| 大統領就任後、トルーマンは外交政策に没頭した。 |
| 1945年7月にはポツダム会談に参加した。 |
| 26日にはアメリカ・イギリス・中華民国の3国による「ポツダム宣言」が発表されたが、三カ国代表のサインはトルーマンによって書き上げられた物であった。 |
| それには太平洋戦争の勝利をソ連抜きで行おうという意図があった。 |
| 戦争に勝てないと判断した日本政府は、7月12日、ソ連にいる日本大使宛に、ソ連に和平の仲介を頼むよう打電した。 |
| その暗号電報は即座に解読され、トルーマンに知らされた。 |
| トルーマンは、日本政府が和平の動きに出たことを知っていたことになる。 |
| ポツダム入りした米陸海空軍参謀本部は、首脳会談の前に合同会議を持ち、「ソ連が参戦する予定であることと、天皇制存続を認めれば、日本の降伏は今日にでもありうる。 |
| 日本はすでに壊滅状態で、原爆を使う必要はなく、警告すれば十分。 |
| 」との結論を出した。 |
| しかしトルーマンはそれを無視した。 |
| トルーマンは、7月17日にソ連のスターリンと事前打ち合わせをした際、かねてより頼んでいた通り、ソ連が8月15日に対日参戦することを確認し、スターリンに感謝を述べた。 |
| その日トルーマンが妻に書いた手紙にも、「これで戦争が早く終わる」と安堵の気持ちを述べていた。 |
| ところがトルーマンは、7月21日に原爆実験成功の詳しい報告を受け取り、その威力のすさまじさを知ると態度を一変した。 |
| 東欧問題などで、ソ連に対し断固とした態度を示すようになった。 |
| 1945年4月の時点で原子爆弾の完成予定を知っていたトルーマンは、核の力でソ連を抑止できるという考えがあった。 |
| 日本への原子爆弾投下命令はポツダム宣言発表の一日前の7月25日に行われ、日本の返事を待つどころか降伏勧告を出す前に投下命令を出した事になる。 |
| 共和党の大物の面々が日本への原爆使用に反対していたこともあって、トルーマンは投下決定を共和党側には伏せたまま、先にスターリンに知らせた。 |
| 共和党や共和党系と見なされていた将軍たちに原爆投下決定が伝えられたのは投下の2日前であり、これは「反対を怖れるあまり自国の議員よりも先にソ連に知らせた」と共和党側をさらに激怒させた。 |
| この原爆の日本への使用については、後に共和党大統領となるアイゼンハワーなどが猛反対しており、共和党支持者の米陸海軍の将軍たち(マッカーサーも含む)は全員が反対意見を具申している。 |
| アイゼンハワーに至ってはスティムソン陸軍長官に対し「米国が世界で最初にそんなにも恐ろしく破壊的な新兵器を使用する国になるのを、私は見たくない」(1963年の回想録)と何度も激しく抗議していた。 |
| 日本がソ連への仲介を依頼していた事を無視し日本は7月7日になって近衛文麿を特使としてソ連に派遣する方針がやっと決まり、モスクワでは佐藤駐ソ大使がやっとモロトフ外務委員(外相)との会談にこぎつけていた。 |
| 「満洲を差し上げるから日本とアメリカとの終戦の仲介をして欲しい」と述べたが、モロトフは「検討した上で…」と相変わらず日本を馬鹿にした返事であった。 |
| 、異議を認めず強引に原爆投下を命令したトルーマンはアメリカ国内でも対日和平派・共和党側に強硬な批判を受けた。 |
| トルーマンが原爆投下を決定した背景として、その開発に当たって使用したアメリカ史上でも最高の、国家予算の20%(日本の国家予算の3倍)にも及ぶ、当時で19億ドルもの予算を議会に事後承諾させ、更に今後も核開発に予算を計上させるための成果が必要だった事、実戦での評価(実験)、戦後の覇権争いでソ連に対して優位に立つという目的があったとするほか、人種的偏見があったとする説もある。 |
| トルーマンは公式的な場でも原爆投下を正当化し続けていた。 |
| またトルーマンが日本へ計18発もの原爆投下を承認していた事実がワシントン.ポスト紙にスクープされている。 |
