| 1865年(慶応元年)、前年の四国艦隊下関砲撃事件に際しての行動が英国政府の意に沿わないとして解任されたオールコックの後任公使に任命され、横浜に到着した赴任の途中に寄航した長崎で、近々幕府を倒す内乱が発生するとの噂を聞いている。 |
| 幕府との交渉を開始するがパークス赴任前に代理公使を務めたアレクサンダー・ウィンチェスターが本国に天皇の勅許を求めるとこと提唱しており、本国政府はそれを仏蘭米政府と検討・了承していた。 |
| 、当時将軍など幕閣の大半が第一次長州征討で江戸を留守にしていたため、パークスは仏・蘭とともに連合艦隊(米国は代理公使のみの派遣)を兵庫沖に派遣し、威圧的に幕府・朝廷と交渉。 |
| その結果、孝明天皇は条約勅許と関税率の改正は認めたが、兵庫開港は不許可とした(兵庫開港要求事件)孝明天皇の御沙汰書は、兵庫の開港を即時には認めないという内容ではなく、ロンドン覚書で確認された1868年1月1日の兵庫開港さえも認めないものであった。 |
| しかしこれは諸外国には知らされなかった。 |
| 家族を迎えるために上海に向かう途上、下関で長州藩の高杉晋作・伊藤博文と会談したこの時パークスは、長州藩が薩摩藩から密かに武器調達の協力を得ていること、その背後に長崎のイギリス商人トーマス・ブレーク・グラバーが協力していることを察知した。 |
| 1866年(慶応2年)、米仏蘭とともに幕府と改税約書に調印。 |
| グラバーの仲介で鹿児島を訪問、薩摩藩主・島津茂久(島津忠義)、その父・島津久光のほかに西郷隆盛・寺島宗則と会見した西郷は、四国艦隊の兵庫沖進出の際に兵庫開港問題で幕府のとった欺瞞策を諸外国は追求すべきと主張したが、パークスは内政不干渉を理由にこれには応じようとしなかったが、将来の薩英関係の緊密化には意欲的であった。 |
| 第二次長州征伐勃発直後、フランス公使レオン・ロッシュと共に、下関で長州藩の桂小五郎・伊藤博文らと、小倉で幕府老中小笠原長行と会談し、両者の調停をはかるが失敗した。 |
| その後、宇和島藩を訪問し、前藩主・伊達宗城らに会った。 |
| 年末、公使館を横浜から江戸泉岳寺前に移転した。 |
| 1867年(慶応3年)江戸で米価高騰による米騒動を目撃した幕府にすすめて外国米の輸入販売を許可する布告を発布させた。 |
| 大坂で徳川慶喜に謁見しこのとき徳川慶喜はまだ勅許を得ていなかったが期限どおり兵庫を開港することを確約した。 |
| パークスは、このときの慶喜の印象を「今まで会った日本人の中で最もすぐれた人物」と語り絶賛した。 |
| 、敦賀視察大坂から敦賀に行くには、京都近くの伏見・大津を通る必要がある。 |
| この情報を得た薩摩藩は、浪人を使い鷲尾隆聚等に働きかけ、「英人が伏見・大津を通行することに反対しなかった」ことを理由に広橋胤保等4人の佐幕派公家を解任させている。 |
| また、薩摩、鳥取、岡山の三藩に伏見・大津・京都の警備命令が出された。 |
| の後、大坂から海路で江戸に帰った。 |
| イギリス海軍教官受け入れ準備のため軍艦奉行・勝海舟と交渉した。 |
| 軍艦スナップ号(後にバジリスク号)で箱館から日本海を南下し、新潟・佐渡・七尾を視察した後に、長崎イギリス軍艦イカルス号水夫殺害事件、浦上信徒弾圧事件を知った。 |
| を経由し大坂に行った。 |
| 幕府に対してイカルス号水夫殺害事件の責任を厳しく追及、当初は土佐藩の関与が疑われたため、徳島経由で土佐に赴き、主に後藤象二郎と交渉した。 |
| 夫人を伴い富士山に登ったパークス夫人は1867年に富士山に登頂しているが、これは外国人女性としては始めての富士登山であった。 |
| この時点では富士山は女人禁制であったが、1832年に高山たつという女性が男装して登頂している。 |
| なお、記録に残る外国人最初の登頂者は、ラザフォード・オールコックである。 |
| 兵庫開港・大坂開市に備え大坂に行った。 |
| 王政復古の大号令が出されたために京都を離れ大坂城に入った徳川慶喜に謁見した。 |
| 250px|thumb|明治天皇との謁見に向かう途中に襲撃されたパークス一行。 |
| 1868年(明治元年)、鳥羽・伏見の戦いの勃発、幕府軍の敗北、慶喜の大坂城脱出を知った。 |
