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プロフィール
- トゴン・テムルとは
- 即位以前
- 治世前期の政争
- 治世後期の混乱
- 元の北走
- 后妃・皇子女
トゴン・テムル(To&947;on-Temür、 1320年5月25日-1370年5月23日)はモンゴル帝国(元朝)の第15代皇帝(大 ハーン、在位1333年7月19日—1370年5月23日)。漢字表記は妥懽貼睦爾。廟号は 恵宗であるが、明朝による追諡である 順帝の名称が使用されることが多い。モンゴル語の 尊号はウカアト・カアン(UqaγatuQa'an、オハート・ハーン)。1368年に大都を放棄してモンゴル高原に撤退したため、『明史』では1368年に帝位を失ったとして扱われる。
即位以前
| トゴンは明宗・コシラが暗殺計画を逃れるため中央アジアに滞在した際に、中央アジア北東部のテュルク系遊牧民カルルク部族の族長の娘との間に長男として生まれた。 |
| カルルクは本来チンギス・ハーン王家姻族ではなく、モンゴル王族としては母の出自はあまりよくない。 |
| 1328年(天順元年/天暦元年)、泰定帝崩御後に発生した内乱の際にはモンゴル高原を経て上都に帰還したコシラに従い元朝に復帰したが、コシラの急死により弟のトク・テムルが文宗として即位すると、トクの甥であるテムルは宮廷から遠ざけられ、はじめ高麗ついで広西に流された。 |
| 1332年(至順3年)、トクが崩御すると皇后ブダシリはトクの遺志に従いコシラの遺児をハーンに擁立することを提案、大都に留められていたトゴンの弟イリンジバルが即位したが、わずか2ヶ月で病死している。 |
| トクの即位以来政権を掌握していたエル・テムルはトクの子であるエル・テグスの即位を計画したが、その母であるブダシリにより固辞され、ブダシリによりトゴン・テムルが広西から召還されることとなった。 |
| エル・テムルにはコシラ毒殺説もあり、既に13歳となっていたトゴンがハーンに即位すれば、自らの政治的権力が低下することを恐れトゴンの即位を妨害、そのためトゴンが大都に到着した後も約半年間即位は延期され、1333年(至順4年)春、エル・テムルの病死により、夏にトゴン・テムルは即位することができた。 |
治世前期の政争
| 即位したトゴンは従弟エル・テグスを立太子、その母ブダシリが太皇太后としてトゴンの後見人としたが、実際にはエル・テムルの死後も軍閥が政権を掌握していた。 |
| 中でもエル・テムルの死後軍閥中で勢力を拡大したバヤンが中書右丞相に就任、エル・テムルの遺児による反乱を鎮圧すると、元朝内に強い影響力を有するようになった。 |
| トゴンは20歳を過ぎた頃よりバヤンの専権に反発するようになり、1340年(至元6年)、バヤンと対立していたバヤンの甥であるトクトと協力し、トクトによる政変を実行しバヤンを追放した。 |
| この政変の影響でブダシリとエル・テグスの母子は追放され、トク・テムル以来政権を掌握してきた旧勢力は一掃されることとなった。 |
| しかし新たにトクトとその父マジャルタイによる政権掌握を創出し、トクトの勢力を駆逐すべく1347年(至正7年)、トゴンはトクト父子の政敵であった父のコシラやイェスン・テムルの重臣と協力し、トクト父子を甘粛に追放、しかし新たに強大な政治勢力が生まれることを警戒し1349年(至正9年)には再びトクトを政権復帰させるなど、トゴンは重臣間の政争に積極的に関与していた。 |
| このように中央で政争が続く中、地方では天災と疫病が相次ぎ民心は元朝から急速に離反していった。 |
| 1348年(至正8年)には塩に対する厳格な専売制を採用したことにより、専売制に反対する塩の密売商人が中心となる反乱発生を契機に反元反乱が各地で続発した。 |
| 特に1351年(至正11年)に発生した紅巾の乱は中国全土に波及する大反乱となった。 |
治世後期の混乱
| 200px|thumb|元惠宗画像。 |
| 1354年(至正14年)、トクトが紅巾の乱の鎮圧に出撃する際、トクトが強大な軍事力を掌握することを恐れたトゴンはトクトを解任して追放した。 |
| これによりトゴンはハーンとしての権力を回復するが、トクトら中央政府の軍閥により維持されていた軍事力が瓦解、軍事力は地方軍閥に依存する状態になった。 |
| 治世前期には重臣間の政争に介入していたトゴンも、その後は次第に朝政への興味を失い政治の混乱を深まることとなったが。 |
| トゴンはかつて広西の配所で『論語』を学び、自ら詩文や書画を嗜むなど、漢族の文人皇帝に類似した気質があった。 |
| トゴンが高麗から広西に流された時代には、彼を帝位から遠ざけたいエル・テムルの陰謀により中央アジアで誕生したトゴンはコシラの実子ではないと宣言されていた時期もあり、民間では南宋恭帝の遺児であり、恭帝崩御後に親交のあったコシラにより引き取られたとの風聞が流布するようになっていた。 |
