容姿ことのほか美しく堂々とし、武器を取れば勇猛果敢であった」とチェーザレの印象を書き残している。 |
| 澤井繁男『マキアヴェリ、イタリアを憂う』P.109。 |
| ただし、後世に描かれた肖像画は黒髪であることが多い。 |
| チェーザレはロドリーゴの力添えにより幼少の頃から以下の教会内要職を歴任した惣領冬実(作)、原基晶(監修)『チェーザレ破壊の創造者』3巻巻末。 |
| 1483年3月、教皇庁書記長。 |
| 1483年7月、バレンシア大聖堂司教座聖堂参事会員。 |
| 1483年8月、ガンディア司祭他。 |
| 1484年9月、カルタヘナ大聖堂管財官及びタラゴナ大聖堂司教座聖堂参事会員他。 |
| 1491年9月、パンプローナ司教。 |
大司教・枢機卿時期
| 1492年8月に父・ロドリーゴがアレクサンデル6世として教皇の座を得たこの年に、チェーザレはバレンシア大司教として異例の抜擢を受けた。 |
| 1493年9月に開かれた枢機卿会議においてアレクサンデル6世は会議の賛同を得てチェーザレをバレンシア枢機卿に任命した。 |
| これによりアレクサンデル6世が教会内での自らのボルジア家の後継者を暗示する形となった。 |
| 1494年、フランス国王シャルル8世は、アレクサンデル6世に教皇選挙で敗れたジュリアーノ・デッラ・ローヴェレらフランスへ逃れた枢機卿や、ミラノ公国のルドヴィーコ・スフォルツァ(イル・モーロ)らと共謀し、王位継承問題が浮上していた親ボルジア派のナポリ王国の王位継承権の行使(ナポリ王国王家と縁戚関係にあった)を主張してフランス軍をイタリアへと侵攻させた(イタリア戦争)。 |
| フランスがミラノやフェラーラ等のイタリア諸国の協力も取り付けていたこともあり、ナポリ王国は敗北。 |
| フランス軍はルッカ、シエーナ等を押さえた。 |
| 有力なイタリア諸邦であったフィレンツェ共和国もロレンツォ・デ・メディチ死後のメディチ家の内紛状態により余力を失っていた事から、同年12月31日にシャルル8世は難なくヴァティカンへの入城を果たした。 |
| この際に、チェーザレはアレクサンデル6世の特使としてシャルル8世との間を行き来したと伝わっている。 |
| 1495年1月、シャルル8世とアレクサンデル6世が「バチカンが預かっていたオスマン帝国の帝位継承者でもあったジェムの身柄をフランスが引き受ける事」や「チェーザレをフランス軍の元に置く事」等の内容の協定を結んだ事から、チェーザレはヴァティカンを退去するフランス軍と共に南下してナポリ王国の占領にも立ち会う格好となったが、同月中にチェーザレはフランス軍の隙を見て逃亡に成功した。 |
| 以降、アレクサンデル6世はイタリア諸国と同盟を結んで、フランス軍へ対峙した。 |
| この間のチェーザレはローマに滞在したともされるが、その動向は掴み難い。 |
| 1497年6月、ボルジア家の旧領であったガンディア公爵として、教皇軍最高司令官でもあったフアン・ボルジアがピアッツァ・デッラ・ジュディッカ(ローマ市内のゲットー)で殺害される事件が起こった先代のガンディア公爵であったペドロ・ルイスは1488年に死去。 |
| フアンと激しい敵対関係にあった枢機卿アスカーニオ・スフォルツァ(en,イル・モールの弟)やグイドバルド・ダ・モンテフェルトロ(ウルビーノ公)らと共に、チェーザレもフアンの殺害犯として噂されたグイチャルディーニ「フィレンツェ史」第15章P.214、ルクレツィアをフアンと奪い合った為との俗説もあるが、現在に至るまで真相は不明。 |
| これによってボルジア家の政治や軍事部門を担当する人物が消える事となった。 |
| フランチェスコ・グイチャルディーニは自著で、アレクサンデル6世がフアンを溺愛した事にチェーザレが嫉妬した事が主たる原因、としている。 |
| なお、フアン殺害の同時期にフィレンツェの修道士ジロラモ・サヴォナローラの破門がアレクサンデル6世より公表されたグイチャルディーニ「フィレンツェ史」第15章P.214。 |
フランス滞在期
| 1498年7月、枢機卿会議においてチェーザレは「枢機卿及びバレンシア大司教の地位を返上する」と表明し、会議において全会一致で承認されたグイチャルディーニ「フィレンツェ史」第17章P.249。 |
