| アイオワ州デモイン生まれ。 |
| 1946年ポリオに感染したため、1年間は母がホームスクーリングを行った。 |
| そのため、幼稚園から小学校の2年生に編入された。 |
| 小学校はカトリック系だった。 |
| そのためか作品にカトリック教会への痛烈な批判が描かれていることがある。 |
| 1953年、一家で両親それぞれの両親が住むミネソタ州ミネアポリス/セントポールに引越した。 |
| ミネアポリスでディッシュはSFや演劇や詩に出会うことになった。 |
| 詩は彼にとって文学への入口だった。 |
| 学校の教師JeannetteCochranが100行の詩を生徒たちに暗記させた際、ディッシュはその10倍の詩を暗記してみせたという。 |
| 初期の傾向はその後の彼の詩的形式や評論の方向性にも影響を与えている。 |
| 1957年に高校を卒業すると、製図工見習いとして一時期働いている。 |
| それで資金をためるとニューヨークに上京し、マンハッタンのアパートに居を構え、様々な方面に情熱を発揮しはじめた。 |
| メトロポリタン歌劇場で合唱団員として働き、その後書店で働き、次に新聞社で働いた。 |
| 18歳になると陸軍に入隊。 |
| しかし軍隊生活は全く合わなかったようで、すぐさま3カ月間精神科に通うことになった。 |
| 除隊するとニューヨークに戻り、独特の間接的方法で芸術を再び追求しはじめた。 |
| このころ経験した職が後の成功に役立った。 |
| 演劇好きだったためニューヨークの劇場の手荷物預かり所で働き、その経験が後の演劇評論の仕事に結びついている。 |
| 最終的に保険会社に職を得て、学校にも通うようになった。 |
| 建築関連の学校に一時的に通った後、ニューヨーク大学の定時制に入学した。 |
| 中編小説創作クラスとユートピア小説クラスを受講し、そこで彼のSF作品のテーマや作風の一部が形成された。 |
| 1962年5月、彼は中間試験の勉強をする代わりに短編小説の執筆を始めた。 |
| その短編小説"TheDoubleTimer"は112.50ドルで売れた。 |
| これに気をよくしてニューヨーク大学を中退し、銀行員、死体安置所助手、編集助手などの職を転々としながら作家としての経歴を積み始めた。 |
| その後数年間はSF短編も書いているが、同時に詩にも手を出している。 |
| 詩人としてのデビュー作"EchoandNarcissus"は''MinnesotaReview''の1964年夏の号に掲載された。 |
| ディッシュがSF界に入ったころ、パルプ・マガジンでは古い冒険ものと、よりシリアスで大人っぽく暗い物語とが競合していた。 |
| これをニュー・ウェーブ運動と呼び、SFが12歳の子供の願望を表現する以上のものであることを示そうとするものだった。 |
| ニューヨークの主流文学の文壇と張り合おうという気はなかったが、ディッシュはこのSFの新たなジャンルに飛び込み、その形式と約束事からの解放を開始した。 |
| 処女長編『人類皆殺し』は1965年に出版された。 |
| より文学的なSF作品の多くはマイケル・ムアコックのニュー・ウェーブ雑誌''NewWorlds''に主に掲載された。 |
| ディッシュは世界各地を旅し、イングランド、スペイン、ローマ、メキシコなどに住んだ。 |
| それでも人生の最後の20年間はニューヨークに住み続けた。 |
| ユニオンスクエアを見下ろすアパートに長く住み、「ニューヨークという都市は私にとって世界そのものだ」と語っていた。 |
| 執筆が彼の人生の中心を占めるようになった。 |
| ディッシュはそのころの自身の変貌を単なる好事家から「したいことはわかっているが、忙しすぎてそれができない誰か」になったと表現している。 |
| 『人類皆殺し』の後、『キャンプ・コンセントレーション』や『334』を書いた。 |
| その後もSF、ゴシック小説、評論、戯曲、オペラのリブレット(「フランケンシュタイン」など)、子供向けの散文や詩、詩などを発表していった。 |
| 1980年代にはSFよりもホラー小説中心となり、『ビジネスマン』、『M・D』、''ThePriest''、''TheSub''といった一連の本をミネアポリスで出版している。 |
| また、''TheNation''、''TheWeeklyStandard''、''Harper's''、ワシントン・ポスト、ロサンゼルス・タイムズ、ニューヨーク・タイムズ、エンターテイメント・ウィークリーといった媒体に書評や演劇評を定期掲載していた。 |
| ディッシュは作家としての長い経歴の中で、様々な形式やジャンルに挑戦した。 |
| 小説家兼詩人としてディッシュはSF作家の烙印を常に感じていた。 |
| 「私は文学には階級があると思う。 |
| ''TheNewYorker''に作品を売るには私は間違った方向から来てしまった。 |
| 私がアーティストとしてどんなに優れていたとしても、彼らには私がいた場所がにおいでわかってしまう」。 |
| ディッシュは作家フィリップ・K・ディックの友人であり、ディックを尊敬していたが、ディックは1974年にディッシュを告発する偏執狂的な手紙をFBIに出したことがある。 |
| それはディッシュの『キャンプ・コンセントレーション』の中に暗号化されたメッセージが隠されていると示唆するものだった。 |
| ディッシュはこれに気づかず、フィリップ・K・ディック記念賞創設にも尽力した。 |
| ディッシュはニューヨーク市内のアパートとニューヨーク州バリービルの家を30年来のパートナーで詩人のCharlesNaylorと共有していた。 |
| ディッシュの私生活はほとんど明らかにされていない。 |
| 彼は1968年に同性愛者であることを明かしている。 |
| 同性愛的傾向は詩によく現れており、1979年の長編『歌の翼に』にも顕著である。 |
| しかし、同性愛コミュニティのために何かを書くことはなかった。 |
| インタビューでも性的傾向について語ることはほとんどなかったが、1981年にカナダのゲイ雑誌''TheBodyPolitic''のインタビューに応じている。 |
| 2005年にNaylorが亡くなると、バリービルの家を手放さざるを得なくなり、同時にアパートのNaylorのぶんの賃料まで支払うことになり、確実にうつが進行していった。 |
| 2006年4月から自殺するまで、彼はLiveJournalに詩などを定期的に発表していた |
| 最後の長編''TheWordofGod''は2008年夏に出版された。 |