| 日本名「友利結」には「友と手を結びて勝利を得る」という意味を持つといわれるが、姓名判断で「結という字は『起承転結』につながり、すでに終わってしまって、これ以上は伸びない」といわれたため改名したという。 |
| ちなみに登録名の制度を知っていたら、当初から「デニー」にしたかったとのことである。 |
| 大洋在籍時代(友利結時代)は、オフのプロ野球選手運動会で徒競走、走り高跳びなどで決勝進出者の常連だった。 |
| 1992年2月29日に沖縄県宮古島の平良市(現・宮古島市)で行われたオープン戦では先発投手として登板した。 |
| ここは友利家縁の地であるため「凱旋登板」となった。 |
| 同じチームに所属していたR.J.レイノルズに「モデルになればビバリーヒルズにも住める」と言われたこともあってか、ある監督に「モデル事務所を紹介する」と引退を勧められたといわれる。 |
| 事実、彼の体形は均整の取れた長身の7頭身であり、横浜の新ユニフォーム発表セレモニーにおいて、まったく実績のない彼がスター選手に混じってモデルを務めた。 |
| 1997年のシーズン当初、たまたま中日-巨人戦のテレビ中継で宣銅烈が投げているのを見てセットポジションでの構えを宣と同じものにした途端、急に結果が出始めたという。 |
| 西武では松坂大輔の教育係的存在として注目を浴びたが、まるで年の離れた兄弟のような関係であった。 |
| デニーが松坂をイジると、松坂が仕返しに練習終了時などにデニーをおちょくり、デニーはそれに激怒して(もちろん冗談で)松坂を追い掛け回す、という非常にいい関係が続いた。 |
| 同時に練習用のグローブに刺繍された文字から、西武鉄道沿線の母子家庭児を招待する「デニーズシート」が話題を呼んだ。 |
| 2005年秋、実家のある沖縄県北谷町に帰省していたデニーは、当地でキャンプを張る中日の落合監督から「秋季キャンプを見に来いよ」と電話で誘われて出かけたところ、いきなり「この中から好きな数字を選べ」と背番号を選ばされ、テストなしでの入団が決定。 |
| 普段着のジャージ姿で即席の入団会見を開く羽目になった。 |
| もっとも、中日には西武、横浜時代のコーチである森繁和がおり、デニーの能力を評価して落合に獲得を進言したのも彼である。 |
| なお、1年足らずの渡米でメジャ-昇格しなかったとは言え、2005年度のシーズンはMLBの在籍であり、日本人のこのような移籍の場合でも事前の身分照会が必要なのだが、中日はそれをしなかった為、一旦決定した入団を取り消す一幕もあった(後に身分照会をして改めて入団の手続きをしている)。 |
| 大洋時代から横浜、西武、横浜、中日へ至るまで、やくみつるの野球4コマ漫画に登場している。 |
| 辛口なネタにされることが多かったが、新人時代は『美少年』と言われていた。 |
| 非常に激しい気性の持ち主。 |
| 日本テレビ系列の『勇者のスタジアム・プロ野球好珍プレー』にゲスト出演した際、捕手伊東勤にタックルした近鉄のタフィ・ローズに激怒、伊東らが止めているにもかかわらず大乱闘を繰り広げ、ローズに向かって「Fuckyou!!」と吼えるVTRが流された。 |
| 司会の松岡昌宏から「やっぱり怒ったら英語ですか?」と聞かれ、「相手がアメリカ人でしたから。 |
| 普段は興奮すると、沖縄の方言ですけど」と答え、爆笑を誘っていた。 |
| また、実際に二軍の試合で判定に納得がいかず、「てーげーたんきった(いい加減、頭にきた)」と審判に向かって叫んだこともある。 |
| だが方言だったため暴言とは受け止められなかったことから、何の処分も受けなかった。 |
| 榎本加奈子主演のドラマ『おそるべしっっ!!!音無可憐さん』に、ピザ屋の店員役で出演したことがある。 |
| 映画『50回目のファースト・キス』に、病院のスタッフ役で出演したことがある。 |
| 2007年4月12日の松坂投手のボストン本拠地デビュー結果(7回3失点で敗戦投手)について「そううまくはいかないんだよ。 |
| ざまーみろ」と昔の兄貴分らしく辛口気味のコメントを発した。 |
| ボストン・レッドソックスのクローザー・ジョナサン・パペルボンとは3A時代にチームメイトだった仲で現在でもメールのやりとりがあるという。 |
| 1967年度生まれの、いわゆる桑田清原世代であるが、入団年度は同世代より1学年下である。 |
| 高校を留年した形跡はないので、小学校時代に米軍基地内のインターナショナルスクールから浦添市の公立小学校へ転入する際に、何らかの事情があったと思われる(似たケースは高校の先輩である仲田幸司)。 |
| このせいか、1学年下の潮崎哲也や、2学年下の盛田幸妃や野村弘樹、3学年下の谷繁元信からも「デニー」と敬称抜きで呼ばれることがある。 |
| 縦社会で年功序列に厳しい球界にしては、珍しい現象である。 |
| 2008年8月24日に横浜スタジアムで行われた横浜対中日で東海ラジオガッツナイター(ニッポン放送制作の裏送り)の解説を担当したが、試合途中で記録的な大雨になり試合が中止になった。 |
| 中止直後のナイター中継で放送席でしゃべっていた際、窓からちょうどベンチから出てきた中日時代のコーチでもある近藤真市の姿を見つけるや否や『近藤さ~ん!』と叫び、近藤コーチとほんの少しだけしゃべったが、もちろん様子がナイター中継でもそのまま放送された。 |
| ちなみに近藤は1968年度生まれで、デニーとはプロ入り年度が同じである。 |
| 2010年6月29日、那覇市の奥武山野球場(セルラースタジアム那覇)で35年ぶりに行なわれたプロ野球公式戦(横浜対ヤクルト)では横浜OBで沖縄出身のデニーが始球式を務めた。 |
| 高所恐怖症であり、メジャーリーグ中継で解説を務めた際に、高い建物が画面に映り、建物の高さの情報をアナウンサーがコメントすると「登りたくないですね」としばしばコメントしている。 |
| ドアラに腹パンチをかまし、うめき声を上げさせたことがある。 |
| (ドアラは基本的に無口である。 |
| 引退後は、実家のある北谷町に移住し、解説などの仕事の際に上京などをしている模様である。 |
| 2011年のキャンプ期間中のニッポン放送ショウアップナイターの特番で、「北谷オーシャンビュースタジオ」と称し、自宅から生放送したことがある。 |