| right|thumb|『聖母被昇天』(1516年-1517年)サンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂(ヴェネツィア)完成に2年かかった大作で、躍動的な三階層の構図と色彩構成が、ティツィアーノをローマ以北でもっとも傑出した画家の一人という評価を定着させた。 |
| 1516年から1530年にかけてのこの時期は、ティツィアーノが初期のころのジョルジョーネ風作品から、より大規模で複雑な構成の作品をそれまでにない作風で描こうと試みた、技能熟練と熟成の時代といわれる。 |
| ジョルジョーネは1510年に、ベリーニは1516年に死去し、ヴェネツィア派にはすでにティツィアーノに比肩する画家はいなくなり、その後60年間にわたって誰もが認めるヴェネツィア絵画の第一人者であり続けた。 |
| 1516年にサンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂の依頼で、現在ティツィアーノの代表作ともいわれる祭壇画『聖母被昇天』を描き始めた。 |
| 非凡な色彩感覚に彩られたこの絵画は、それまでのイタリア絵画でもまれなほど大規模な作品で、大評判となったCharlesHopeinJaffé,p.14。 |
| 当時のシニョリーアの記録には、ティツィアーノが描いたドゥカーレ宮殿大議会の装飾絵画の支払は放置されていたが、ベリーニの死後1516年になってから、それまでベリーニに支払われていた年金を議会から受け取るようになったという記述があるCharlesHope,inJaffé,p.15。 |
| 『聖母被昇天』は三階層の構図で、世俗の地上と神聖な天界という二つの異なる場面が同時に表現されている。 |
| この作品は連作であり、現在バチカン美術館が所蔵するアンコーナのサン・ドメニコ会祭壇背障画(:en:retable)(1520年)、ブレシアの祭壇背障画(1522年)、サン・ニッコロの祭壇背障画(1523年)が次々と描かれた。 |
| 時代を下るにしたがってより大きく、そして完成度が高くなっていき、1519年から1526年までかかって完成したフラーリ聖堂の祭壇画『聖会話とペーザロ家の寄進者たち』でルネサンス古典様式の一つの頂点を迎える。 |
| この絵画はティツィアーノの作品の中でもっとも計算されつくした絵画といわれ、独自の創造力と作風に満ちた傑作とされている。 |
| ティツィアーノは寄進者たちと聖人たちという伝統的モチーフ『聖会話とペーザロ家の寄進者たち』はペーザロ家の聖職者が聖堂に寄進した祭壇画で、このような絵画には聖人とともにパトロンとなった寄進者の肖像が作品中に描かれることが多かった(:en:Donorportrait)を空想的な建物空間に表現し、それぞれのキリスト教的地位を建物の上下の位置で表すという、新しい構想でこの作品を描いているCharlesHopeinJaffé,pp.16-17。 |
| 当時のティツィアーノの名声は非常に高く、1521年にはブレシアでローマ教皇特使からの依頼で、現在でも多くの模写が残っている聖セバスティアヌスを描いた絵画の制作に追われていた。 |
| この時代の1530年に描かれた、サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会が所蔵していた『聖ペテロの殉教』も非常に重要な絵画だったが、1867年にオーストリア軍から砲撃を受け焼失してしまっている。 |
| この作品は模写と版画が残されているのみで、極端なまでの暴力描写と風景画が描かれ、画面の大部分を占める巨大な樹木と物語性を強調する劇的表現から、この絵画はバロック様式の萌芽と考えられているCharlesHope,inJaffé,p.17 |
| right|thumb|『うさぎの聖母』(1530年頃)ルーブル美術館(パリ)。 |
| ティツィアーノには聖母マリアあるいは聖母子を扱った小作品を集中的に描いた時期があった。 |
| 美しい風景に囲まれた人物画で、風俗画あるいは詩的な肖像画風に描かれており、現在ルーブル美術館が所蔵する『うさぎの聖母』が典型的な作品である。 |
| 他にもルーブル美術館には1520年に描かれた『キリストの埋葬』がある。 |
| この時代のティツィアーノには神話をモチーフにした、3点の大作がある。 |
| フェラーラ公爵アルフォンソ・デステのフェラーラにあったアルフォンソ邸の書斎「カメリーノ・ダラバストロ(Camerinod'Alabastro)」のために描かた作品群で、現在プラド美術館が所蔵する『ヴィーナスへの奉献』(1519年)、『アンドロス島の人々』(1523年-1524年頃)と、ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵する『バッカスとアリアドネ』(1520年-1523年)であるJaffé,pp.100-111。 |
| 「おそらくルネサンス期における、もっとも美しい「異教徒風(neo-pagan)」の、あるいは「アレクサンドリア風(Alexandrianism)」の絵画群といえる。 |
| 幾度となく手本とされた作品だが、ルーベンスでさえこれらの作品を超えることはできなかった」といわれる。 |
| ほかに、高級娼婦を描いたとされるウフィツィ美術館所蔵の『フローラ』(1515年頃)、ルーブル美術館所蔵の『鏡の前の女』(1513年-1515年頃)など、上半身のみを描いた肖像画はこの時代を最後に描かれた作品である。 |
| ティツィアーノの妻セシリアは、ティツィアーノの故郷ピエーヴェ・ディ・カドーレ出身の理髪師の年若い娘で、5年にわたってジョルジョーネ家の家政を取り仕切る内縁関係にあった。 |
| ティツィアーノとの間にはすでにポンポーニオとオラツィオの二人の息子が生れていたが、1525年にセシリアは重病にかかってしまう。 |
| ティツィアーノは二人の息子を法的に認知するためにセシリアと正式に結婚した。 |
| 結婚した二人の関係は良好で、セシリアは健康を取り戻し二人の娘を産んだが、ラヴィニアと名付けられた娘だけが成人した。 |
| 二人の幼児と一人の乳児を抱えたティツィアーノは家を変え、ピエーヴェ・ディ・カドーレにいた妹のオルサを説得して、家事を任せるために呼び寄せた。 |
| ビリ・グランデにあったティツィアーノの邸宅の正確な場所は判明していないが、ヴェネツィア中心部から離れた海沿いの瀟洒な郊外の住宅地で、美しい庭園のあるムラノ島が一望できる場所だった。 |
| ティツィアーノは1526年ごろに作家、詩人で、当時の年代記にも有力で独創的な人物として紹介されているピエトロ・アレティーノ(:en:PietroAretino)と深い親交を持った。 |
| ティツィアーノはアレティーノの肖像画を描き、マントヴァ侯爵フェデリーコ2世・ゴンザーガへと送っている。 |