| 父親の軍務の関係で、オランダやイギリスなどヨーロッパ各地を転々とする。 |
| 1782年にエルランゲン大学に1783年にエディンバラ大学に入る。 |
| 当地に2年ほどおり、1785年(18歳)にパリへ。 |
| 当地の文学者・哲学者らと交わる。 |
| この頃にパリとイギリス、スイス、オランダなどとを行き来する。 |
| ジョワノ夫人やトレヴァー夫人、シャリエール夫人(イザベル・ド・シャリエール)らを知る。 |
| とくに、1786年に出会うシャリエール夫人から文学的な影響を受ける。 |
| 1794年までドイツやスイスに滞在。 |
| 1788年、北ドイツのブラウンシュヴァイク公国でミンナ・フォン・クラム(MinnavonCramm)と出会い、彼女と結婚。 |
| 政治や宗教に関する著作を本格的に始める。 |
| 1788年には「宗教論」を刊行。 |
| しかし、結婚生活がうまくいかず、クラムとは1793年には離婚した。 |
| その年には後に妻となるシャルロッテ・フォン・ハルデンベルクと出会う。 |
| しかしこの頃のコンスタンは、1794年に出会ったジャック・ネッケルの娘・スタール夫人(ジェルメーヌ・ド・スタール)との関係が深かった。 |
| スタール夫人はすでに夫と別居状態であり、文学活動やサロンでの活動行っていた。 |
| こうしてしばらく行動をスタール夫人と共にし、スイスとパリの間を行き来するようになる。 |
| 多才であったスタール夫人からコンスタンは文学的・思想的・政治的に大いに影響を受け、1796年についには彼女の愛人になった。 |
| 翌年には彼らの間に子どもが生まれた。 |
| この頃から実際的な政治活動を始め、いくつかの選挙に出馬する。 |
| 多くはスタール夫人と活動を共にした。 |
| やがて、ナポレオン・ボナパルトが君臨し権限が彼の元に集中されていくと、彼は反ナポレオン的として当時所属していた法制審議院委員を罷免させられ政治家活動ができなくなる。 |
| またスタール夫人も反ナポレオン的な著作を行ったとして、1803年にスタール夫人はフランスから追放されてしまう。 |
| コンスタンもスタール夫人と共にフランスから逃れ、ドイツを訪問し、ゲーテやシラー、ヴィーラント、シュレーゲル兄弟(アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲル、フリードリヒ・シュレーゲル)といったドイツの文人たちと知り合う。 |
| しかし、この頃はスタール夫人との間も完全に冷え切り、彼女との別離を考えるようになっていった。 |
| この頃からスタール夫人とは頻繁に言い争いをするようになる。 |
| 1805年にかねてよりの知り合いだったシャルロッテ・フォン・ハルデンベルクに再び接近する。 |
| 彼女とは1808年に結婚するが、しかし、スタール夫人との関係も完全に断ち切ることはできず、1811年までスタール夫人との関係も続いた。 |
| 1806年頃より小説を執筆する。 |
| この頃執筆した小説がもとになり、後に心理主義小説の先駆けとなった「アドルフ」ができる。 |
| また同年、政治哲学の大著「政治原理」を執筆。 |
| 著作も活発にし、敬虔主義的な様相を見せていた。 |
| 1811年に夫婦でゲッティンゲンに滞在。 |
| 「わが人生」を執筆。 |
| また、1814年にナポレオン没落後に、パリに戻り反ナポレオン的な著作を活発にする。 |
| しかし、百日天下でナポレオンが一時的に復活すると、一転してその政府に加わり、世の非難を浴びた。 |
| この頃単身パリにおり、スタール夫人の友達であるジュリエット・レカミエ(レカミエ夫人)に熱烈な恋心を抱く。 |
| ナポレオンが再び没落した後、イギリス・ロンドンへ亡命する。 |
| 当地で「アドルフ」を出版。 |
| 他「百日天下回想録」を執筆。 |
| ルイ18世が即位すると王宛てに「弁明書」を書き、許されて1816年に再びパリに。 |
| 翌1817年長年愛人であったスタール夫人の訃報に接し彼女に対する論説を発表。 |
| この頃には自由派のリーダーのひとりに目されていた。 |
| 1818年には今までの政治的な著作を集めた「立憲政治講義」を出版。 |
| 以降、1830年まで執筆活動や講演、政治活動を積極的に行い、自由主義擁護の立場から奴隷売買反対キャンペーンなどを行い、民衆から熱烈な支持を受けた。 |
| 最晩年には七月革命において成立した七月王政を支持していた。 |
| 1830年12月7日に63歳で死去。 |
| 彼の葬儀は熱狂的な支持を集めていたパリの民衆の手によってきわめて盛大に行われた。 |