| これに先立って、アレクサンデル6世とフランス国王ルイ12世(チェーザレとも因縁があったシャルル8世は1498年4月に死亡)は、「チェーザレにヴァランス等の公爵として領土を与える事」「チェーザレの要望に応じて軍事的な支援を行う事」「聖ミカエル騎士団(モン・サン=ミシェルで知られる)の騎士の称号を与える事」等の協定を結び、10月に協定履行の為に腹心のミケーレ・ダ・コレーリア(MicheledaCorella、ドン・ミケロット)らと共にフランスへ渡って、暫しの間フランス国内に滞在する事となる。 |
| 10月12日にマルセイユ到着後は、教皇特使としての業務を終えた後、自らの領土ヴァランスを始め、アヴィニョン、リヨン等を訪れた。 |
| 1499年5月、ルイ12世の後ろ盾もあって、チェーザレはナバラ王フアン3世の妹シャルロット・ダルブレ(Charlotted'Albret,1480年-1514年)と結婚し、アンボワーズ城で挙式を行ったグイチャルディーニ「フィレンツェ史」第17章P.249。 |
| その後、聖ミカエル騎士団の騎士にも叙され、フランス王家との養子縁組も行って、以降チェーザレは「チェーザレ・ボルジア・ディ・フランチア」(,セザール・ボルジア・ド・フランシア)と称する事となった。 |
| 全ての儀式を終えたチェーザレは、「ヴァランス公爵」(ヴァレンティーノ公爵)としてフランス軍に参加する為にミラノへ向けてフランスを出立した。 |
| シャルロットとの生活はチェーザレが7月にフランス国外へ出るまでの2ヶ月に過ぎなかったが、翌年の5月17日に娘ルイーズ(en)が生まれた。 |
| ミラノ公国とフランスの戦いはあっさりと決着がついて、10月にチェーザレはフランス軍と共にミラノへ入城した。 |
イーモラ・フォルリ征服
| 1499年11月、アレクサンデル6世の宣戦布告を受けて、チェーザレはフランスからの応援部隊(ルイ12世との協約による)及びスイスやスペイン、イタリア各地のコンドッティエーレ(傭兵)から構成された15,000の兵を率いて、カテリーナ・スフォルツァの治めるイーモラ及びフォルリへ向けて進軍した。 |
| カテリーナはチェーザレの侵攻前に教皇アレクサンデル6世宛に毒薬入りの手紙を送ったものの、アレクサンデル6世には届かずに未遂に終わったと伝わっているブルクハルト「イタリア・ルネサンスの文化」第6章道徳性P.249。 |
| なお、カテリーナはチェーザレの侵攻を前に自らの子供や財産をフィレンツェに送った上で、防戦に向けた準備に入ったが、国内は親チェーザレ・反チェーザレに2分された。 |
| 結局、イーモラでは一部の砦で抵抗があったものの、チェーザレは陥落させて、イーモラを手中に収めた。 |
| 12月、フォルリへ到着したチェーザレはフォルリ近郊の砦に籠城するカテリーナ軍への攻撃を開始した。 |
| カテリーナは激しく抵抗したが、2ヶ月に渡る戦闘の末に最後はチェーザレ軍がカテリーナを捕縛した事で、勝利を収めた。 |
| 1500年2月、チェーザレは軍の一部を率いてローマへ入城。 |
| 同時期に行われた謝肉祭にて、チェーザレ自身の先の戦功に関連付ける形で、11頭立ての馬車から構成された古代ローマのガイウス・ユリウス・カエサルが行った凱旋式と同様の催しを挙行したブルクハルト「イタリア・ルネサンスの文化」第5章祝祭P.204。 |
| 3月、バチカンにてアレクサンデル6世はイーモラとフォルリの統治権をチェーザレに与える事を公布すると共に、チェーザレを教会軍総司令官に任命した。 |
| 7月、ルクレティアの夫であったアルフォンソ(en)が何者かによって襲撃される事件(8月に死去)が発生した。 |
| フランスと微妙な関係にあったナポリ王家の一員であったアルフォンソの死によって、最も利益を得る立場にあったチェーザレが真犯人として疑われたものの真相は闇の中に消える事となった。 |
ロマーニャ公爵
| 1500年8月、チェーザレは内紛状態にあったチェゼーナを軍を動かす事なく手に入れた。 |
| 更にアレクサンデル6世によりマラテスタ家(Malatesta,リミニ)、マンフレディ家(ファエンツァ)、スフォルツァ家(ペーザロ)を破門・宣戦布告した事を受けて、チェーザレはイーモラ攻撃時と同様にフランスの応援部隊及び傭兵から成る12,000の兵を率いて、リミニへ向けて進軍した。 |
| 10月、リミニを支配していたパンドルフォ・マラテスタ(en)がチェーザレ到着を前にチェーザレに降伏を申し出て国外へ退去し、チェーザレはリミニへの無血入城を果たした。 |
| 続いてペーザロへ進軍したが、ペーザロを支配していたジョヴァンニ・スフォルツァ(en)もチェーザレ到着前に遁走しており、やはり無血入城を果たしたグイチャルディーニ「フィレンツェ史」第20章P.315。 |