| 幕府から各国外交団の保護不可能との通達があったため兵庫へ移動した。 |
| 神戸事件が勃発、アメリカ海兵隊・フランス水兵とともにイギリス警備隊を率い備前藩兵と交戦した。 |
| 兵庫に派遣されてきた新政府使節・東久世通禧と会談、新政府の開国和親・条約遵守の方針を確認し、神戸事件についてもほぼ解決に至った。 |
| 公使団を説得しフランス公使ロッシュはこれに先立ち1人だけ江戸に戻り、徳川慶喜と会見、再起を促したが、慶喜はこれを拒否した。 |
| 、戊辰戦争への局外中立を宣言したこの局外中立宣言のため、幕府が米国から購入した装甲艦ストーンウォール(甲鉄)は、横浜に係留されることとなった。 |
| 1869年2月9日、局外中立が解除されると明治政府は甲鉄を購入。 |
| これに危機を感じた榎本武揚ら箱館政権側は、同艦の奪取作戦を計画し、宮古湾海戦が起こった。 |
| しかし作戦は失敗、結果として箱館政権は戦力を減らしてしまった。 |
| 新政府の正当性を宣言するため各国外交団に明治天皇への謁見が許されたイギリスが京都での天皇との謁見を強く主張していたのに対して、他の国々は新政府の東征軍が江戸へ向け進撃を開始していたので居留民保護のためにも早急な横浜帰還を希望していた。 |
| 矢先に堺事件がおきたが、同事件解決後に京都に行き、三条実美・岩倉具視などに会い、天皇にも謁見した御所に向かう途中に英国外交団一行は暴漢に襲われた。 |
| パークスは無事であったが、謁見は3日後に延期された。 |
| 新政府の東征軍が江戸に接近している頃に横浜へ戻り、横浜の治安維持にあたる一方、慶喜処分案や江戸無血開城に影響を与えた東征軍大総督府参謀として幕府代表勝海舟と交渉にあたった西郷隆盛がパークスの意向をうまく利用して新政府側の意見のとりまとめを行ったのではないかという見解もある。 |
| (『遠い崖』第7巻参照)。 |
| 大坂で天皇に謁見し新政府への信任状を奉呈、諸外国では最初に新政府を承認した。 |
| 1869年、岩倉具視などとの会談でフランス・オランダとともに箱館を拠点とした榎本武揚の軍勢を交戦団体と認めず、アメリカ・イタリア・プロシアと対立した。 |
| 岩倉具視と横浜駐留の英仏軍隊撤退問題など外交・内政について話し合った。 |
| 1871年、岩倉具視らと会見し、薩摩藩など諸藩の政府への不満の増大やそれに対処するための御親兵設置・廃藩置県について話し合った。 |
| 横浜駐留イギリス軍の大幅削減を本国に提案し採用された。 |
| 賜暇のためにアメリカ経由で帰国、アダムズが代理公使となった。 |
| 賜暇休暇中にイギリス本国で対日外交について政府に意見具申した。 |
| 主な内容は、(1)岩倉使節団訪英にあたって日本に帰任しようとしていたアストンを通訳として確保すること(2)日本の皇室用馬車を寄贈すべきこと(3)横浜駐留のイギリス軍隊の撤退時期について(4)廃藩置県についての意見(5)東京麹町に恒久的なイギリス公使館を設置すべきこと(6)公使館員・領事館員の待遇改善について(7)日清修好条規について、などである。 |
| 1872年、訪英中の大使岩倉具視、駐英公使寺島宗則と会見し条約改正問題について話し合った。 |
| パークスはイギリス外相グランヴィルに条約改正について以下の見解を示した。 |
| (1)外国人への国内開放(内地旅行自由化)(2)沿岸貿易への外国船の参加(3)外国資本の導入(4)関税率の改訂(5)税関行政の改善(6)関税払い戻し制度の採用もしくは保税倉庫制度の改善(7)トン税、灯台税の導入(8)国内通貨の純度維持(9)国内法廷の訴訟手続きの改善(10)外国人居留地の自治機構の確立(11)港湾規則の制定(12)日本政府官員の貿易への不当な干渉排除日本人留学生の教育や日本海軍の育成に関して尽力した。 |
| グランヴィル外相と岩倉具視・寺島宗則の条約改正予備交渉に同席、日本でのキリスト教自由化・外国人の内地旅行自由化・治外法権撤廃・横浜駐屯イギリス軍撤退・下関戦争償金などについて協議した。 |
| 1873年、日本に帰任した。 |
| 明治維新後は、日本に対して西洋文明の導入を推進するなど、日本の近代化と日英交流に貢献し、日本アジア協会の会長を務めている。 |
| ただし、条約改正問題では外務卿である寺島宗則に反対した。 |