| 生来の身軽さを活かし、翌1924年の京都巡業で日本人として初めて空中飛行を成功させるなど、空中飛行専門士として活躍した。 |
| 1926年、尾上松之助の知人の紹介で日活入社。 |
| 芸名を「隼秀人」とし1927年『水戸黄門』、『剣侠』などに出演。 |
| 同年退社し東亜キネマ入り。 |
| ここでスポーツの万能さを見込まれ、怪奇時代劇『慶安妖飛録』の主役に抜擢される。 |
| 1931年、大江秀夫監督の『踊る若者』で現代劇に転じ、大正時代に「鳥人スター」として鳴らした高木新平に対して''昭和の鳥人スター''と呼ばれ、大江とのコンビで数々の活劇・冒険物に主演し人気を博した。 |
| 東亜キネマが代行会社・東活映画に受け継がれると原作・台本なども手がけ東活解散後、1932年宝塚キネマを経て1933年、同社が経営難から製作停止となると、大江とのコンビで大都映画に迎えられた。 |
| 1934年の『与太者学第一課』から「ハヤブサヒデト」と片仮名にし、1935年『闇に叫ぶ狼』からは「八代哲」名で監督にも進出。 |
| 『跳ね廻る鳥人』『裏街の大統領』『肉弾鉄壁突破』『俺の運ちゃん時代』『結婚突撃隊』『無敵乱闘王』『大当り冒険王』『消ゆるオートバイ』『街の爆弾児』『驀走する与太郎』『俺は駄々っ子』『空飛ぶ青春』など、この大都映画時代に、主演作約70本、監督作60本、自作自演の監督兼主演作約48本と獅子奮迅の活躍を見せ、大都映画の看板スターとして一世を風靡した。 |
| スタントマンなしで、ビルからビルに飛び移り、バイクでもビルの屋上や線路を疾走。 |
| サーカス仕込みの派手なアクションで大人も子供も夢中にさせた。 |
| これらは戦後の月光仮面などの原型ともいわれる。 |
| また私生活でも撮影所に颯爽とバイクで乗り付け、共演した人気女優・琴路美津子(大都映画創立者・河合徳三郎の娘)と結婚、サクセスストーリーを体現した。 |
| 1940年、映画会社の新編成にはみ出し大都を退社。 |
| 戦時に満州映画(満映)に招かれる。 |
| 渋る妻を伴い満映監督の肩書きを持って悠々満州に渡る。 |
| 第2の李香蘭づくりを指令され、新京の放送局から歌の上手な娘を自らスカウトし「顧萍」の芸名で『月弄花影』を撮るがうまくいかなかった。 |
| 他に芦田伸介のデビュー映画『血銭芙蓉』など、本名「広瀬数夫」名で3本の作品を監督し終戦。 |
| 満映理事長・甘粕正彦には可愛がられ、甘粕が自殺に服用した青酸カリを渡したのはハヤフサという。 |
| 戦後の混乱で妻を病気で亡くした後、自身も命からがら帰国。 |
| 1948年松竹入りし江戸川乱歩原作の『一寸法師』に出演しカムバック。 |
| 1949年「映画配給社(映配)」で『快傑ハヤブサ』を監督・主演するが、文芸映画の増え始めた当時の日本映画界に於いては出番は限られ、知人の紹介で1951年、山口県下関市の下関松竹の劇場支配人となる。 |
| この場所で小津安二郎監督の『東京物語』などの興行も手がけた。 |
| 1953年、新人女優だった岸惠子の主演作『疾風からす隊』の端役出演が最後となり映画界から退いた。 |
| その後下関で「バー・ハヤフサ」を経営。 |
| 二度一般人の女性と結婚した後、1970年三人目の妻を伴い東京に戻り、小岩でバーや小料理屋を経営。 |
| 1991年、埼玉県の老人ホームで86年の生涯を閉じた。 |
| 糖尿病による失明に苦しみながら、施設での生活を映画にする日を夢見て脚本を書いていたという。 |
| 大都映画の作品は、当時の評論家からも「粗製乱造」だと無視され、現在でもその評価は変わらない。 |
| また大都映画が戦時下に統合され姿を消し、フィルムの大半が消失した事もあり、ハヤフサも完全に忘れられた存在となっていた。 |
| しかし2000年代に入り現代美術家の岩井成昭が、大都映画が撮影所を置いた東京西巣鴨のNPO法人の依頼で、アートによる地域振興を進めるうちハヤフサの存在を知り、地元の子供と大人混成でハヤフサを調査。 |
| その課程を記録したドキュメンタリー映画『ハヤブサ・ヒデトを探して』と、フィルムが現存する唯一の大都映画時代のハヤフサ作品『争闘阿修羅街』が近年、東京やハヤフサの故郷・広島などで上映されたり、書籍で紹介されるなど再び光があたっている。 |