| またモンゴル王族に流行していたチベット仏教の秘儀に耽溺するようにもなっていた。 |
| 1353年(至正13年)に立太子されていた王子アユルシリダラが成人すると、皇太子は生母奇皇后の支援を得て政権奪取を計画、ハーンに代わって朝政を掌握していたトゴン・テムルの側近たちと激しく対立し始めた。 |
| トゴン・テムルはこの政争の調停に影響力を発揮できず、1364年(至正24年)に山西軍閥のボロト・テムルが大都を占拠して皇太子を追放、翌年には河南の軍閥ココ・テムルがアユルシリダラと協力しボロト・テムルを滅亡させることとなった。 |
| この内紛の結果、大都の中央政府の政治力と軍事力はほとんど壊滅的な状況となる。 |
元の北走
| 1368年(至正28年)、元朝は江南で反乱勢力を統一し明朝を建てた朱元璋の北伐軍に敗退した。 |
| ココ・テムルも徐達により撃破され、明軍が河北に迫るとトゴンは大都を放棄し上都に逃れた。 |
| しかし翌年には上都もまた明軍により陥落、トゴンはさらに北方に位置するモンゴル高原南部の応昌府に移動した(北元)。 |
| 1370年(至正30年)夏、トゴンは応昌府で崩御し、皇太子アユルシリダラが即位した。 |
| トゴン崩御の段階では元はモンゴル高原を中心に勢力を維持し、東は日本海から西はアルタイ山脈まで支配下に置き、さらに甘粛や雲南にも明朝に反対するモンゴル系勢力が存在し、明朝による中国支配は不安定なものであった。 |
| しかし明朝は、トゴンが大都を放棄した時点で中華王朝としての元朝が天命を失い滅亡したと見做し、トゴンやアユルシリダラを皇帝ではなく単に元主と称した。 |
| 明朝はトゴンに対し「天意に順じ明に帝位を譲った」という意味で順帝と追諡している。 |
| 実際には、トゴン以降もモンゴル高原ではクビライの血を引く者がハーンに即位し、漢風廟号を贈られた。 |
| このトゴン以降の元は、中国全土を支配した大元に対し、北元と称され区分されている。 |
后妃・皇子女
| 皇后:ダナシリ(答納失里 ?―1335)バヤウト部出身で、エル・テムルの娘。 |
| 皇后:バヤンクトゥ(伯顏忽都 1324―1365) コンギラト部出身。 |
| 子:チンキム 。 |
| 皇后:奇皇后 蒙古名ワンゼクトゥ(完者忽都)。 |
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1368年
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大都を放棄してモンゴル高原に撤退したため、... |
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つながりの強いひと
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順帝
対立
順帝(じゅんてい)は後漢の第8代皇帝。 |
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恵宗
東アジアにおける皇帝・王の廟号の一つ。高麗の恵宗(在位:943年-945年)閩の恵宗(王延鈞、在位:926年-935年)西夏の恵宗(在位:1067年-1086年)李朝の恵... |
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バヤン
対立
バヤン(ばやん) [ 日本大百科全書 ( 小学館 ) ] 【伯顔】 Bayan (1236―1294) 中国、元朝の功臣。曽祖(そうそ)以来 チンギス・ハン に仕えた バリン ... |
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トクト
トクト(托克托・脱脱、1314年-1355年)は元の宰相。漢名の字は大用。メルキト族の出身で、父はバヤンの弟であるマジャルダイ。 |
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朱元璋
中国の明朝の創始者であり、初代皇帝である。廟号は太祖(たいそ)。諡号は開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊德成功高皇帝。その治世の年号を取って、洪武... |
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トク・テムル
モンゴル帝国(元)の第12代皇帝(大ハーン、两次在位,第一次1328年10月16日—1329年4月3日,第二次1329年9月8日—1332年9月2日)。漢字表記は図帖睦爾。廟号... |