| 11月、アストール・マンフレディ(en)を当主とするファエンツァに到着したが、ファエンツァはチェーザレの降伏勧告を拒否して抵抗する姿勢を示した。 |
| ファエンツァの抵抗は激しく、チェーザレの再三に渡る攻撃を退けたものの、1501年4月にアストールの命を保証する事を条件にファエンツァはチェーザレに降伏した。 |
| 後にアストールはローマへ送られ、1502年1月にサンタンジェロ城で暗殺されたグイチャルディーニ「フィレンツェ史」第20章P.315。 |
ウルビーノ等征服
| 1501年5月、チェーザレはフィレンツェ共和国との国境沿いまで進軍したが、アレクサンデル6世の要請やルイ12世の仲裁もあってフィレンツェ攻略を断念して資金面での提供受ける事等を条件として和約を結んだが、チェーザレがフィレンツェを去った後を任されたヴィテロッツォ・ヴィテッリは、フィレンツェ南方のキアーナ渓谷一帯を略奪すると共に同地区での反乱を煽動した。 |
| 1501年9月、ナポリ王家の結びつきを背景としてローマ近郊に勢力を保っていたコロンナ家やサヴェッリ家がアラゴン家の没落により影響力を失いつつあった事から、これらを駆逐するべく、チェーザレはカステル・ガンドルフォ等のコロンナ家の所領を攻撃してこれを征服し、ボルジア家(及び教皇領)の所領に組み入れた。 |
| 同じく9月、フィレンツェの南にあるピオンビーノを攻撃してこれを征服したグイチャルディーニ「イタリア史」第5巻第6章P.63。 |
| 12月、フェラーラ公アルフォンソ1世・デステとルクレティアの結婚式が行われ、これによりフェラーラからの脅威が抑えられる事となったグイチャルディーニ「イタリア史」第5巻第6章P.64。 |
| 1502年5月にピサ、6月にアレッツォを影響下に収める事に成功した。 |
| 1502年6月、チェーザレはこれまでの戦争で傭兵としてチェーザレ軍として従軍していたウルビーノ公国を電撃的に包囲した。 |
| ウルビーノ公グイドバルド・ダ・モンテフェルトロは抵抗することなくマントヴァへと落ち延び、チェーザレはウルビーノに入城したグイチャルディーニ「イタリア史」第5巻第9章P.82。 |
| また、ウルビーノ攻略と同時期にフィレンツェ政府の使節としてフランチェスコ・ソデリーニ(en)とマキャヴェッリがチェーザレと会談し、ヴィテロッツォによるキアーナ渓谷一帯での行為について抗議し、チェーザレはヴィテロッツォを呼び戻す代わりにフィレンツェから年間傭兵料を受け取る事で協定を結んだ。 |
| ウルビーノ征服の後、サンマリノ共和国がチェーザレに降伏。 |
| 一方でミラノにて、ペーザロのジョヴァンニ・スフォルツァやウルビーノのグイドバルド、カメリーノ・ヴァラーノ一族(en)で唯一生き残ったジャンマリーア(GiovanniMariadaVarano)らがマントヴァ侯爵フランチェスコ2世・ゴンザーガを中心として、ルイ12世にチェーザレの「横暴」に対して対処するように請願したものの、ルイ12世はチェーザレとの関係を優先する事を表明した為、「反チェーザレ同盟」の構想は瓦解したグイチャルディーニ「イタリア史」第5巻第11章P.96。 |
| その後、チェーザレは自身の統治する「ロマーニャ公国」の首都機能を次の標的ともされたボローニャとの国境沿いのイーモラへ移した。 |
マジョーネの乱
| ヴィテロッツォ・ヴィテッリ(チッタ・ディ・カステッロの僭主)。 |
| ジャンパオロ・バリオーニ(en,ペルージャのシニョーレ)。 |
| オリヴェロット・ダ・フェルモ(it,フェルモのシニョーレ)。 |
| その他、シクストゥス4世の時期に枢機卿となったジョヴァンニ・バッティスタ・オルシーニ(it)、シエナのパンドルフォ・ペトゥルッチ(en)、ボローニャのジョヴァンニ・ベンティヴォーリョ(en)、グイドバルド(元ウルビーノ公)、ジャンマリーア(カメリーノ、ヴァラーノ家)らが参加。 |
シニガッリア事件
| 1502年12月31日、チェーザレは反乱側の5人のコンドッティエーレから反乱軍が既に制圧していたシニガッリア(Sinigaglia、現:セニガッリア)で交渉を持ちかけられ、チェーザレおよび病を理由に欠席したバリオーニ以外の4人のコンドッティエーレがシニガッリアへ軍を率いて集合した。 |
| パオロ及びフランチェスコは即時に処刑はされず、ローマでチェーザレの弟・ホフレらが指揮を取る教皇軍がジョヴァンニ・バッティスタ・オルシーニやフィレンツェ大司教リナルド・オルシーニ(it)らを逮捕すると共にオルシーニ一党を討伐したのを聞いた後、1503年1月18日にカステッロ・デラ・ピエーヴェでパオロらを処刑した。 |