| 陸軍の完全な機密保持下に行われた原爆開発は戦後見直しを計られ、トルーマンは1945年10月に議会に対し原子力に関する教書を送った。 |
| それは原子力開発に関する管理体制についての物であった。 |
| 翌年の8月には原子力法案が成立し、原子力委員会(AEC,UnitedStatesAtomicEnergyCommissionが作られた。 |
| 1953年1月7日にトルーマンは、水素爆弾の開発を発表した。 |
| こうしてトルーマン自身は生涯、原爆投下を正当化してみせたが、この行為は人類史上、ヒトラーによるアウシュヴィッツのユダヤ人大虐殺に匹敵する人類史上最大の犯罪として記憶される。 |
| ただし、アメリカでは未だに「戦争を早期終結に導き兵士の命を救った大統領」という評価が定着している。 |
| トルーマンは原爆投下について1958年のCBSのインタビューで「まったく心が痛まなかった」と語っている。 |
| 第二次世界大戦終結後の共通の敵の不在が、米ソの利害の対立につながると悟ったトルーマンは、ソ連に対して強硬路線をとることを明確にした。 |
| また、ウッドロウ・ウィルソンの意を継ぎ国際連合の設立を強く支援し、前ファーストレディ、エレノア・ルーズベルトを含む代表団を最初の国連総会に派遣した。 |
| 彼の外交知識を疑う者もいたが、マーシャル・プランに対する広い支援の獲得と、トルーマン・ドクトリンによってヨーロッパにおけるソ連の軍事力を牽制し、外交面での成果を上げた。 |
| また、アメリカ軍の統合に関する大統領令を出した。 |
| 1948年の大統領選でトルーマンは自身の政策を「フェアディール政策」と呼び、民主党員としてルーズベルトのニューディール政策を受け継ぐ立場であることを強調した。 |
| トルーマンの敗北が広く予想されたが、彼は猛烈にキャンペーンを行い共和党候補トマス・E・デューイを破り、真の大統領としての任期を得、大統領選挙史上で最も大きな混乱のうちの一つを切り抜けた。 |
| シカゴ・トリビューン紙は混乱した大統領選の結果を「デューイ、トルーマンを破る」との見出しで誤報した。 |
| トルーマンはルーズベルトが大きな支持を与え親密な関係を保っていた中華民国の蒋介石との折り合いが悪く、後に蒋介石率いる中国国民党への支援を事実上断ち切った。 |
| その結果、ソ連の支持を受けていた毛沢東率いる中国共産党が国共内戦に勝利し、1949年に中華人民共和国が設立され、蒋介石は台湾に遷都することとなった。 |
| 二期目の就任直後にトルーマンはフェアディールの諸政策を議会に提示したが、議会多数を占める共和党や民主党保守派には受け入れられなかった。 |
| その後の朝鮮戦争の勃発で、再び外交政策へ注力せざるを得なかった。 |
| 戦況は停滞し、1950年11月国連軍総司令官のダグラス・マッカーサーは中華人民共和国本土への核攻撃を主張したが、トルーマンは戦争の拡大を恐れマッカーサーを解任した。 |
| 朝鮮戦争の行き詰まり、中華人民共和国の存在、ベトナムのフランスからの独立運動などによる人気の低下で、再選の可能性がわずかになったことを悟ったトルーマンは次の大統領選不出馬を決定した。 |
| 民主党の大統領候補はアドレー・スティーブンソンに決定した。 |
| 他の大統領と異なり、トルーマンはその任期中のほとんどをホワイトハウスで過ごさなかった。 |
| ホワイトハウスはその構造分析で19世紀前半の英軍による火災が原因で崩落の危険が示され、改築を行うことになり、コンクリートと鋼材を使用して基礎部分から再建された。 |
| トルーマンがブレア・ハウスに滞在中の1950年11月1日午後2時過ぎに、プエルトリコの国家主義者グリセリオ・トレソーラとオスカー・コラッツオが大統領の暗殺を試みた。 |
| しかし、警察官とシークレット・サービスによって阻まれ未遂に終わった。 |