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クビライ
モンゴル帝国の第5代皇帝(大ハーン)。在位は1260年5月5日-1294年2月18日。同時代のパスパ文字モンゴル語およびモンゴル文字などの中期モンゴル語のラテン文... |
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永楽帝
中国明朝の第3代皇帝。諱は棣(てい)。廟号は太宗(たいそう)であったが、嘉靖帝の時に成祖と改称。諡号は、啓天弘道高明肇運聖武神功純仁至孝文皇帝である... |
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イリンジバル
モンゴル帝国(元)の第14代皇帝(大ハーン、在位1332年10月23日-1332年12月14日)。漢字表記は懿質班。廟号は寧宗、諡は冲聖嗣孝皇帝。名はリンチェンパルRi... |
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張士誠
元朝末期、各地に割拠した群雄の一人。泰州白駒場(現在の江蘇省大豊)の人で、元の名は張九四。弟は張士義、張士徳、張士信ら。娘婿は潘元紹。蘇州を拠点と... |
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チンギス・カン
モンゴル帝国の初代皇帝(在位:1206年-1227年)。大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国北部・中央アジ... |
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蓮教
戦国時代の浄土真宗の僧。興正寺第14世(『真宗法脈史』)。初名は経豪(きょうごう)。号は花恩院。諡号は願乗院。父は佛光寺12世性善で、甘露寺親長の猶子... |
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建文帝
明朝の第2代皇帝。靖難の変により永楽帝に簒奪されたため明代では皇帝としての存在が否定されていた。日本ではその在位中の年号「建文」から一般的に建文帝と... |
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コシラ
友達
モンゴル帝国(元)の第13代皇帝(大ハーン、在位1329年2月27日-1329年8月30日)。漢字表記は和世束1。廟号は明宗、諡は翼献景孝皇帝。モンゴル語の尊号はク... |
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鄭和
中国明代の武将。永楽帝に宦官として仕えるも軍功をあげて重用され、南海への七度の大航海の指揮を委ねられた。本姓は馬、初名は三保で、宦官の最高位である... |
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有力な反乱勢力となっていた朱元璋(洪武帝)に招聘された。朱元璋が明を建国すると、江南儒学提挙に任ぜられ太子に儒教の経典を講じた。そして、明代の礼楽... |
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アユルシリダラ(Ayur&353;iridara)はモンゴル帝国の第16代大ハーン(北元としては第2代皇帝)。モンゴル人と高麗人の混血である。1353年に皇太子となり、次... |
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世祖
世祖(セジョ、せいそ、永楽15年9月29日(1417年11月7日)-成化4年9月8日(1468年9月24日)、在位:1455年閏6月11日-1468年9月7日)は李氏朝鮮の第7代国王。... |
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ブダシリ
モンゴル帝国(元)の大ハーン、文宗トク・テムルの皇后。漢字表記は卜答失里。コンギラト部族の有力家系である魯王家の出身。母はトク・テムルの父カイシャ... |
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高啓
中国・明代初期の詩人。字は季廸、号は青邱。江蘇省蘇州の出身。「呉中四傑」の一人。娘が一人いる。 |
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トゴン・テムルさんについてのひとこと紹介
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