| チェーザレは1503年1月より反乱に加担した一味の壊滅を掲げて進軍、ヴィテロッツォの本拠地チッタ・ディ・カステッロを陥落させ、チェーザレの誅殺から逃れたバリオーニの本拠地ペルージャでは反乱の失敗に絶望したバリオーニが逃走して、ペルージャはチェーザレへの降伏を願い出た。 |
| 更にシエナもチェーザレの圧力に屈して、パンドルフォ・ペトゥルッチはフランスへと落ち延びていった(ペトゥルッチはルイ12世の干渉により1503年3月にシエナのシニョリーアへ復帰した)グイチャルディーニ「フィレンツェ史」第24章P.379。 |
暗転、捕縛
| 現在ではマラリアに感染したとの説が有力であるが、グイチャルディーニやヤーコプ・ブルクハルトは「毒入りワインを飲んだことが原因である」としているグイチャルディーニ「フィレンツェ史」第24章P.384他。 |
| アレクサンデル6世の後継教皇となったピウス3世は即位後1ヶ月弱で死去、ピウス3世の後継となったのはかつて父と教皇の座を激しく争ったジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ(ユリウス2世)であった。 |
| 12月、ドン・ミケロット率いる軍勢がフィレンツェ共和国軍と戦ったものの敗北し、ドン・ミケロットは捕虜となった1504年、フィレンツェの指導者ピエロ・ソデリーニ(en)によってドン・ミケロットは同国軍の隊長に招聘されたが、その後逐電した。 |
最期
| 1504年8月、弟・ホアンの殺害容疑でチェーザレはスペインへと移送され、当初はアルバセテ近郊、その後バリャドリッド近郊のメディナ・デル・カンポにあるモタ城に収監された。 |
| 1506年10月、チェーザレは収監されていたモタ城を脱出して、スペイン軍の追っ手を避けながら2ヶ月の逃避行の末に、12月3日に義兄・ファン3世の統治するナバラ王国へと逃れる事に成功した。 |
エピソード
| チェーザレにとって、父であるアレクサンデル6世の権威と財政的援助が最も大きな後ろ盾であった事は確かであり、アレクサンデル6世自身も教皇の権力に匹敵する勢力を持っていたコロンナ家やオルシーニ家を打倒する事にチェーザレの勢力を活用した。 |
| なお、アレクサンデル6世は生前、次期教皇について「ヴェネツィア出身者かチェーザレの意に沿った人物が良い」とヴェネツィア共和国の使節へ語ったと伝えられるブルクハルト『イタリア・ルネサンスの文化』1章「教皇権とその危険」P.189。 |
| レオナルドはウルビーノ、ペーザロ、チェゼーナ等に滞在した後、チェーザレが本拠地としていたイーモラに入って、ロマーニャ公国の防衛体制の施策を練った。 |
| 要約すると「あらゆる希望をボルジア家出身の2人の教皇にかけ、次いでチェーザレは神から約束された人物であったとするが、結局は1503年に破滅に至った」というものであるブルクハルト「イタリア・ルネサンスの文化」第3章新ラテン語詩P.412。 |
評価
| 19世紀の歴史家ブルクハルトは「ボルジア家秘伝の毒」と呼ばれたカンタレラ等によって自らの地位を脅かすような政敵や教会関係者を次々と粛清してはその財産を没収した事ボルジア家と敵対した者による誇張が多分に含まれている可能性も考えられるや「シニガッリア事件」での対応を挙げて、チェーザレを「大犯罪者」や「陰謀者」ブルクハルト『イタリア・ルネサンスの文化』第1章「教皇権とそれのさまざまな危険」(P.140-P.146)、「血に飢えて飽く事を知らず、人を破滅する事に悪魔的な喜びを感じる性質」ブルクハルト『イタリア・ルネサンスの文化』第6章「道徳性」(P.532)と評した。 |
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1475年
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イタリアで誕生している |
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1483年
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教皇庁書記長 |
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つながりの強いひと
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