| ネロの治世初期は、家庭教師でもあった哲学者ルキウス・アンナエウス・セネカや近衛長官であったセクストゥス・アフラニウス・ブッルスの補佐を受け、名君の誉れが高かった。 |
| しかし数年後にはネロとその周囲の人間(母と側近2人)との間に微妙な緊張関係が見られるようになり、それがネロの影響力に現れてくる。 |
| 例えばネロが席につくとアグリッピナは隣に座っていたが、セネカがそれを諌めている。 |
| ネロの友人もアグリッピナに不信感を抱きネロ本人に忠告してくる。 |
| またネロは妻オクタウィアには不満で、解放奴隷のアクテ(en)を寵愛していたが、アグリッピナの命でネロから離されそうになったところ、セネカの助けで事なきを得るということもあった。 |
| ネロが母親の干渉を疎ましく思うようになると、アグリッピナはかつて自らが退けたブリタンニクスに注目するようになる。 |
| この時点でもブリタンニクスは帝位継承権を有しており、その意味ではネロに代わりうる存在であった。 |
| また彼は成人式がせまっており、大人の仲間入り、すなわち帝位継承権を行使できる立場に近付いていた。 |
| そのブリタンニクスは成人の儀式目前で55年に急死した。 |
| タキトゥスによれば、ネロが毒殺したと言う。 |
| ネロとアグリッピナは一触即発状態となったが、セネカやブッルスが仲裁に入り、事無きを得た。 |
| この頃、パエトゥスなる男がブッルスや母親の取り巻きの解放奴隷マルクス・アントニウス・パッラスがファウストゥス・コルネリウス・スッラ・フェリクスの皇帝擁立を謀っていると告発したが、セネカが両名の弁護を担当し、パエトゥスは追放刑となった。 |
| しかし、カッシウス・ディオによれば、セネカもブッルスもこの事件以降、保身に努めるようになったと言う。 |
| そしてネロが妻オクタウィアと離縁し、ポッパエア・サビナと結婚しようとするとアグリッピナと対立することとなり、59年にはアグリッピナを殺害した。 |
| 62年にブッルスが死去、同年セネカが再び横領の咎で告発される。 |
| ここに至ってセネカは引退をネロに申し出る。 |
| こうしてネロは妻オクタウィアと離縁、そしてボッパエア・サビナと結婚する。 |
| ポッパエアは既に結婚していたが、夫オト(後の皇帝)は離婚させられた上、ルシタニアに左遷された。 |
| その年の6月、オクタウィアが不倫の罪で自殺させられた。 |
| さらに、女装して解放奴隷のピュータゴラースやドリュプォルスと正式に結婚して彼らの花嫁となったり、美少年スボルスを去勢させて結婚し自らの正室(皇后)に迎えたりした。 |
| ネロの権力は元老院議員の生死まで関わる問題となった。 |
| 62年に法務官職にあった者が宴席でネロの悪口を言った咎で死刑される事から始まり、パッラスを含む多くの元老院議員が処刑された。 |
| 65年に元老院議員ガイウス・カルプルニウス・ピソ(en)を皇帝に擁立する計画が発覚し、ピソに連座してセネカが自殺を命ぜられている。 |
| こうして55年のブリタンニクスの殺害に始まり、59年に母(アグリッピナ)、62年に妻(オクタウィア)、65年にセネカを殺害、加えて64年に発生したローマ大火の犯人としてキリスト教徒を迫害したことから、後世からは暴君として知られるようになる。 |
| 新約聖書の『ヨハネの黙示録』に見られる獣の数である666はネロの別名であるネロ・ケーザル(カエサル)を意味するとされる。 |
| これは、ネロ・ケーザルはヘブライ文字ではNRVNQSRと表記し、それぞれ50、200、6、50、100、60、200の数を意味し、合計すると666になるためである。 |
| ネロには四頭立て戦車の騎手や竪琴の歌手という、当時の社会では蔑まれていた芸人になりたいという願望があった。 |
| 59年には「青年祭」という私的祭典で演奏、翌60年には音楽、体育、戦車の三部門からなる「ネロ祭」を創設、64年にはナポリで初めて公式に舞台に立った。 |
| 65年の2度目の「ネロ祭」でも自ら詩を披露し竪琴を演奏した。 |
| 66年にはユダヤで大反乱が勃発する中、9月から68年初までギリシアに武者修行に出ている。 |
| イタリア凱旋時には、娯楽に飢えていた民衆に大歓迎されている。 |
| ただし、この間、上流人士にも芸を強要したため元老院議員や騎士の間ではネロに対する軽蔑や屈辱感が高まっていた。 |
| 68年3月、ガリア・ルグドゥネンシス属州総督ガイウス・ユリウス・ウィンデクスによる反乱が勃発、波及して各地の属州総督がこれに次々に同調した。 |
| ローマへの穀物輸送が絶たれ民衆の怒りも高まる。 |
| ネロはエジプトへの逃亡を決意するが、近衛隊や側用人からも見放され、6月8日夜には元老院からも「国家の敵」、即ち公敵としての宣告を受ける。 |
| ネロはローマ郊外の別荘に逃れるが、翌9日未明、騎馬兵が近づく音が聞こえるに及び、自らの喉を剣で貫き自殺。 |
| 剣にて自害のくだりはスエトニウスの『皇帝伝』の伝える所によるもので、遺骸はその後マルス広場に葬られたとされる。 |
| なお、ネロが自死した6月9日は前妻オクタウィアが死去したのと同日であった。 |